豊臣秀次の墓所 瑞泉寺へ
木屋町通り二条の島津製作所創業資料記念館を紹介しましたが、その木屋町通りを三条まで下がると高瀬川沿いにある古刹が瑞泉寺です。
ちなみに、瑞泉寺は、三条大橋西詰めにあたりますが、先日アップした、檀王法林寺は、東詰めにあたります。
瑞泉寺の山門前の石碑に「豊臣秀次公の墓」と書いてあるように、このお寺の奥に、豊臣秀次一族の墓があるので、お参りに寄ってみました。
この辺りは、夜の方が賑やかになるほど繁華街の一角に山門がありますが、私も、今までは知らずに通り過ぎていました。
豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀の子で、後に秀吉の養子となり豊臣家を継ぎ関白職を譲り受けた。しかし、秀吉と淀君との間に秀頼が生まれたことにより、関係が悪化し、秀吉の命で高野山へ追放の後、切腹されらた。享年28歳と伝わっています。
山門を入って正面には、本 堂が
境内には、秀次肖像画や側室達の和歌などが展示されているお堂があります。
角倉了以が、高瀬川掘削の際に、「秀次悪逆の塚」と刻まれた石塔を発見しました。この寺は、かつて豊臣秀次の子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原の南西詰めで処刑された一族の遺骸を埋葬した塚があった場所なんです。そして心を痛めた角倉了以は豊臣秀次とその一族の菩提を弔うためこの瑞泉寺を建立しました。
境内には秀次の墓と矢印が出ているので迷う事なく行けます。
正面の六角石塔が豊臣秀次の墓。そして秀次の墓を取り囲むように、処刑された39名と殉職した家臣の五輪卒塔婆が並んでいます。
お墓の前には、名前と年齢が分かるようになっていますが、年齢が若くて・・・。この話をすると、なんとも悲しくてやりきれない気分になります。 昨年放送されたNHK大河ドラマ「江」でも、このシーンは放送されまし、ドラマ紀行でも「瑞泉寺」が放映されました。 秀次と一族は、この地に葬られ、いつしか人々から忘れられます。 高瀬川の河川工事によって、角倉了以がその塚を見つけたことにより、瑞泉寺が建立されたんです。 なんとも凄惨で悲惨なこの件は、豊臣家の滅亡を早めたのは間違いないかも知れません。 それより秀次一族の怨念かも・・・・。
東海道53次の終点、三条大橋です。
この三条大橋を少しだけ下がると
瑞泉寺・本堂の屋根が見えています。そして、もう少し下がると先斗町の歌舞練場が見えています。このように繁華街の一角に瑞泉寺は建っています。

ちなみに、瑞泉寺は、三条大橋西詰めにあたりますが、先日アップした、檀王法林寺は、東詰めにあたります。
瑞泉寺の山門前の石碑に「豊臣秀次公の墓」と書いてあるように、このお寺の奥に、豊臣秀次一族の墓があるので、お参りに寄ってみました。
この辺りは、夜の方が賑やかになるほど繁華街の一角に山門がありますが、私も、今までは知らずに通り過ぎていました。
豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀の子で、後に秀吉の養子となり豊臣家を継ぎ関白職を譲り受けた。しかし、秀吉と淀君との間に秀頼が生まれたことにより、関係が悪化し、秀吉の命で高野山へ追放の後、切腹されらた。享年28歳と伝わっています。
山門を入って正面には、本 堂が
境内には、秀次肖像画や側室達の和歌などが展示されているお堂があります。
角倉了以が、高瀬川掘削の際に、「秀次悪逆の塚」と刻まれた石塔を発見しました。この寺は、かつて豊臣秀次の子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原の南西詰めで処刑された一族の遺骸を埋葬した塚があった場所なんです。そして心を痛めた角倉了以は豊臣秀次とその一族の菩提を弔うためこの瑞泉寺を建立しました。
境内には秀次の墓と矢印が出ているので迷う事なく行けます。
正面の六角石塔が豊臣秀次の墓。そして秀次の墓を取り囲むように、処刑された39名と殉職した家臣の五輪卒塔婆が並んでいます。
お墓の前には、名前と年齢が分かるようになっていますが、年齢が若くて・・・。この話をすると、なんとも悲しくてやりきれない気分になります。 昨年放送されたNHK大河ドラマ「江」でも、このシーンは放送されまし、ドラマ紀行でも「瑞泉寺」が放映されました。 秀次と一族は、この地に葬られ、いつしか人々から忘れられます。 高瀬川の河川工事によって、角倉了以がその塚を見つけたことにより、瑞泉寺が建立されたんです。 なんとも凄惨で悲惨なこの件は、豊臣家の滅亡を早めたのは間違いないかも知れません。 それより秀次一族の怨念かも・・・・。
東海道53次の終点、三条大橋です。
この三条大橋を少しだけ下がると
瑞泉寺・本堂の屋根が見えています。そして、もう少し下がると先斗町の歌舞練場が見えています。このように繁華街の一角に瑞泉寺は建っています。