第37回 京の夏の旅 文化財特別公開 櫻谷文庫 木島櫻谷旧宅へ
3連休の初日に、明治・大正・昭和初期にかけて活躍された、日本画家・木島櫻谷の旧宅が第37回「京の夏の旅」で公開されましたので、見に行ってきました。
私が良く訪れる等持院にほど近く、旧衣笠村の地に木島櫻谷旧宅は、ひっそり佇んでいます。 木島櫻谷(このしまおうこく)がこの地に住居をかまえたのが、1913年(大正2)のことで、当時は、田園や竹林に囲まれた自然豊かな地であったようですが、現在は住宅街に囲まれています。
嵐電北野白梅町駅から歩いて5分程度で、着きました。嵐電等持院駅からも行けますが、白梅町が少しだけ近いかと思います。
10時の拝観時間には所用があって間に合いませんでしたが、11時前には着きました。
木島櫻谷旧邸は、現在櫻谷文庫が管理され、和館・洋館・画室は、国登録有形文化財に指定されています。
門を入って正面に玄関があって、その中で拝観受付があり
「11時から次の案内が始まるため、先に台所でも見学して下さい」と案内がありました。
その台所です。
当時のまま残されています。京都では「おくどさん」と言いますが、私が育った家も、台所へは下駄やスリッパで降りなくては行けなかったので、面倒でした。
11時まで、時間少しあったので洋館と和館の外観を撮りに
当時は、棟続きだったようです。ここで「時間ですので案内します」と声を掛けられたので中に入りました。
和館は、櫻谷一家の居住として使われました。元は回廊で結ばれていたようで、母屋の建造物です。正玄関・客間・仏間・台所があります。
ガイドさんより主座敷にて、木島櫻谷の生い立ちや、ここでの生活について案内を聞きました。
1877年(明治10)京都三条室町の商家に生まれた木島文治郎(櫻谷)は、16歳で京都画壇の大家であった今尾景年に師事、早くからその才能を発揮し、景年より櫻谷の名を授かりました。明治時代には、非凡な画才を示し、動物・風景・人物など幅広い題材で名を馳せた櫻谷でしたが、明治大正期の文化人は、伝統を重んじる京都画壇の絵を酷評するようになります。しかし櫻谷は沈黙を守り、そして時代とともに孤高となり、晩年は画三昧の世界に入るようになりました。
ガイドさんより、「写真は何処を撮ってもらっても結構ですが、洋館の展示室の作品だけは、NGです」と案内がありました。約50年ほど雨戸が閉められた状態だったようで、近所の人も見に来られているようです。私も何度か等持院の帰りに、前を通っていましたが、興味深く見ていました。 今回公開れさると聞き、是非見に行こうと思っい直ぐにでも行きたかったど、猛暑のため足が向かず今日になってしまいました。
次に2階へ上がります。客間として利用されていようです。
広くて、風通しが良かったです。
櫻谷が移り住んだ頃は、田園と竹林に囲まれてて、櫻谷自身も好んでここからの風景を描きました。東に東山三十六峯、北には衣笠山を望めました。 現在は住宅街に囲まれ、北には立命館大学、東には、京都で屈指の進学校の洛星中学高等学校があって、見えません。
比叡山は見えました。東山三十六峰や大文字も見えたらしいけど、今は無理ですね。
北の方向で、衣笠山が見えたんでしょう。画室は元々庭園があったところに現在は、テニスコートがあって、その奥にあります。
和館を出て、次に洋館へ移動します。洋館の1階は、収蔵庫として使われており、公開されません。螺旋階段を上り2階は、作品の展示室及び応接室として利用されました。
2階は、作品が展示されているので、撮影しませんでしたが、大正建築の和洋折衷の空間が広がっています。櫻谷は、ここ見える竹林を眺めていたんでしょう。(立て看板の写真が洋館の2階です。)
洋館2階から見た和館です。
作品は、そんなに多く飾ってませんでした。次に洋館を出て、画室に向かいます。
画室には、2階から見えていたテニスコートの横を通っていきます。
当時、敷地の広さがわかります。右が洋館、左が和館です。
和館・洋館から少し離れたところに設けられた画室です。
80畳の広さがありますが、中は非公開で入れませんでした。ここで櫻谷は自分の絵を描き続けました。煩わしい世間から身を引き、自分の世界に埋没していきました。
この旧宅が公開されたので、木島櫻谷を知りました。また、木島櫻谷を取り上げられたテレビ番組とガイドさんの話で、いろいろい知ることができました。
公開は、9月30日まで、金・土・日のみ公開です。
私が良く訪れる等持院にほど近く、旧衣笠村の地に木島櫻谷旧宅は、ひっそり佇んでいます。 木島櫻谷(このしまおうこく)がこの地に住居をかまえたのが、1913年(大正2)のことで、当時は、田園や竹林に囲まれた自然豊かな地であったようですが、現在は住宅街に囲まれています。
嵐電北野白梅町駅から歩いて5分程度で、着きました。嵐電等持院駅からも行けますが、白梅町が少しだけ近いかと思います。
10時の拝観時間には所用があって間に合いませんでしたが、11時前には着きました。
木島櫻谷旧邸は、現在櫻谷文庫が管理され、和館・洋館・画室は、国登録有形文化財に指定されています。
門を入って正面に玄関があって、その中で拝観受付があり
「11時から次の案内が始まるため、先に台所でも見学して下さい」と案内がありました。
その台所です。
当時のまま残されています。京都では「おくどさん」と言いますが、私が育った家も、台所へは下駄やスリッパで降りなくては行けなかったので、面倒でした。
11時まで、時間少しあったので洋館と和館の外観を撮りに
当時は、棟続きだったようです。ここで「時間ですので案内します」と声を掛けられたので中に入りました。
和館は、櫻谷一家の居住として使われました。元は回廊で結ばれていたようで、母屋の建造物です。正玄関・客間・仏間・台所があります。
ガイドさんより主座敷にて、木島櫻谷の生い立ちや、ここでの生活について案内を聞きました。
1877年(明治10)京都三条室町の商家に生まれた木島文治郎(櫻谷)は、16歳で京都画壇の大家であった今尾景年に師事、早くからその才能を発揮し、景年より櫻谷の名を授かりました。明治時代には、非凡な画才を示し、動物・風景・人物など幅広い題材で名を馳せた櫻谷でしたが、明治大正期の文化人は、伝統を重んじる京都画壇の絵を酷評するようになります。しかし櫻谷は沈黙を守り、そして時代とともに孤高となり、晩年は画三昧の世界に入るようになりました。
ガイドさんより、「写真は何処を撮ってもらっても結構ですが、洋館の展示室の作品だけは、NGです」と案内がありました。約50年ほど雨戸が閉められた状態だったようで、近所の人も見に来られているようです。私も何度か等持院の帰りに、前を通っていましたが、興味深く見ていました。 今回公開れさると聞き、是非見に行こうと思っい直ぐにでも行きたかったど、猛暑のため足が向かず今日になってしまいました。
次に2階へ上がります。客間として利用されていようです。
広くて、風通しが良かったです。
櫻谷が移り住んだ頃は、田園と竹林に囲まれてて、櫻谷自身も好んでここからの風景を描きました。東に東山三十六峯、北には衣笠山を望めました。 現在は住宅街に囲まれ、北には立命館大学、東には、京都で屈指の進学校の洛星中学高等学校があって、見えません。
比叡山は見えました。東山三十六峰や大文字も見えたらしいけど、今は無理ですね。
北の方向で、衣笠山が見えたんでしょう。画室は元々庭園があったところに現在は、テニスコートがあって、その奥にあります。
和館を出て、次に洋館へ移動します。洋館の1階は、収蔵庫として使われており、公開されません。螺旋階段を上り2階は、作品の展示室及び応接室として利用されました。
2階は、作品が展示されているので、撮影しませんでしたが、大正建築の和洋折衷の空間が広がっています。櫻谷は、ここ見える竹林を眺めていたんでしょう。(立て看板の写真が洋館の2階です。)
洋館2階から見た和館です。
作品は、そんなに多く飾ってませんでした。次に洋館を出て、画室に向かいます。
画室には、2階から見えていたテニスコートの横を通っていきます。
当時、敷地の広さがわかります。右が洋館、左が和館です。
和館・洋館から少し離れたところに設けられた画室です。
80畳の広さがありますが、中は非公開で入れませんでした。ここで櫻谷は自分の絵を描き続けました。煩わしい世間から身を引き、自分の世界に埋没していきました。
この旧宅が公開されたので、木島櫻谷を知りました。また、木島櫻谷を取り上げられたテレビ番組とガイドさんの話で、いろいろい知ることができました。
公開は、9月30日まで、金・土・日のみ公開です。