往時の姿をしのばせる城跡公園 徳島城へ

徳島城博物館旧徳島城表御殿庭園を見たあと、蜂須賀家の栄華を偲び徳島城跡を見に行きました。城山を登ることになりますが、このまま帰る訳には行かないでしょう

徳島城は、明治になって解体され石垣しか残っていません。唯一解体を免れた鷲の門も戦災で焼失してしまいました。

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1989年(平成1)に復元されました。行きのバスが、この前を通ってくれて、地図を見なくても確認できした。 将軍より賜った鷲を飼うために造られたため、鷲の門と呼ばれましした。(脇戸付きの医薬門)

その鷲門の近くに徳島城跡の石碑があって。

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堀川の向こうに再建された数寄屋橋があって、城内はそちらから入ってみます。この堀川は、北に助任川、南西を寺島川に囲まれた徳島城の東を守るために造られた人工堀で、徳島城の内堀にあたります。この石垣には月見櫓が建っていました。

木製で再建された数寄屋橋

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徳島城の鬼門(北東)にあたる門が、旗櫓の下にあった数寄屋門で、その東側の堀に架けられた橋が数寄屋橋です。

数寄屋橋の内側の建つのが旗櫓(不明門)です。

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凶事以外は、開くことがなかったので不明門とも呼ばれました。

城山に向かって歩いていると、城山の貝塚がありました。

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原生林に覆われた城山の麓にあって、縄文時代後期の貝塚が残ってて、かつてここが海岸線だったことを示しています。

ここから登り階段になり、約61㍍の山頂にある本丸跡を目指します。ここから登ってしまいましたが、この先に蜂須賀家政の銅像があったんでね。見損なって残念

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途中には、徳島城の遺構である石垣を目にします。

そして、ここが東二之丸跡とその奥にある天守跡です。

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徳島城の天守(三層三階)は、この東二之丸に建っていました。天守の石垣は元々無かったようです。手前の石碑が東二之丸跡の石碑で、その奥に、天守跡の石碑が建っています。

そしてここからまだまだ登り階段が続いた先に・・・。

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秋の風が吹き始めましたが、もう汗だくです。

やっと山頂の本丸跡につきました。

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この広い本丸には、お座敷・武具櫓・馬具櫓・弓櫓・火縄櫓・お留守居番所がたっていました。

徳島藩の初代藩主は、蜂須賀至鎮で、明治まで14代つづきました。藩祖は、蜂須賀家政で、その父が蜂須賀正勝と言います。しかし、私には、蜂須賀小六が一番印象深いです。小六後の正勝と、豊臣秀吉、当時は日吉丸と矢矧川の橋(矢作橋)で会ったという逸話が有名で、何度も映画やドラマで見たことがあります。小六正勝自身は、生涯秀吉に仕えて、この阿波国には来なかったようで、大坂で生涯を閉じました。蜂須賀家の歴史をこの城山で感じました。

ここから次に向かう眉山です。

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眺望はそんなに良くなかったです。木々が邪魔して・・・。高速バスで鳴戸から来ましたが、遠くに眉山が見え、段々近づいてきて時に、「徳島に来たんだ」と思いました。 映画のタイトルにもなったし、徳島のシンボルなんでしょう。

徳島城博物館や表御殿庭園は、何人かいましたが、ここまで登ってくる人は、見かけません。と言いたいところ一人だけ登ってこれました。博物館と庭園でも見かけた人です。私と同じでお城が好きなんだなぁ

ここから西二の丸跡に降りたかったけど、間違えました

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ここから降りると階段では無くて、ゆるやかなスロープでした。距離は長いけど、ここから登ると楽かも。

最後に、下乗橋です。

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以前は、木製の橋だったようで、現在は花崗岩製です。この橋は、御殿への正面出入り口にあたります。 この橋の前で、駕籠や馬などの乗り物を降りて歩いて渡ったことから、下乗橋と呼ばれました。

これで、今日の目的は達成しました。この次は、眉山に向かいますが、その眉山の山麓に、江戸中期の名園と名水が湧くお寺があると聞き、そちらへ向かいます。つづく。



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