鳴虎で有名な報恩寺へ
「第48回 京都非公開文化財特別公開」で初公開された鳴虎 報恩寺に行ってきました。 ここの目玉は、「鳴虎図」と「厨子入千躰地蔵菩薩像」でしょう。公開が決まってからは、是非訪れたいと思いました。
報恩寺は室町時代に開祖され、1501年(文亀1)後柏原天皇の勅旨で浄土宗寺院となり、1585年(天正13)豊臣秀吉によって現在地に移されました。
報恩寺へは、嵐電で「北野白梅町駅」まで行き、そこからバスで、先日訪れた白峯神宮前で降りるつもりでした。しかし、早く「北野白梅町駅」に着いたため、歩いていくことに。30分ぐらいで「着くかなぁ」と思ったら、甘かった。
結果は、50分もかかって山門に到着しました。
その山門に手前には、石橋が架かっており、
秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘があるそうです。
ここは、混雑が予想できたので、できれば9時前には着きたかったのが本音ですが、駅から歩いてきたため、5分ほど廻ってしまったんです。しかし、行列が10名ほどだったんで「以外と空いてるなぁ」が感想でした。しかし・・・。
山門を入ったところに拝観受付があって、そこで拝観料800円を払います。案内で庭園から本堂に入るように言われます。 その庭園前にある客殿を通ります。
秋も深まり、木々が色づいています。今年は、一週間ほど色づきが早いらしい。
そして中門をくぐると
本堂前庭を通って、本堂に入ります。
本堂には、靴を脱いで入りますが、入ったら既にガイドさんより話が始まってました。それと本堂に入って驚いたことに、座って聞いている人の多いこと。想像ですが、開館前には相当の行列ができていたのでは。ちなみに、本堂内は、撮影は禁止されています。
最初に、ご本尊の説明があり、次に目玉の一つ、「鳴虎図」について案内があります。
看板の写真です。毛の一本一本が浮き出でて、虎が体をくねらせて水を飲んでいる様子が描かれています。
15世紀の中国の明で描かれた縦160センチ、横102センチの絹製で、豊臣秀吉が『虎の図』を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。それ以降、鳴虎の報恩寺と呼ばれるようになりました。普段は12年に一度、寅年の正月1日~3日のみ公開されます。
先日、六波羅蜜寺のご本尊も12年に一度しか見られませんが、この『鳴虎図』も、12年に一度しか見られないため保存状態は、良いそうです。
そして、もう一つの目玉である、「厨子入千躰地蔵菩薩像」」(鎌倉時代・重要文化財)は、厨子の高さは19.6㎝、中尊像の高さは3.3㎝。周囲に豆粒(約1㎝)ほどの千躰地蔵菩薩像がびっしり950躰余り並んでいます。驚きの世界でした。少し遅れて入ったため、話が終わったら直ぐに見せてもらいました。左廻りに見て廻りますが、その後に行列ができたのは言うまでもありません。普段は、劣化を防ぐため京都国立博物館に預けられているので、住職さんですら、2度しか見ておられないとか。まことに貴重なものを見せてもらいました。
また、次の次のNHK大河ドラマの主役である、黒田官兵衛の長男・黒田長政は、この報恩寺で亡くなられたとかで、位牌がありました。
本堂内での案内と、寺宝をゆっくり見学したあとは書院に行くことができ、そこにも中庭がありました。
寒いので、戸は閉まってますが、綺麗なお庭でした。
出口附近で、朱印をもらえる所があり、そこで少し並んでいただきました。そして図録も売っていたので、買って帰りました。
表紙が、上、織田信長。下、豊臣秀吉。これも間近で見られます。帰ってから分かったことですが、この図録は、Amazonでも購入できます。しかし、ここで買った方が、50円安かった。
帰りは、出口専用の玄関から出ます。
この出口は、受付の前にあり、そのまま山門に進むと、ガイドさんより、撞かずの鐘を案内されたので、見て帰りました。
かつて、鐘(重要文化財)は、朝夕に撞かれ、西陣一帯の織屋では、この鐘の音で仕事が終始していました。ある織屋の仲の悪い15歳の丁稚と13歳の織女が、夕刻の鐘の数を、織女は9つ、丁稚は8つと言い争い、本来は、百八煩悩を除滅するために、108つの1/12の9つが撞かれていたが、 丁稚は、寺男に頼み、その日だけ8つのみ鐘をついてもらった。織女は、負けた悲しさと悔しさで、鐘楼で首をつり自殺をしてしまいました。
それ以来、この鐘をつくと不吉なことが起こるため、供養をし、朝夕に撞くのをやめ、 毎年大晦日23:45~25:00頃までと大法要の時にのみに撞くことになったと言われています。
11月10日(土)に行きましたが、沢山の拝観者が訪れていました。多分、一番人気があったのではないかと思います。前日の夕方のNHKニュースで、報恩寺が取り上げられ、住職さんのインタービューが放送され、鳴虎図などを紹介されていました。11月2日~11日まで10日間の短い公開日でしたが、良いものを見せてもらいました。
報恩寺は室町時代に開祖され、1501年(文亀1)後柏原天皇の勅旨で浄土宗寺院となり、1585年(天正13)豊臣秀吉によって現在地に移されました。
報恩寺へは、嵐電で「北野白梅町駅」まで行き、そこからバスで、先日訪れた白峯神宮前で降りるつもりでした。しかし、早く「北野白梅町駅」に着いたため、歩いていくことに。30分ぐらいで「着くかなぁ」と思ったら、甘かった。
結果は、50分もかかって山門に到着しました。
その山門に手前には、石橋が架かっており、
秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘があるそうです。
ここは、混雑が予想できたので、できれば9時前には着きたかったのが本音ですが、駅から歩いてきたため、5分ほど廻ってしまったんです。しかし、行列が10名ほどだったんで「以外と空いてるなぁ」が感想でした。しかし・・・。
山門を入ったところに拝観受付があって、そこで拝観料800円を払います。案内で庭園から本堂に入るように言われます。 その庭園前にある客殿を通ります。
秋も深まり、木々が色づいています。今年は、一週間ほど色づきが早いらしい。
そして中門をくぐると
本堂前庭を通って、本堂に入ります。
本堂には、靴を脱いで入りますが、入ったら既にガイドさんより話が始まってました。それと本堂に入って驚いたことに、座って聞いている人の多いこと。想像ですが、開館前には相当の行列ができていたのでは。ちなみに、本堂内は、撮影は禁止されています。
最初に、ご本尊の説明があり、次に目玉の一つ、「鳴虎図」について案内があります。
看板の写真です。毛の一本一本が浮き出でて、虎が体をくねらせて水を飲んでいる様子が描かれています。
15世紀の中国の明で描かれた縦160センチ、横102センチの絹製で、豊臣秀吉が『虎の図』を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。それ以降、鳴虎の報恩寺と呼ばれるようになりました。普段は12年に一度、寅年の正月1日~3日のみ公開されます。
先日、六波羅蜜寺のご本尊も12年に一度しか見られませんが、この『鳴虎図』も、12年に一度しか見られないため保存状態は、良いそうです。
そして、もう一つの目玉である、「厨子入千躰地蔵菩薩像」」(鎌倉時代・重要文化財)は、厨子の高さは19.6㎝、中尊像の高さは3.3㎝。周囲に豆粒(約1㎝)ほどの千躰地蔵菩薩像がびっしり950躰余り並んでいます。驚きの世界でした。少し遅れて入ったため、話が終わったら直ぐに見せてもらいました。左廻りに見て廻りますが、その後に行列ができたのは言うまでもありません。普段は、劣化を防ぐため京都国立博物館に預けられているので、住職さんですら、2度しか見ておられないとか。まことに貴重なものを見せてもらいました。
また、次の次のNHK大河ドラマの主役である、黒田官兵衛の長男・黒田長政は、この報恩寺で亡くなられたとかで、位牌がありました。
本堂内での案内と、寺宝をゆっくり見学したあとは書院に行くことができ、そこにも中庭がありました。
寒いので、戸は閉まってますが、綺麗なお庭でした。
出口附近で、朱印をもらえる所があり、そこで少し並んでいただきました。そして図録も売っていたので、買って帰りました。
表紙が、上、織田信長。下、豊臣秀吉。これも間近で見られます。帰ってから分かったことですが、この図録は、Amazonでも購入できます。しかし、ここで買った方が、50円安かった。
帰りは、出口専用の玄関から出ます。
この出口は、受付の前にあり、そのまま山門に進むと、ガイドさんより、撞かずの鐘を案内されたので、見て帰りました。
かつて、鐘(重要文化財)は、朝夕に撞かれ、西陣一帯の織屋では、この鐘の音で仕事が終始していました。ある織屋の仲の悪い15歳の丁稚と13歳の織女が、夕刻の鐘の数を、織女は9つ、丁稚は8つと言い争い、本来は、百八煩悩を除滅するために、108つの1/12の9つが撞かれていたが、 丁稚は、寺男に頼み、その日だけ8つのみ鐘をついてもらった。織女は、負けた悲しさと悔しさで、鐘楼で首をつり自殺をしてしまいました。
それ以来、この鐘をつくと不吉なことが起こるため、供養をし、朝夕に撞くのをやめ、 毎年大晦日23:45~25:00頃までと大法要の時にのみに撞くことになったと言われています。
11月10日(土)に行きましたが、沢山の拝観者が訪れていました。多分、一番人気があったのではないかと思います。前日の夕方のNHKニュースで、報恩寺が取り上げられ、住職さんのインタービューが放送され、鳴虎図などを紹介されていました。11月2日~11日まで10日間の短い公開日でしたが、良いものを見せてもらいました。