『真正極楽寺(真如堂)』助成文化材特別鑑賞に参加(前編)
昨日、京都市内で桜(ソメイヨシノ)が開花しました。平年に比べ6日、昨年より12日早い開花宣言となりました。このように猛烈な早さで桜善戦は北上しています。東京では、満開宣言だそうです。あれだけ寒い冬だったのに、3月に入って、この暖かさはどうしたんでしょう。京の観光関係者は、対応に大忙しだそうです
。
ところで、丁度2週間前になりますが、3月9日(土)京都市文化観光資源保護財団主催の『真正極楽寺(真如堂)』助成文化材特別鑑賞へ行ってきました。
いつもなら早めに行って、集合時間まで境内の写真なんか撮って待つことにしてますが、私の勘違いで予定していたバスの時間を間違えたため、30分もの後のバスに乗る羽目になってしまいました
。
真如堂の名で知られている真正極楽寺は、紅葉の名所として知られており私も何度も来ています。先ずは、赤門の名で知られる総門です。
1688~1703年(元禄年間)に建立されました。敷居がないのは、神楽坂の神々が毎夜当寺に参詣するのにつまずかないようにするためだとか。
この真如堂を代表する赤門を入ると真如堂の風景が広がります。
正面に本堂、右手に三重塔を見ながら広い石畳の階段を進みます。
そして集合場所の本堂です。
1693年(元禄6)から24年もかかって建立されました。拝観受付は本堂入って左手にあります。
集合時間は、14時。その3分前に着きました。本堂の右手に多くの会員さんが座っており、既に事務局からの注意事項の周知が始まってました。 市バス「真如堂前」を降りて、東参道入口までの急な坂を一気に駆け上がり、本堂を横目に見ながら赤門まで行き、写真に撮ってから本堂に入ったわけです。息はゼイゼイ、体から汗が噴き出てきましたが、ひんやりした本堂内で汗が引きました
。
14時始まり、そこで2班に分かれます。本堂内と境内とに分かれて見学します。私は、境内の見学となり、「京都の文化財を守る会」の案内のもとたてかわ桜から案内されました。
徳川家光の乳母・春日局が、父斉藤利三の菩提を弔うために植えた物と伝わっています。
斉藤内蔵助利三は、明智光秀の重臣で本能寺変のあと、山崎の戦いで秀吉軍に敗れ近江堅田で捕えられ、六条河原で斬首されます。その首を親交の深かった東陽坊長盛と海北友松が奪って持ち帰り、真如堂に葬られました。
次に案内されたのが、阿弥陀如来露仏です。
1719年(享保46)木喰正弾上人によって造られました。
50名程度がかたまって移動します。その奥にある鐘楼です。
1759年(宝暦9)の造営。1943年(昭和18)にこの鐘は供出され、材質を調べるため2ヶ所にボーリングの跡が残っています。ガイドさんの案内で知りました。肉眼でははっきり分かりますが、写真で小さいので分かるかぁ
。
鐘楼から少し移動して、この真如堂のシンボル的な三重塔の案内です。
1817年(文化14)の再建。第一層には多宝塔がら祀られています。
次にその三重塔の前にある鎌倉地蔵です。
普段扉は、開いてません。この助成文化材特別鑑賞のためにお寺より、開けてもらっています。江戸時代にこの像を篤く信仰していた甲良豊後守宗廣の枕元にこの像が現れて「私を衆生済度の霊場である真如堂に移しなさい」と告げます。そして鎌倉から真如堂に遷座されました。
次に三重塔の向かいにある、茶所です。
仏間に祀られているのは、一光三尊の善光寺如来の御分です。
人々は有り難い善光寺如来を拝みたいと境内を埋め尽くした様子を「涼しくも野山にみつる念仏哉」と去来の句が茶所前に句碑としてありました。
50名の大人数で移動するので外観は、あとで撮りに戻りました。
。
この句碑の横に移動して、千体地蔵堂です。
元禄年間に多くの人々から小さな地蔵の寄進を受けて造営されしまた。極彩色に施された地蔵菩薩の背面に10㎝ほどの地蔵尊が千体安置されています。
次に、千体地蔵から少し離れた新長谷寺です。
藤原山陰(824~888)は、幼い頃海に落ちたところ亀に助けられました。長谷寺観音を篤く信仰していた山陰は、観音像を2体造らせ、一体は、総持寺に。もう一体は、家領の京都・吉田に移して長谷寺を建立しました。しかし明治の神仏分離の時、ここに移されたとのことです。
新長谷寺の横に元三大師堂があって、移動します。
元大三大師とは、「降魔大師」とも呼ばれた霊験ある高僧で、比叡山延暦寺第18代座主慈恵大師良原(913~985)のことです。堂内は、正面に元三大師の画像、向かって右が、地蔵尊。左に不動尊を祀っています。堂内は暗くて見にくいです。
これで、境内の諸堂の殆どを見せてもらいました。普段は、全て扉が閉まっているので、貴重な堂内を見せてもらいました。
これから本堂に戻りますが、その前に赤崎弁天を紹介されました。
池の中島に小さな祠に祀ってあります。
次に、池の周りに京都映画誕生の碑があります。
牧野省三が初めて劇映画を作った、その第1作「本能寺合戦」を撮影したのが、真如堂境内だったそうです。真如堂を本能寺に見立てたんでしょう。
そして、その横にある伝教大師像です。
天台宗を開かれた伝教大師最澄が東国を巡られたときの姿をイメージして、仏師 西村公朝師が作られました。
3月に入って、異常に気温が高い日が続いたり、またまた寒くなったり。そしてスギ花粉が最盛期に入ったりして、大分旅行から帰って、2週間がたち初めての外出となりました。
次に本堂内を見学しますが、つづく。
![](https://maps.googleapis.com/maps/api/staticmap?key=AIzaSyAQZUdkLscCYPCJreGcsUZDsFps-Iol_X4¢er=35.02166306346547,135.78953504562378&maptype=map&zoom=16&size=200x200&markers=anchor:bottom|icon:https%3a%2f%2fmap%2ebblog%2ebiglobe%2ene%2ejp%2fimages%2fgicons%2fpin_guide%2epng|35.02166306346547,135.78953504562378)
![](https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/webry/01_warai_a.gif)
ところで、丁度2週間前になりますが、3月9日(土)京都市文化観光資源保護財団主催の『真正極楽寺(真如堂)』助成文化材特別鑑賞へ行ってきました。
いつもなら早めに行って、集合時間まで境内の写真なんか撮って待つことにしてますが、私の勘違いで予定していたバスの時間を間違えたため、30分もの後のバスに乗る羽目になってしまいました
![](https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/webry/01_warai_a.gif)
真如堂の名で知られている真正極楽寺は、紅葉の名所として知られており私も何度も来ています。先ずは、赤門の名で知られる総門です。
1688~1703年(元禄年間)に建立されました。敷居がないのは、神楽坂の神々が毎夜当寺に参詣するのにつまずかないようにするためだとか。
この真如堂を代表する赤門を入ると真如堂の風景が広がります。
正面に本堂、右手に三重塔を見ながら広い石畳の階段を進みます。
そして集合場所の本堂です。
1693年(元禄6)から24年もかかって建立されました。拝観受付は本堂入って左手にあります。
集合時間は、14時。その3分前に着きました。本堂の右手に多くの会員さんが座っており、既に事務局からの注意事項の周知が始まってました。 市バス「真如堂前」を降りて、東参道入口までの急な坂を一気に駆け上がり、本堂を横目に見ながら赤門まで行き、写真に撮ってから本堂に入ったわけです。息はゼイゼイ、体から汗が噴き出てきましたが、ひんやりした本堂内で汗が引きました
![](https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/webry/01_warai_a.gif)
14時始まり、そこで2班に分かれます。本堂内と境内とに分かれて見学します。私は、境内の見学となり、「京都の文化財を守る会」の案内のもとたてかわ桜から案内されました。
徳川家光の乳母・春日局が、父斉藤利三の菩提を弔うために植えた物と伝わっています。
斉藤内蔵助利三は、明智光秀の重臣で本能寺変のあと、山崎の戦いで秀吉軍に敗れ近江堅田で捕えられ、六条河原で斬首されます。その首を親交の深かった東陽坊長盛と海北友松が奪って持ち帰り、真如堂に葬られました。
次に案内されたのが、阿弥陀如来露仏です。
1719年(享保46)木喰正弾上人によって造られました。
50名程度がかたまって移動します。その奥にある鐘楼です。
1759年(宝暦9)の造営。1943年(昭和18)にこの鐘は供出され、材質を調べるため2ヶ所にボーリングの跡が残っています。ガイドさんの案内で知りました。肉眼でははっきり分かりますが、写真で小さいので分かるかぁ
![](https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/webry/01_warai_a.gif)
鐘楼から少し移動して、この真如堂のシンボル的な三重塔の案内です。
1817年(文化14)の再建。第一層には多宝塔がら祀られています。
次にその三重塔の前にある鎌倉地蔵です。
普段扉は、開いてません。この助成文化材特別鑑賞のためにお寺より、開けてもらっています。江戸時代にこの像を篤く信仰していた甲良豊後守宗廣の枕元にこの像が現れて「私を衆生済度の霊場である真如堂に移しなさい」と告げます。そして鎌倉から真如堂に遷座されました。
次に三重塔の向かいにある、茶所です。
仏間に祀られているのは、一光三尊の善光寺如来の御分です。
人々は有り難い善光寺如来を拝みたいと境内を埋め尽くした様子を「涼しくも野山にみつる念仏哉」と去来の句が茶所前に句碑としてありました。
50名の大人数で移動するので外観は、あとで撮りに戻りました。
![](https://blog.seesaa.jp/images_w/emoji/webry/01_warai_a.gif)
この句碑の横に移動して、千体地蔵堂です。
元禄年間に多くの人々から小さな地蔵の寄進を受けて造営されしまた。極彩色に施された地蔵菩薩の背面に10㎝ほどの地蔵尊が千体安置されています。
次に、千体地蔵から少し離れた新長谷寺です。
藤原山陰(824~888)は、幼い頃海に落ちたところ亀に助けられました。長谷寺観音を篤く信仰していた山陰は、観音像を2体造らせ、一体は、総持寺に。もう一体は、家領の京都・吉田に移して長谷寺を建立しました。しかし明治の神仏分離の時、ここに移されたとのことです。
新長谷寺の横に元三大師堂があって、移動します。
元大三大師とは、「降魔大師」とも呼ばれた霊験ある高僧で、比叡山延暦寺第18代座主慈恵大師良原(913~985)のことです。堂内は、正面に元三大師の画像、向かって右が、地蔵尊。左に不動尊を祀っています。堂内は暗くて見にくいです。
これで、境内の諸堂の殆どを見せてもらいました。普段は、全て扉が閉まっているので、貴重な堂内を見せてもらいました。
これから本堂に戻りますが、その前に赤崎弁天を紹介されました。
池の中島に小さな祠に祀ってあります。
次に、池の周りに京都映画誕生の碑があります。
牧野省三が初めて劇映画を作った、その第1作「本能寺合戦」を撮影したのが、真如堂境内だったそうです。真如堂を本能寺に見立てたんでしょう。
そして、その横にある伝教大師像です。
天台宗を開かれた伝教大師最澄が東国を巡られたときの姿をイメージして、仏師 西村公朝師が作られました。
3月に入って、異常に気温が高い日が続いたり、またまた寒くなったり。そしてスギ花粉が最盛期に入ったりして、大分旅行から帰って、2週間がたち初めての外出となりました。
次に本堂内を見学しますが、つづく。