「荒城の月」の古城 岡城(前編)へ
臼杵石仏を出て、熊本との県境まで山道を進みます。空襲による戦災で焼け野原から復興した大分市に比べて、竹田市は、昔ながらの家が点在する城下町の風情がありました。
臼杵石仏から約1時間程度で、岡城駐車場に着き、そこの観覧券売所で入城料を払います。300円でした。前から評判は知ってましたが、ここのパンフレットは巻物になっていて、「ほどくのがもっていない」と思ってしまいます。
観覧券売所で100名城のスタンプを出してくれます。そして37城目をゲット。
観覧券売所横にある看板で城内の位置を確認して、受付の人に案内された右側の道を歩いて行きます。なお、トイレはここでしたほうが良いでしょう。城内にもあるますが、階段を降りたり登ったりしなくてはいけません。
最初は、歩道を進みます。そして少し歩くと、鉄砲方詰所跡と書いてある石碑を見つけました。
駐車場のあたりが、総役所跡で、城に入るために大手門をこのように歩いたんてしょうね。その途中にあるのがいっぷく茶屋で正面に石碑がありますが、訪れた日は、開いてませんでした。
駐車場から道なりに5分ぐらい歩るくと、岡城の登城口にでます。
昨年12月に訪れた、兵庫県竹田城に「似ているかなぁ」と思ったのが第一印象です。
1185年(文治1)緒方惟栄が源義経を迎えるため築城したとの伝説もありますが、1594年(文禄3)織田家旧家臣の中川秀成が6万6000石で入封して大規模な造営工事を行い、戦国山城から近世城郭へと変貌し、明治維新まで12代中川氏の居城として栄えました。
運転手さんから源義経の話が出てくるとは・・・。この石碑から大手門跡までが急な階段を登って行きます。
そして大手門跡が見えてきました。
城の正面に位置し、1613年(慶長18)に朝日が眩しいとの理由で、現在地への移転を加藤清正が指示したとされています。
その朝日が眩しかったと言われている古大手門跡です。
南に向いていて、そりゃ眩しいでしょう。敵が攻めてきても見にくいと致命傷になるからで、さすが築城の神様だけのことがあります。
城内には入ると、本丸へ向かう道と西の丸に向かう道に分かれます。本丸は後程行くとして、先に西の丸を散策します。
そしてこの階段が西の丸御殿に通じます。
この階段の道幅は20㍍もあり、全国的に見ても珍しい。
階段を上がると、東門跡があって綺麗な梅が咲いていました。
その上に稲荷社跡がありました。
さらに奥へ進むと、西の丸御殿跡があります。
3代藩主・中川久清の隠居所として建設されました。山麓との往来に不便な山上に、居館を建てたのも、岡城の特徴だと言われています。それにしても西の丸の広さには驚きです。
西の丸の奥にも、近戸門跡や家老・中川覚左衛門屋敷跡なんかありますが、ここで引き返して、本丸へ向かいました。
再び大手門跡まで戻って、本丸へ向かいますが、その前にあるのが朱印状倉跡です。
本丸へ、三の丸から二の丸へこのような石垣が続きます。
次に、家老・中川但見屋敷跡です。
岡藩の重臣の屋敷跡で、明治まで麓に降りることなく幕末を迎えたんでしょう。廃藩置県で廃城となって解体されたのが残念です。
その向かいにあったのが、中休所跡です。
ここに櫓台があり、滑瀬坂周辺を監視していました。今日では、雑木にさえぎられて見えません。また、中休み所は数人いた藩医たちの詰める場所でもあったようです。
先ほどの家老屋敷跡から本丸側に進むと、次に城代家老屋敷跡があります。
藩主が参勤交代で江戸に詰めた留守中、代わって城を守り、政務をつかさどった家老のことで、時代劇でよく聞きます。広大な西の丸内には、家老重臣の屋敷や政務を執り行った御殿がありました。岡城の中心がこの西の丸であったこには間違いありません。
ここからの眺望は、清水谷を挟んで、西の丸北側の石垣が見えています。時間の都合で行けなかったところです。
滝 廉太郎は、この竹田市で12歳から14歳まで暮らしました。そしてこの岡城を度々訪れていたようで、名曲「荒城の月」は生まれました。 屋敷も取り払われ、荒廃したイメージが強かったのでしょう。
この先、三の丸から二の丸、本丸へ続きます。後編へ。
臼杵石仏から約1時間程度で、岡城駐車場に着き、そこの観覧券売所で入城料を払います。300円でした。前から評判は知ってましたが、ここのパンフレットは巻物になっていて、「ほどくのがもっていない」と思ってしまいます。
観覧券売所で100名城のスタンプを出してくれます。そして37城目をゲット。
観覧券売所横にある看板で城内の位置を確認して、受付の人に案内された右側の道を歩いて行きます。なお、トイレはここでしたほうが良いでしょう。城内にもあるますが、階段を降りたり登ったりしなくてはいけません。
最初は、歩道を進みます。そして少し歩くと、鉄砲方詰所跡と書いてある石碑を見つけました。
駐車場のあたりが、総役所跡で、城に入るために大手門をこのように歩いたんてしょうね。その途中にあるのがいっぷく茶屋で正面に石碑がありますが、訪れた日は、開いてませんでした。
駐車場から道なりに5分ぐらい歩るくと、岡城の登城口にでます。
昨年12月に訪れた、兵庫県竹田城に「似ているかなぁ」と思ったのが第一印象です。
1185年(文治1)緒方惟栄が源義経を迎えるため築城したとの伝説もありますが、1594年(文禄3)織田家旧家臣の中川秀成が6万6000石で入封して大規模な造営工事を行い、戦国山城から近世城郭へと変貌し、明治維新まで12代中川氏の居城として栄えました。
運転手さんから源義経の話が出てくるとは・・・。この石碑から大手門跡までが急な階段を登って行きます。
そして大手門跡が見えてきました。
城の正面に位置し、1613年(慶長18)に朝日が眩しいとの理由で、現在地への移転を加藤清正が指示したとされています。
その朝日が眩しかったと言われている古大手門跡です。
南に向いていて、そりゃ眩しいでしょう。敵が攻めてきても見にくいと致命傷になるからで、さすが築城の神様だけのことがあります。
城内には入ると、本丸へ向かう道と西の丸に向かう道に分かれます。本丸は後程行くとして、先に西の丸を散策します。
そしてこの階段が西の丸御殿に通じます。
この階段の道幅は20㍍もあり、全国的に見ても珍しい。
階段を上がると、東門跡があって綺麗な梅が咲いていました。
その上に稲荷社跡がありました。
さらに奥へ進むと、西の丸御殿跡があります。
3代藩主・中川久清の隠居所として建設されました。山麓との往来に不便な山上に、居館を建てたのも、岡城の特徴だと言われています。それにしても西の丸の広さには驚きです。
西の丸の奥にも、近戸門跡や家老・中川覚左衛門屋敷跡なんかありますが、ここで引き返して、本丸へ向かいました。
再び大手門跡まで戻って、本丸へ向かいますが、その前にあるのが朱印状倉跡です。
本丸へ、三の丸から二の丸へこのような石垣が続きます。
次に、家老・中川但見屋敷跡です。
岡藩の重臣の屋敷跡で、明治まで麓に降りることなく幕末を迎えたんでしょう。廃藩置県で廃城となって解体されたのが残念です。
その向かいにあったのが、中休所跡です。
ここに櫓台があり、滑瀬坂周辺を監視していました。今日では、雑木にさえぎられて見えません。また、中休み所は数人いた藩医たちの詰める場所でもあったようです。
先ほどの家老屋敷跡から本丸側に進むと、次に城代家老屋敷跡があります。
藩主が参勤交代で江戸に詰めた留守中、代わって城を守り、政務をつかさどった家老のことで、時代劇でよく聞きます。広大な西の丸内には、家老重臣の屋敷や政務を執り行った御殿がありました。岡城の中心がこの西の丸であったこには間違いありません。
ここからの眺望は、清水谷を挟んで、西の丸北側の石垣が見えています。時間の都合で行けなかったところです。
滝 廉太郎は、この竹田市で12歳から14歳まで暮らしました。そしてこの岡城を度々訪れていたようで、名曲「荒城の月」は生まれました。 屋敷も取り払われ、荒廃したイメージが強かったのでしょう。
この先、三の丸から二の丸、本丸へ続きます。後編へ。