断崖の高石垣の名城 岡城(後編)へ
岡城・西の丸から三の丸に向かいますが、その西中仕切跡前からの眺望が素晴らしいのです。三の丸高石垣です。
岩盤の上にそそりたつ高石垣は、見事の一言です。この風景は、岡城の紹介で必ず使われます。
九州覇者を目指す島津義弘は3万5千の兵を率いて豊後岡城を攻めたのは1586年(天正14)でした。城内には17代続いた志賀親次が1000名もの兵で城を守り抜きました。標高325㍍の高さに聳える城を挟む2つの川が天然の要塞を果たしたんでしょう。後年、志賀氏は城を去り、播磨三木城から中川秀成が初代か藩主となるわけです。
西中仕切跡の貫大門跡です。
西中仕切りは、この台地でもっとも狭くなっている場所で、敵の侵入を防ぐ防御の要です。L字形に曲がった石垣は、攻めの出入り口とされています。
入って左にあるのが、鐘櫓跡です。
鐘櫓と隅櫓で折れ曲がった道を造り、敵の侵入を阻むような意図が見受けられます。
そして、いよいよ三の丸に入りますが、その入口にある太鼓櫓です。
かっては、門の上に時刻を知らせるため太鼓を打ち、城内の山火事や城下の出火など非常時を知らせる太鼓が置かれていました。
三の丸に入ると眺望の良さに驚かされます。この日は、晴れていましたが春霞がかかっていました。澄んだ日には、くじゅう連山(1786㍍大船山など)が見えるみたいです。
霞んで見えませんが、左から久住山1787㍍、大船山1786㍍、黒岳1357㍍です。京都には1000㍍を超す高い山がないので、見てみたかったです。
県下屈指の桜の名所で知られる岡城の三の丸の様子です。
見えている石垣は、本丸のです。後ほど散策します。
その本丸石垣です。
天守に相当する3重4階の御三階櫓が聳えていました。(写真右奥)
二の丸は後にして、先に本丸の登ってみました。その本丸跡です。
写真右奥に御三階櫓が建っていました。
石垣を見れば天守台かと思いましたが、天守台にしては大きいし、登ってみたら分かりました。右奥にあるのが岡城天満神社です。
ここ岡城は、滝廉太郎の「荒城の月」で有名ですが、その「荒城の月詩碑」です。
荒城の月の詩が刻まれています。
また、ここも眺望が素晴らしい。南に向いて撮りました。
下に国道502号が走ってて、遠くに祖母山1756㍍が、見えるはずですが、南向きで思い切り眩しいので無理でした。
本丸の東端に石垣があって、私は、ここが天守台かなぁと思いましたが、金倉跡でした。
眼下に白滝川が流れていて、眺望は素晴らしい。また、石垣下は、東中仕切跡のあたりです。
本丸の石段下には、空井戸がありました。
1594年(文禄3)の築城時に造られたもので、水はなく、抜け穴伝説もあります
そして、二の丸跡です。滝廉太郎像や、先端には月見櫓跡があります。
この二の丸には、数寄屋・月見櫓があり、遊興的な曲輪であったようです。
この岡城にきたら、最低でも滝廉太郎像までは、行きたいと思っていました。もし、時間が無かったら走ってでも・・・。
高等小学校の同窓生だった彫刻家の朝倉文夫が1950年(昭和25)に彫像したものです。 運転手さんには、充分すぎる時間を、ここでは取ってもらいました。予約時、旅行会社にリクエストしていたからです。
本丸から二の丸を廻ったあと、このまま東に進みます。左手に壮大な石垣を見ながら・・・。
下から見ると本丸の規模も大きかったんだと、実感できます。
本丸の石垣を過ぎると、東中仕切跡に出ます。
さきほど、本丸跡から見てました。
東仕切と廟所周辺までの通路の左右には米蔵があったそうで、その米倉跡です。
年貢米でも保管してたんでしょうか?
その米倉跡から少し進んだ左手に谷川へ少し下ると清水門跡がありました。
1771年(明和8) 城全域を巻き込んだ大火により炎上して再建されなかったようで、もとは、藩主専用の門。ここから地獄谷を下って、三日月岩から河内谷・御茶屋・馬場へ通じています。
そして今回の岡城登城で、最も東にある廟所跡です。ここまでやってきました。この先は下原門跡がありますが、そこまでは行けませんでした。
藩主の先祖代々の霊を祀る施設だったようです。
明治維新で、建物が取り壊されたのが残念でなりません。多分壮大な風景が広がってたんでしょう。石垣の美といい、とても満足して帰ることができました。やっぱり城巡りは楽しいです。ただ大分県は花粉飛散が最盛期だったようで、それには悩まされました。
余談ですが、ここの駐車場から入って、出てくるまでに出会った人は、5名でした。ほぼ独占で見られました。普段はどうなんでしょうか? 桜や紅葉の時期は多くの入城者で賑わうんでしょうね。ただ遠方だし、多分再登城はないでしょう。
岩盤の上にそそりたつ高石垣は、見事の一言です。この風景は、岡城の紹介で必ず使われます。
九州覇者を目指す島津義弘は3万5千の兵を率いて豊後岡城を攻めたのは1586年(天正14)でした。城内には17代続いた志賀親次が1000名もの兵で城を守り抜きました。標高325㍍の高さに聳える城を挟む2つの川が天然の要塞を果たしたんでしょう。後年、志賀氏は城を去り、播磨三木城から中川秀成が初代か藩主となるわけです。
西中仕切跡の貫大門跡です。
西中仕切りは、この台地でもっとも狭くなっている場所で、敵の侵入を防ぐ防御の要です。L字形に曲がった石垣は、攻めの出入り口とされています。
入って左にあるのが、鐘櫓跡です。
鐘櫓と隅櫓で折れ曲がった道を造り、敵の侵入を阻むような意図が見受けられます。
そして、いよいよ三の丸に入りますが、その入口にある太鼓櫓です。
かっては、門の上に時刻を知らせるため太鼓を打ち、城内の山火事や城下の出火など非常時を知らせる太鼓が置かれていました。
三の丸に入ると眺望の良さに驚かされます。この日は、晴れていましたが春霞がかかっていました。澄んだ日には、くじゅう連山(1786㍍大船山など)が見えるみたいです。
霞んで見えませんが、左から久住山1787㍍、大船山1786㍍、黒岳1357㍍です。京都には1000㍍を超す高い山がないので、見てみたかったです。
県下屈指の桜の名所で知られる岡城の三の丸の様子です。
見えている石垣は、本丸のです。後ほど散策します。
その本丸石垣です。
天守に相当する3重4階の御三階櫓が聳えていました。(写真右奥)
二の丸は後にして、先に本丸の登ってみました。その本丸跡です。
写真右奥に御三階櫓が建っていました。
石垣を見れば天守台かと思いましたが、天守台にしては大きいし、登ってみたら分かりました。右奥にあるのが岡城天満神社です。
ここ岡城は、滝廉太郎の「荒城の月」で有名ですが、その「荒城の月詩碑」です。
荒城の月の詩が刻まれています。
また、ここも眺望が素晴らしい。南に向いて撮りました。
下に国道502号が走ってて、遠くに祖母山1756㍍が、見えるはずですが、南向きで思い切り眩しいので無理でした。
本丸の東端に石垣があって、私は、ここが天守台かなぁと思いましたが、金倉跡でした。
眼下に白滝川が流れていて、眺望は素晴らしい。また、石垣下は、東中仕切跡のあたりです。
本丸の石段下には、空井戸がありました。
1594年(文禄3)の築城時に造られたもので、水はなく、抜け穴伝説もあります
そして、二の丸跡です。滝廉太郎像や、先端には月見櫓跡があります。
この二の丸には、数寄屋・月見櫓があり、遊興的な曲輪であったようです。
この岡城にきたら、最低でも滝廉太郎像までは、行きたいと思っていました。もし、時間が無かったら走ってでも・・・。
高等小学校の同窓生だった彫刻家の朝倉文夫が1950年(昭和25)に彫像したものです。 運転手さんには、充分すぎる時間を、ここでは取ってもらいました。予約時、旅行会社にリクエストしていたからです。
本丸から二の丸を廻ったあと、このまま東に進みます。左手に壮大な石垣を見ながら・・・。
下から見ると本丸の規模も大きかったんだと、実感できます。
本丸の石垣を過ぎると、東中仕切跡に出ます。
さきほど、本丸跡から見てました。
東仕切と廟所周辺までの通路の左右には米蔵があったそうで、その米倉跡です。
年貢米でも保管してたんでしょうか?
その米倉跡から少し進んだ左手に谷川へ少し下ると清水門跡がありました。
1771年(明和8) 城全域を巻き込んだ大火により炎上して再建されなかったようで、もとは、藩主専用の門。ここから地獄谷を下って、三日月岩から河内谷・御茶屋・馬場へ通じています。
そして今回の岡城登城で、最も東にある廟所跡です。ここまでやってきました。この先は下原門跡がありますが、そこまでは行けませんでした。
藩主の先祖代々の霊を祀る施設だったようです。
明治維新で、建物が取り壊されたのが残念でなりません。多分壮大な風景が広がってたんでしょう。石垣の美といい、とても満足して帰ることができました。やっぱり城巡りは楽しいです。ただ大分県は花粉飛散が最盛期だったようで、それには悩まされました。
余談ですが、ここの駐車場から入って、出てくるまでに出会った人は、5名でした。ほぼ独占で見られました。普段はどうなんでしょうか? 桜や紅葉の時期は多くの入城者で賑わうんでしょうね。ただ遠方だし、多分再登城はないでしょう。