不出世の天才作曲家 瀧廉太郎記念館へ

岡城を車で出て、次に向かったのが、瀧廉太郎記念館です。

山を下り、5分程度で着きましたが、旧城下町らしく細く曲がりくねった道を進みました。私が瀧廉太郎を知ることになったのは、1993年(平成5)作品の『わが愛の譜 瀧廉太郎物語』(東映・風間トオルさん主演)を映画館に見に行ったからです。

学校の音楽の授業で習いましたが、天才ピアニストとは知りませんでした。ですから、この竹田市の岡城を調べていたら、近くに記念館があったので、是非行きたいとリクエストしたんです。

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記念館の門の前で止めてもらいました。この道は、車一台が通れるぐらい細い道です。

瀧廉太郎の父親は内務省に勤めていた関係で転任が多く、廉太郎が12歳から14歳まで暮らした屋敷を現在は記念館になっており、当時のままに復元された館内には,廉太郎に関する資料が数多く展示されています。やドイツ留学中に写した舞踏曲の楽譜、友にあてた手紙などを展示。 また敷地内には、廉太郎が弟と遊んだ蔵があり、展示室として公開されています。廉太郎が使ったものと同型のオルガン、音楽学校や留学先での写真などが見学できるので、必見です。

門を入ると、瀧廉太郎がお出迎えです。

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お寺の山門のような立派な門をくぐると、右手にありました。

そして門を入って突き当たりの障子を開けると受付があります。多分、寒いから閉めてるんでしょう。遠路来たのに、休館日かと思いました。

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入館料は、300円でした。受付を済ませると、先ず、ビデオを見るように案内されます。瀧廉太郎の生涯を15分で紹介されました。このビデオで驚いたことは、一つだけ。故筑紫哲也さんが、瀧廉太郎と姻戚関係だったことです。廉太郎の妹さんのお孫さんにあたるわけです。

ビデオが終わると受付の人より、「お庭も見られますので」と案内があったので、障子を開けて降りました。

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お庭から見た記念館です。個人的には、写真が撮れるところがあって良かったです

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瀧廉太郎が感性を磨いたとされる中庭です。

下駄を履いて、庭を歩くと前途したがありました。

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受付で聞かなかったので、入ってもいいのかなぁ?と思いましたが、良いでしょう

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廉太郎が竹田市に来て、初めて尺八を手にしたそうです。名曲「荒城の月」の美しくて哀しいメロディーは、尺八の音律がにじみ出てるらしい。

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これも前途しました、同型のオルガンです。触ることはできません。

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オルガンの上には、瀧家系図があって、故筑紫哲也さんが、名誉館長であったこともわかります。

そして2階にも上がれます。

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名曲「春」「荒城の月」の歌詞が書いてありました。

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ドイツ留学時の写真です。1900年~1902年(明治33~35)頃と書いてあったので、21歳から23歳だったんですね。

お庭には、風穴の馬小屋がありました。

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凝灰岩をくり抜いて造られたらしい。瀧家では、馬小屋として使用していたと書いてありました。

再び母屋に戻って前途した、舞踏曲の楽譜や友にあてた手紙などを展示品を見て廻りました。

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展示品の殆どは、撮影禁止と書いてありました。

記念館には、私たち家族だけでした。玄関を出て、門を見ると肖像画があったので、見てからここを出ました。

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瀧廉太郎と竹田との関わりを書いてありました。

写真はありませんが、車の中から「廉太郎トンネル」を見ました。運転手さんの話では、中を歩くと廉太郎の曲がオルゴールの音色で流れるらしいです。聞いてみたかった

「花」「荒城の月」「箱根八里」「鳩ぽっぽ」「お正月」などなど誰もが一度は口ずさんだと思います。ビデオを見て、展示品を見て廻り、20年前に見た映画も思い出しました。 ピアニストとして期待されてたのに、病に倒れて、本人が一番無念だったんだろうと思います。ここを出てしばらくは、頭の中で口ずさんでいました。



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