春の昼宴 特別拝観(京料理弁当付き) 壽聖院へ

妙心寺 壽聖院(じゅしょういん)は、退蔵院から歩いて5分程度です。40名が固まって移動しますが、私は先に行きました。道順は、ついて行かなくても充分知っています

妙心寺 壽聖院 1599年(慶長4)に戦国武将・石田三成が父の正継の菩提所として創建しました、臨済宗妙心寺派の塔頭です。当時は現在の4倍以上の面積を有していましたが、 関ヶ原の戦いでの敗戦後に縮小を余儀なくされ、1611年(慶長16)に書院を残して本堂とし現在に至っています。

ここは過去も特別拝観がないので、今回のツアーで楽しみにしてました。場所は、昨年の4月に訪れた天祥院の横に山門があります。

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門前の石碑には、石田三成一族の菩提寺と書いてありました。

門を入ると正面に庫裏があって、その前に咲き始めた八重桜がありました。

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我が家の八重桜も遅咲きです。庭園のソメイヨシノは散ってましたが、せめて八重桜ても咲いてて良かったです。

その右手には本堂が見えています。

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ここで後程、住職さんから法話を聞きながら、昼食をいただきます。

そして玄関から入って、本堂に行きます。

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入って分かったことですが、今日は妙心寺で大事な行事があって住職さんが、そちらで法要中のため不在たと分かりました。

そして急遽予定が変更になって、先に食事をいただいてから法話に変更となりました。食事は、妙心寺御用達の和食店 「花ごころ」による京料理御膳です。

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急遽変更となったので、大慌てで用意されていました。御飯は筍御飯。茶そばとろろが最後に出てきました。

食事中に 住職・松山侑弘氏が帰ってこられ、お話されました。戦国歴史ファンの私にとって、もう少しゆっくり聞きたかったのが本音です。

食事が早く済んで、じっとしていても仕方ないから方丈前庭を見に行きました。

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ここの枯山水庭園は安土桃山時代の絵師・狩野永徳が手がけたもので、当時の趣を伝えます。庭園の中央にある池(※現在は水はありません)は、実は瓢箪型をしています。これは創建者である石田三成豊臣秀吉の家臣であったことから、豊臣の家紋である瓢箪をモチーフにしたと伝えられています。

住職さんの話では、ソメイヨシノは4月6日には、満開となったそうです。例年より一週間程度早いのはどこも同じですが、例の爆弾低気圧のため、綺麗に散ってしまったそうです。本当なら少しぐらい見られたかも知れません。

庭を見てたら、一人二人と増えてきたので、住職さんが話されてた肖像画を見に行きました。まだ、食事中の人もいましたが、少しお邪魔させてもらいました。食事中から見たくて見たくて仕方なかったです

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左から、父・石田正継。次に宗亨大禅師(長男)石田三成。最後に瑞岳院(母)(レプリカ・実物は大阪市立美術館に寄託)

この肖像画にある石田三成の長男の話を聞きました。石田重家は父・石田三成が六条河原で斬首されたあと、徳川家康に助命を嘆願し、壽聖院の開山である伯蒲禅師に弟子入りし、出家しました。後に済院宗享と名を変え、壽聖院の三世の住職となりました。宗亨大禅師は104歳まで生きたと伝わっています。

住職さんも話されてましたが、普通、戦国時代では、敵将が討たれると子々孫々まで打たれましたが、よく徳川家康は助けたものです。

そして住職さんとともに石田家一族のお墓を参拝します。

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右から石田正継(三成の父)、母・瑞岳院、兄・石田正澄、石田三成、三成の室・皎月院、正澄の室・竜珠院、正澄の長男・石田朝成(宝光院)、正澄の次男・石田主水正(白華院)

石田三成(右)、三成の室・皎月院(左)

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石田三成の遺骨は、大徳寺・三玄院の墓地にあって、ここには剃髪が納められていると聞きました。

その次に、案内されたのが石田三成の長男の墓です。

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宗亨大禅師・三成の長男、三成の墓地の後ろにありました。

このツアーに参加された方の目的は、桜だったと思います。私は、桜よりもこの壽聖院を見られるほうが大きかったです。

私は、特別拝観に良く行きますが、そこではガイドさんが詳しく説明してくれます。しかしこのツアーでは、詳しい説明は無かったです。こちらが質問したら返してもらえますが、大半は自由参拝です。食事をして庭を見て、三成一族の墓地を見たら終わりです。まだ本堂内で話されている人もおれば、出て行かれる人も・・・。 何か物足りなさは隠せませんでした。次回同じツアーがあっても、私は参加しないでしょう。早朝「朝粥」の退蔵院は魅力はありますけど



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