細川護煕氏の襖絵が公開された建仁寺 塔頭 正伝永源院へ
通常非公開の建仁寺 塔頭 正伝永源院で、細川護煕元首相の襖絵が特別公開れさたので、5月2日(木)の昼休みに行ってきました。
私にとって、細川護煕氏の襖絵は付録で、新緑やツツジの咲く庭を見ることが目的でした。 祇園界隈は、昼休みに散歩がてらに歩いています。ある時、建仁寺の北門で正伝永源院が特別公開されたことを知りました。その看板は桜でしたが、桜が終わったらツツジと細川護煕氏の襖絵に変わりました。桜は行けませんでしたが、いつかツツジの時期に寄ってみようと思い咲く頃まで待ってたんです。
本当は、先般訪れた「都をどり」の前か後に行く予定にしてましたが、あいにくの雨模様のため断念し、5月2日になってしまいました。この日は晴れたり曇ったりの天気でしたが、着いた頃は天気は良かったです。そして正伝永源院の表門前に着きました。
表門の中に臨時拝観受付がありました。以前、2011年に『京の冬の旅』で公開された時に、初めてここに来ています。公開もそれ以来の2年降りです。
拝観料500円 4月5(土)~5月6日(月・振替休日) 10時30分~16時30分までした。
受付で、「ツツジは咲いていますか?」と尋ねると「もう終わりかけてますが、新緑が綺麗ですよ」と案内されました。嵐山のツツジはまだ咲いていませんが、長岡天満宮のキリシマツツジは終わりかけてすす。そのため尋ねてみたんです。
入るとすぐに中門があります。
会社に戻るため、ここには20分が限度と思い来ましたが、以前、来てたのでそんなに広くないのが分かっていました。それで20分もあれば充分だと計算したんです。しかし、空いたらいいのにとは思いいましたけど・・・。
余談ですが、この祇園で連休中とその前から外国人を多く見かけるようになりました。夕方会社の帰りに建仁寺に寄ると今まで見なかった外国人が多く境内に残っています。それといろんな言葉が飛び交うようになりました。新聞に載ってましたが、ひとえに円安の影響でしょう。土産物店を始め観光業者は大歓迎でしょうけど、言葉や書いたものが分からないのかも知れませんが、マナーが・・・墓地にまで入ってきて、記念写真とは、ほとほと・・・。。
中門をくぐると歴史上の人物のお墓を目にします。先ず織田有樂斎のお墓から
織田有楽斎は、織田信長の弟として知られ、織田長益と称しました。千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えらています。有樂斎は1618年(元和4)に建仁寺の正伝院を再興し、茶室如庵を建て悠々自適な茶道三昧を送ったと伝わっています。
その隣が、有樂斎夫人(雲仙院)。
正室、お清(平手政秀の娘)。
そして、有樂斎の孫・織田長好(右)と、関白・一条昭良室(左)です。
織田有樂斎の次男・織田頼長の長男として生れ織田長好と称しました。江戸時代は、茶人として有楽流を継承し活躍したそうです。また、頼長の長女は、関白・一条昭良の妻となりました。
有樂斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたましたが、1962年(昭和37)に、有樂斎夫人・息女・孫織田長好の3基とともにここに移されたそうです。
織田有樂斎の墓の向かいに、細川家歴代の墓があります。
正伝永源院は細川家の菩提寺だそうです。その縁で、今回細川護煕氏の襖絵が゛公開されたわけです。
正伝永源院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、建仁寺39世無涯和尚が創建し、もと永源庵と称してました。しかし1873年(明治6)廃寺となったため祇園にあった正伝院を此の地へ移し、のち「永源」の名を受けつぎ、今の長い名に改めたようです。釈迦如来を本尊とし、寺宝には織田有樂斎に関する遺品が多い。正伝永源院が細川家の菩提寺で、同家の始祖・頼有の墓があり、その縁で陶芸家として活躍する細川護煕氏(元首相)に同寺の真神仁宏住職が襖絵を依頼し、その襖絵が完成したこともあって、今回、特別公開されました。
前回来た時は、2011年(平成23)の1月でした。冬枯れの庭より新緑に映えた庭を期待しつつ、唐門から入りました。
唐門を入ると靴を脱いで客殿(方丈)に上がります。
その前に期待してたキリシマツツジが残ってくれてました。
天気が良すぎて見にくくなっていますが、まだ見られました。良かったです。
ここで、方丈内の襖絵を見学しました。仏間のある襖絵は、前回も公開された狩野山楽「蓮鷲図」です。そして、仏間を挟んで東西の間には、元首相の細川護煕さん(75)が描いた東山の夜桜を表した「知音(ちいん)」と、西山の紅葉の「秋聲(しゅうせい)」で、それぞれ8面ずつ飾られていました。※襖絵は撮影禁止と書いてありました。
後日、建仁寺本坊にて、『細川護煕 襖絵と屏風の世界』が開催されました。そこでの写真は自由に撮れました。その時の模様は→後日公開します。
以前、冬枯れを見た方丈前南庭です。
やっぱり新緑は良いですね。綺麗です。今回の特別公開は、桜の時期から公開されました。その時にも行きたかったんですが、仕事の都合がつかなくて・・・。それでツツジの時期にしました。予想では南庭でにツツジが咲いているのかと思っていました。しかし、この南庭は枝垂れ桜がメインでした。もし来年も公開されるなら枝垂れ桜が咲いているかどうか、ここは外から確認できます。建仁寺境内の北側の道から咲き具合がはっきり見えるので、満開になったら入ってみたいです。
この南庭は下に降りることができました。西の端にある茶室「如庵」(複製)の内部を見学できます。そして、スリッパに履き替えて、内部を見に行きました。
本物の如庵は、名鉄犬山ホテル敷地内にあります(正伝永源院の書院も移築されてるようです)。城好きで、国宝・犬山城へは2度も行っているのに、寄らなかったのは今でも悔いが残っています。しかし月一回の公開では、日程が合わなかったのも事実です。以前の『冬の旅』の公開では、内部は撮影禁止でした。しかし、今回、内部を覗いても何も書いてなかし、案内も無かったので撮りました。しかしやっぱり本物じゃないので、物足りなさはありました。本物を見てみたい。
その如庵から客殿を撮りました。
晴れたり曇ったりの天気で、季節外れの寒さでした。ここに来てる間天気が良すぎました。
ここに入ると、1名だけ案内する人か撮影禁止を監視する人か知りませんがいました。先に来てた人を相手にされてて、私が入ってからと、後から2組来られましたが、全く知らん顔で・・・。私は20分くらいここに居ませんでしたが、その間ずっと立ち話をされてて、おかげでゆっくり写真は撮れましたが・・・。 襖絵の話は聞きたかったですね。(そもそも案内そのものが無かったかも知れません)
最後に、方丈西庭です。
ここも前回の写真と比べて見ましたが、冬枯れよりずっと新緑の方が良いです。綺麗でした。そして下に降りることもできたので。
門前に看板がありましたが、建仁寺境内の北側の道と建仁寺北門前にも看板が置いてあります。 桜の時期は、看板の写真が枝垂れ桜でした。そして桜が終わったら、いつの間に細川護煕氏の襖絵に変わってました。それでこの正伝永源院と細川護煕氏の関係が分かったんです。 方丈南庭を見るとモミジが多いので、多分紅葉も綺麗なんでしょう。
今年の秋、11月中旬頃公開予定だそうです。期待したいです。
私にとって、細川護煕氏の襖絵は付録で、新緑やツツジの咲く庭を見ることが目的でした。 祇園界隈は、昼休みに散歩がてらに歩いています。ある時、建仁寺の北門で正伝永源院が特別公開されたことを知りました。その看板は桜でしたが、桜が終わったらツツジと細川護煕氏の襖絵に変わりました。桜は行けませんでしたが、いつかツツジの時期に寄ってみようと思い咲く頃まで待ってたんです。
本当は、先般訪れた「都をどり」の前か後に行く予定にしてましたが、あいにくの雨模様のため断念し、5月2日になってしまいました。この日は晴れたり曇ったりの天気でしたが、着いた頃は天気は良かったです。そして正伝永源院の表門前に着きました。
表門の中に臨時拝観受付がありました。以前、2011年に『京の冬の旅』で公開された時に、初めてここに来ています。公開もそれ以来の2年降りです。
拝観料500円 4月5(土)~5月6日(月・振替休日) 10時30分~16時30分までした。
受付で、「ツツジは咲いていますか?」と尋ねると「もう終わりかけてますが、新緑が綺麗ですよ」と案内されました。嵐山のツツジはまだ咲いていませんが、長岡天満宮のキリシマツツジは終わりかけてすす。そのため尋ねてみたんです。
入るとすぐに中門があります。
会社に戻るため、ここには20分が限度と思い来ましたが、以前、来てたのでそんなに広くないのが分かっていました。それで20分もあれば充分だと計算したんです。しかし、空いたらいいのにとは思いいましたけど・・・。
余談ですが、この祇園で連休中とその前から外国人を多く見かけるようになりました。夕方会社の帰りに建仁寺に寄ると今まで見なかった外国人が多く境内に残っています。それといろんな言葉が飛び交うようになりました。新聞に載ってましたが、ひとえに円安の影響でしょう。土産物店を始め観光業者は大歓迎でしょうけど、言葉や書いたものが分からないのかも知れませんが、マナーが・・・墓地にまで入ってきて、記念写真とは、ほとほと・・・。。
中門をくぐると歴史上の人物のお墓を目にします。先ず織田有樂斎のお墓から
織田有楽斎は、織田信長の弟として知られ、織田長益と称しました。千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えらています。有樂斎は1618年(元和4)に建仁寺の正伝院を再興し、茶室如庵を建て悠々自適な茶道三昧を送ったと伝わっています。
その隣が、有樂斎夫人(雲仙院)。
正室、お清(平手政秀の娘)。
そして、有樂斎の孫・織田長好(右)と、関白・一条昭良室(左)です。
織田有樂斎の次男・織田頼長の長男として生れ織田長好と称しました。江戸時代は、茶人として有楽流を継承し活躍したそうです。また、頼長の長女は、関白・一条昭良の妻となりました。
有樂斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたましたが、1962年(昭和37)に、有樂斎夫人・息女・孫織田長好の3基とともにここに移されたそうです。
織田有樂斎の墓の向かいに、細川家歴代の墓があります。
正伝永源院は細川家の菩提寺だそうです。その縁で、今回細川護煕氏の襖絵が゛公開されたわけです。
正伝永源院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、建仁寺39世無涯和尚が創建し、もと永源庵と称してました。しかし1873年(明治6)廃寺となったため祇園にあった正伝院を此の地へ移し、のち「永源」の名を受けつぎ、今の長い名に改めたようです。釈迦如来を本尊とし、寺宝には織田有樂斎に関する遺品が多い。正伝永源院が細川家の菩提寺で、同家の始祖・頼有の墓があり、その縁で陶芸家として活躍する細川護煕氏(元首相)に同寺の真神仁宏住職が襖絵を依頼し、その襖絵が完成したこともあって、今回、特別公開されました。
前回来た時は、2011年(平成23)の1月でした。冬枯れの庭より新緑に映えた庭を期待しつつ、唐門から入りました。
唐門を入ると靴を脱いで客殿(方丈)に上がります。
その前に期待してたキリシマツツジが残ってくれてました。
天気が良すぎて見にくくなっていますが、まだ見られました。良かったです。
ここで、方丈内の襖絵を見学しました。仏間のある襖絵は、前回も公開された狩野山楽「蓮鷲図」です。そして、仏間を挟んで東西の間には、元首相の細川護煕さん(75)が描いた東山の夜桜を表した「知音(ちいん)」と、西山の紅葉の「秋聲(しゅうせい)」で、それぞれ8面ずつ飾られていました。※襖絵は撮影禁止と書いてありました。
後日、建仁寺本坊にて、『細川護煕 襖絵と屏風の世界』が開催されました。そこでの写真は自由に撮れました。その時の模様は→後日公開します。
以前、冬枯れを見た方丈前南庭です。
やっぱり新緑は良いですね。綺麗です。今回の特別公開は、桜の時期から公開されました。その時にも行きたかったんですが、仕事の都合がつかなくて・・・。それでツツジの時期にしました。予想では南庭でにツツジが咲いているのかと思っていました。しかし、この南庭は枝垂れ桜がメインでした。もし来年も公開されるなら枝垂れ桜が咲いているかどうか、ここは外から確認できます。建仁寺境内の北側の道から咲き具合がはっきり見えるので、満開になったら入ってみたいです。
この南庭は下に降りることができました。西の端にある茶室「如庵」(複製)の内部を見学できます。そして、スリッパに履き替えて、内部を見に行きました。
本物の如庵は、名鉄犬山ホテル敷地内にあります(正伝永源院の書院も移築されてるようです)。城好きで、国宝・犬山城へは2度も行っているのに、寄らなかったのは今でも悔いが残っています。しかし月一回の公開では、日程が合わなかったのも事実です。以前の『冬の旅』の公開では、内部は撮影禁止でした。しかし、今回、内部を覗いても何も書いてなかし、案内も無かったので撮りました。しかしやっぱり本物じゃないので、物足りなさはありました。本物を見てみたい。
その如庵から客殿を撮りました。
晴れたり曇ったりの天気で、季節外れの寒さでした。ここに来てる間天気が良すぎました。
ここに入ると、1名だけ案内する人か撮影禁止を監視する人か知りませんがいました。先に来てた人を相手にされてて、私が入ってからと、後から2組来られましたが、全く知らん顔で・・・。私は20分くらいここに居ませんでしたが、その間ずっと立ち話をされてて、おかげでゆっくり写真は撮れましたが・・・。 襖絵の話は聞きたかったですね。(そもそも案内そのものが無かったかも知れません)
最後に、方丈西庭です。
ここも前回の写真と比べて見ましたが、冬枯れよりずっと新緑の方が良いです。綺麗でした。そして下に降りることもできたので。
門前に看板がありましたが、建仁寺境内の北側の道と建仁寺北門前にも看板が置いてあります。 桜の時期は、看板の写真が枝垂れ桜でした。そして桜が終わったら、いつの間に細川護煕氏の襖絵に変わってました。それでこの正伝永源院と細川護煕氏の関係が分かったんです。 方丈南庭を見るとモミジが多いので、多分紅葉も綺麗なんでしょう。
今年の秋、11月中旬頃公開予定だそうです。期待したいです。