建仁寺 『細川護煕 襖絵と屏風の世界』(法堂遍)
5月17日(金)の昼休みを利用して、建仁寺『細川護煕 襖絵と屏風の世界』を再訪しました。
今日の目的は、渡り廊下を通って法堂内に展示してある作品を見ることで、5月7日(火)に来た時は時間の都合で、行けませんでした。
方丈から渡り廊下を通って、参道を横切って法堂に行きますが、人も車も通るので注意する必要があります。下の写真は、三門前から法堂を撮ったもので、入口は写真右側から入ります。
この日は、外国人観光客や修学旅行生が多くて、昨日紹介した潮音庭の廻りをゆっくり座って、眺めてたりして、やっぱりこの庭は、腰をおろして見てみたいものです。
建仁寺には、超有名な俵屋宗達の風神雷神図があり、複製ですがいつも展示してあります。いつもなら入口近くにあるので、出る時に寄ってみたら、ありません。あれっ、何処に? そしたら今日分かりました。
方丈内にありました。
いつもと違って、間近で見られません。本物ではありませんが、少し遠いですね。細川展の期間中に来られた人は、ガッカリされたのでは。また、金澤翔子さんの屏風もここでした。
そして、いよいよ法堂へ行きます。スリッパを履いて法堂内に入ると、中の人は上を見上げています。それは『小泉淳作画伯』筆の双龍図があるからです。
多くの寺院は撮影禁止が多いと思いますが、ここは自由に撮らせてくれます。受付では、聞きもしないのに「自由に撮って下さい」と案内されました。
それでは、細川護煕氏の作品です。
薄暗い法堂内に所狭しと展示してました。政界を引退され陶芸家に転出されたと思ってましたが、多彩なんですね。書道や絵画なんかも・・・。
法堂は直ぐに出ました。前回来てそんなに日がたってないので。そして、いつもなら俵屋宗達『風神雷神屏風図』があるところに、細川護煕氏の二曲屏風 寒山詩がありました。
銀箔の上に油絵で描かれたものです。中国に行かれた時をイメージに描かれたみです。この事は、置いてあった図録に書いてありました。
この日は、これで出ました。外からは想像できませんが、建物内は結構広いんです。大書院・小書院・3つの庭園。そして方丈内の襖絵。また、方丈から下におりて茶室へも行けますし、廊下を通って法堂も行けるので全部見るには時間必要です。時間をとってゆっくり散策されることをお勧めします。
日本新党の党首で、元祖政権交代の立役者でしたが、直ぐに退陣され同時に政界も引退し陶芸家に転出されたわけですね。 そして細川家の当主であった縁で、正伝永源院と関わりのある住職さんから依頼があったことから襖絵を書き上げ、このように建仁寺で作品を間近で見られたわけです。
今日の目的は、渡り廊下を通って法堂内に展示してある作品を見ることで、5月7日(火)に来た時は時間の都合で、行けませんでした。
方丈から渡り廊下を通って、参道を横切って法堂に行きますが、人も車も通るので注意する必要があります。下の写真は、三門前から法堂を撮ったもので、入口は写真右側から入ります。
この日は、外国人観光客や修学旅行生が多くて、昨日紹介した潮音庭の廻りをゆっくり座って、眺めてたりして、やっぱりこの庭は、腰をおろして見てみたいものです。
建仁寺には、超有名な俵屋宗達の風神雷神図があり、複製ですがいつも展示してあります。いつもなら入口近くにあるので、出る時に寄ってみたら、ありません。あれっ、何処に? そしたら今日分かりました。
方丈内にありました。
いつもと違って、間近で見られません。本物ではありませんが、少し遠いですね。細川展の期間中に来られた人は、ガッカリされたのでは。また、金澤翔子さんの屏風もここでした。
そして、いよいよ法堂へ行きます。スリッパを履いて法堂内に入ると、中の人は上を見上げています。それは『小泉淳作画伯』筆の双龍図があるからです。
多くの寺院は撮影禁止が多いと思いますが、ここは自由に撮らせてくれます。受付では、聞きもしないのに「自由に撮って下さい」と案内されました。
それでは、細川護煕氏の作品です。
薄暗い法堂内に所狭しと展示してました。政界を引退され陶芸家に転出されたと思ってましたが、多彩なんですね。書道や絵画なんかも・・・。
法堂は直ぐに出ました。前回来てそんなに日がたってないので。そして、いつもなら俵屋宗達『風神雷神屏風図』があるところに、細川護煕氏の二曲屏風 寒山詩がありました。
銀箔の上に油絵で描かれたものです。中国に行かれた時をイメージに描かれたみです。この事は、置いてあった図録に書いてありました。
この日は、これで出ました。外からは想像できませんが、建物内は結構広いんです。大書院・小書院・3つの庭園。そして方丈内の襖絵。また、方丈から下におりて茶室へも行けますし、廊下を通って法堂も行けるので全部見るには時間必要です。時間をとってゆっくり散策されることをお勧めします。
日本新党の党首で、元祖政権交代の立役者でしたが、直ぐに退陣され同時に政界も引退し陶芸家に転出されたわけですね。 そして細川家の当主であった縁で、正伝永源院と関わりのある住職さんから依頼があったことから襖絵を書き上げ、このように建仁寺で作品を間近で見られたわけです。