高山市内を散策 高山陣屋へ

平湯アルプス街道を出たバスは、目的地を高山市内に変更しました。バスの中で急遽、高山市内の観光マップが配られましたが、高山市内の地理感がないので見てても分かりません。そんな中、バスは高山市内神明駐車場に13時00分に着きました。そして添乗員さんから出発は14時10分と聞きバスを降りました。

高山市内を散策するんだったら予備知識に調べてきてのに・・・。それでも古い町並(国選定重要伝統的建造物群保存地区)は前から散策したいと思ってました。

しかし目的は高山陣屋に決め、歩いて5分程度で表門に着きました。何故ここにしたかは、私が歴史好きがあります。そして、もう一つ大きな理由は、後述します。

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月曜日の土砂降りの雨の中、それでも多くの観光客が訪れてました。写真でも雨が分かるほど降っています。この表門は1832年(天保3)に建てられたものです。表門を入って左手に拝観受けがあって、拝観料420円を払います。

この高山陣屋は全国で唯一現存する郡代・代官所跡で、1692年(元禄5)、徳川幕府は飛騨を幕府直轄領としました。それ以来、明治維新にいたるまで177年に25代の郡代・代官が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行ったところです。

拝観は御役所玄関から入ります。入ってすぐが玄関の間です。

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雨が降っているので、観光客は傘を差してます。その傘を入れる袋と靴を入れる袋を2人の受付者が案内されます。何故か?帰りはここに戻ってこないのです。

写真撮影は、何処を撮ってもOKと、資料館の展示物だけはNGを受付で尋ね確認しました。この高山陣屋はMBS毎日放送の番組『ちちんぷいぷい』のコーナーで『昔の人は偉かった 小京都遍』で放送されたものを最近見たんですね。その時の印象が残っており、高山市内を散策するなら、是非行ってみたいと思いました。

玄関廻りの建物は、江戸時代の建物が残っています。御役所・御用場と部屋が続いてます。

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御役所は、役所の中枢部で、郡代・手付が執務する部屋です。また、御用場は、地役人が執務する事務室のようなもの。

子供連れの家族は、子供が走り回るのでゆっくり見て回れないみたいで足早に・・・。ゆっくり見てるのは私ぐらい

このあと、帳綴場・寺院詰所・町年寄詰所・町組頭詰所と続きます。そこからは、玄関が見えています。

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高山陣屋は、大部分が復元された建物ですが、この玄関廻りは江戸時代そのままに残っています。

明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されました。1969年(昭和44)に飛騨兼事務所が移転したため岐阜県教育委員会が1996年(平成8)まで、3次にわたり、約20億円を費やし復元修理を行いました。そして見事な江戸時代の高山陣屋の姿が蘇ったんです。

このように歴史的建造物を見て廻るのが好きな私にとって、時間を忘れるぐらいワクワクします。その町組頭詰所から外を覗くと書物蔵が見えています.

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蔵は、江戸時代の建物だそうです。残念ならが近くでは見られません。

この並びに、地役人出勤口があります。

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先ほどの玄関が身分の高い武士が籠を乗り付けたんでしょうけど、地役人はここから出勤したんですね。時代劇を見てるようで面白い

その地役人出勤口の先には、元締役宅と手附役・手代役宅が復元されず跡地が残っています。

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その芝生が植わってるとこです。

最後に書役部屋で、ここまでが御役所にあたります。

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現在でいう事務室で主に役人が書類を作っていました。

次にこの細い廊下を渡って役宅へ行きます。

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現代で言う職場から住まいへ移動かなぁ

役宅に移動し、最初に目にするのが座敷です。

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お客様を接待するのに使用されました。

そして中ノ口です。

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役宅の出入り口として使用されました。

あと用人部屋や女中部屋があって、御奥と呼ばれる部屋があります。

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扇面の間ともよばれた奥方の部屋です。

手前が次の間、奥が御居間です。

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次の間は、お客様の控え室として使用されたもの。御居間は、嵐山の間と呼ばれた郡代の日常生活として使用されたました。ここは1830年(文政13)の絵図面を元に1996年(平成8)に復元されました。

外を見ると庭園もありました。雨に濡れた石畳が綺麗です。

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1781年~1789年(天明年間)に作り替えられ、その後も度々修復された現在に至っています。

ここは住まいです。そのため台所もありました。

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郡代などの食事を造ったところです。見たところ新しいので復元されたのが分かります。

次に食事をした茶の間、奥か女中部屋です。

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ここで食事をされたんてすね。奥に女中部屋が控えてました。

そして使用人が食事する下台所です。

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女中や使用人が食事をした場所です。先ほどの茶の間とは大きく違います。江戸時代の生活を垣間見ることができました。

その奥には土間も復元されていて、どれも興味を引かれました。そこから江戸時代の勝手土蔵が残っています。

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1841年(天保11)の建物と言われています。

雨はずっと降り続いています。今日は京都に帰るまで多分無理でしょう。雨に濡れた庭、そして建物は役宅です。

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順路にしたがって進むと再び御役所に戻ってきます。

ここから再び復元された建物と違い現存の江戸時代の建物で、大広間です。

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1816年(文化13)に改築された建物で、公式の会議に使用されたました。書院造りの建物は3室に分かれてて、ここの縁側からは前記した庭も見わたせます。

広間の奥が使者之間と呼ばれる部屋がありました。

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使者の控え室として使用。内命を伝えるときも使用されました。

この建物の最後は、御白州(吟味所)です。

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責台や抱石も置いてあります。文字どおり犯罪者を吟味するところで、拷問の道具が展示してあります。

最初に触れましたが、MBS毎日放送の番組『ちちんぷいぷい』のコーナーで『昔の人は偉かった小京都遍』が、現在放送されてます。そして何日(何ヶ月)か前に高山陣屋が放送された時、この御白州で、出演者の「くっすん」こと「U.K.(楠 雄二朗)」が特別に責台に座らせてもらって拷問?を受けてるシーンが放送されました。もちろん『特別に』と断りが入ってましたが大笑いして見てました。その時のことを覚えてたので、何処だろうと探しましたが、最後の最後でした

いったんここを出ます。そして御蔵の資料館に行くわけですが、その正面に見えているのが復元された蔵番長屋です。

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最終ここまで行き、ここから陣屋をでることになります。

あまりにゆっくり見てて、14時00分になっていました。出発が14時10分のため、時間がありません。しかし見なくて帰れないので、大急ぎで資料館内を見て廻ることに。御蔵の外観です。

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1695年(元禄8)に高山城の三の丸から移築されたもの。創建以来400年の歴史があり、年代・規模ともに最古・最大級の米倉と言われています。そして内部の資料館は撮影禁止と書いてあったし、最初に受付にて確認しているので写真はありません。しかし、帰ってからどうしても思い出せない

帰りは、再び表門をとおり門番所を見学すことができます。

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ここを出る時、残り5分しかなく、本当は帰りに撮影する予定てした。時間がないので、行きに撮った写真を使いました。

雨の中、大急ぎでバスの駐車場に戻りました。もちろんトイレは済ませて・・・。道に迷うほどの距離でもないし、若い頃、配達の仕事もしてたので、一度通れば迷いません。 それにしても夢中で見てしまいました。古い街並みを見損ねた後悔を帰ってから少しあります。最終に続く。



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