明智光秀一族の菩提寺 西教寺へ

食事時間がたっぷり取ってあったので、殆どのツアー客が傘をさして出て来られてました。ここでの再集合時間は、13時10分てした。時間前にはバスガイドさんが来られたので、皆さん後を付いて行きます。そしてバスガイドさんから案内されたところは、西教寺大本坊でした。

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1958年(昭和33)の改築。天台真盛宗宗務所・寺務所が、この中にあって、全国の門末寺院を統括していています。

1571年(元亀2)織田信長の比叡山焼き討ちによって西教寺の本堂をはじめ伽藍の多くが全焼し焼失しました。のちに坂本城主となった明智光秀が西教寺を一族の菩提樹にしようと復興には特に心を用い大壇越となって、坂本城の陣屋を寄進して再建したのが大本坊です。

入ると受付で、朱印帳を預けました。バスガイドさんはここまで。ここから寺の僧侶の方が案内され、まず本堂に向かいます。

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大食堂から大本坊に向かう途中で撮りました。ここが正面だと思ったんですが、違ってた

お寺の方の後をツアー客がついて行きます。そして立ち止まれたのが鐘楼前です。

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鐘楼と本堂とロープで結ばれています。(写真では分かりにくいかと思います。)その説明を聞いてると、ある事に気がつきました。傘が無い折りたたみの傘が無い。何処に「そうだ、受付だ」それで受付まで私だけが戻ったんです。だから、ここのエピソードは聞いてません。残念

1739年(元文4)に紀州徳川家からの寄進により完成。ご本尊は、重要文化財の阿弥陀如来(平安時代)が安置されています。

私が戻ったら、ツアー客は、本堂正面に移動してました。

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話は明智光秀一族のお墓について説明されてました。写真は撮りましたが、逆光で・・・あとの自由時間で撮りに行こうと思ったけど・・行けませんでした。

このあと本堂に入って、この西教寺についての歴史などを詳しく話されました。「天台真盛宗って、ご存じでしたか?」と聞かれましたが、私は初めてききました。この西教寺は、全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山だそうです。

ここで最初から気になることがあって、念仏と鉦(かね)の音が絶え間なく低く響き渡り、独特の雰囲気が漂っていたんです。案内では、一日も絶え間なく続いてるとのお話でした。

そして本堂を出て次に客殿に向かいます。

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本堂から客殿には、渡り廊下で通じいます。本堂での話が長かったのか、ここからは駆け足の説明で、客殿内の襖絵も見応えあったんですが・・・ゆっくり見てたから置いて行かれるので・・・。

もとは豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿で、1596年(慶長3)に大谷刑部吉隆の母・山中長俊守内室が寄進したものと伝わっています。撮影禁止の室内にはそれぞれ狩野派の襖絵が描かれてました。賢人の間の内仏は京都法勝寺伝来の秘仏薬師如来座像(重要文化財)だそうです。

そして、この客殿の裏側にお目当ての庭園がありました。客殿庭園(小堀遠州作)です。

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ここだけは、ゆっくり写真を撮らせてもらいました。

ご覧のように、この庭園は裏山の急傾斜を巧みに利用しています。また、中央の池泉は琵琶の姿を取り入れた瓢型で、山畔の下部と池泉との間に小丘坡を築いた二つの石組で構成されています。

次に書院に移動です。そして目にしたのが、あの穴太衆が作庭した書院庭園です。

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穴太積で有名な石垣職人集団である穴太衆が庭園を作庭したと聞き不思議に思いました。

明治初年の作庭で、ここ坂本一帯で造園した穴太衆の手によるものとされています。城巡りでは穴太積みの石垣は、よく見かけますが、日本庭園は初めて見ました。

ここで案内の僧侶の方と分かれました。書院内では、明智光秀展が開催されてて、それを見学。

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明智光秀の肖像画や光秀像など見学。それしても展示品が少なすぎ(もちろん、写真だけではありません。他にもありましたが、あまり印象に残っていない 戦国歴史ファンなのに・・・)

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このあとは、先を急ぎました。(集合時間が近づいてたので・・・)磨崖仏が並んでいましたが・・・歴史や理由は分かりません。

再び本坊に戻って、お茶をいただいて時計を見ると本当に時間がありません。朱印帳を受け取り、本堂を正面からと明智光秀一族のお墓を見に行こうと思ったら、ふと横見ると枯山水の庭園が。

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先ほど穴太衆の庭園と同じ、枯山水です。綺麗に手入れされ、思わず目にとまりました。

走ってでも本堂正面と明智一族のお墓を見てこようと思いましたが、再集合の時間になってました。正直、本堂内での案内が予定外に長かったからと思います。先輩は「行っておいでよ」とは言ってくれたんですが、団体行動に遅刻は厳禁です

番外ですが、本来の参拝は総門をとおります。ただバスは駐車場に入るために素通りでした。

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この総門は 天正年間に坂本城主明智光秀が坂本城門を移築したと伝えられています。1984年(昭和59)に修理が加えられましたが、往時の姿のまま復元されました。(写真は借り物です) この門からつづく参道脇の紅葉が見事らしい。(いつかは、見てみたいですね)

滋賀県大津市に勤めてたとき、上司から「穴太って、知ってるけ?」と言われたんです。まだ大津に来て日もたってない頃に・・・。当然知らなかったので、「知りません」と返答したところ「滋賀県で穴太を知らなかったら潜りだぞ」と言われたことを思い出しました。面白い人で・・・滋賀弁まるだしで・・・飲んでも楽しい先輩でした。滋賀は楽しかったので、ほぼ毎日飲んで帰ってました。そんなことを坂本に来て思い出した次第です

西教寺の駐車場を14時00分出発の予定でしたが、少し遅れました。これはツアー客の責任じゃありません。そして、この日の最後の目的地である石山寺に向かいました。つづく。