第48回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 寺町 阿弥陀寺へ
大黒屋鎌餅本舗を出て、次に目と鼻の先にある織田信長菩提所 寺町 阿弥陀寺に行きました。
第48回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開で、12年振りに公開されましたと言っても、境内はいつでも自由散策でき、織田信長の墓所もいつでもお参りできます。ただ本堂は、毎年6月2日の信長忌以外は入れません。
妙顕寺から寺町 阿弥陀寺に行く途中に、俵屋吉富と大黒屋鎌餅本舗に寄ったということです。大黒屋鎌餅本舗から寺町 阿弥陀寺の山門は見えています。
通常非公開と言っても境内は自由散策できるので、2012年3月に一度訪れました。冬の旅の看板が出てるので、目印です。
入って右側の本堂の前に臨時の拝観受付が設けられてました。
拝観期間:1月10日(金)~3月18日(火) 拝観時間:10時00分~16時00分(受付終了) 拝観料:600円 ※3月15日・16日は午後1時まで拝観休止
拝観料を納めて本堂を入ると、既に案内は始まってました。しかし、座る席はありません。立ち見席で話を聞いてました。ただ、戦国歴史ファンの私には、目新しい話はなかったです。
織田信長や正親町天皇の帰依を受けた清玉(せいぎょく)上人が滋賀県坂本で開山したのが始まり。その後信長の入洛に際して、京都西陣に移りました。清玉上人は、織田信長に帰依を受け信頼も厚かったと言います。そして信長も入洛の折りは、度々この阿弥陀寺を訪れました。
1582年(天正10)6月2日の本能寺での異変を聞き、いち早く駆けつけた清玉上人は、信長の遺骸を寺に運び、また、二条城で同じく信忠の亡骸を運び出し、本能寺・二条城で討死した織田家中百余名と共に供養・埋葬しました。
天王山の戦いで明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉は、信長の法事を申し出ますが、清玉上人は「すでに織田家の菩提寺として法事は済ませた」と言って拒絶。また法事料として300石の朱印の下附や永代墓所供養のための寺領とすることも拒絶したため、怒った秀吉は、大徳寺に総見院を建立。 信長の木造を作り、法要を行いました。そして清玉上人が死去すると、秀吉は西陣からこの寺町に移し、寺の規模も大幅に縮小させ今日に至っています。
ガイドさんの話が終わると、本堂内を見て回れます。ただ堂内は写真撮影禁止のため撮れません。写真は織田信長木像で看板を撮りました。
この特別公開の見所は、信長公木像や位牌、弓掛(ゆがけ)や鞍覆、手槍先、於本能寺・二条城討死衆合同位牌、明智光秀・木下藤吉郎(豊臣秀吉)書状などです。また、本堂天井は、日本画家・上田幸子氏筆、極彩色の花曼荼羅『彩華来迎花浄土之図』が5年の歳月をかけて、完成し彩っています。
本堂内を見て回って外に出ましたが、これだけが本音です。少しじゃなく、すごく物足りなさはありました。
これで帰るわけには行かないので、以前も来ましたが、境内には信長・信忠父子墓と森蘭丸ほか家臣の墓があるので、お参りに行きました。
向かって右が織田信長。左が嫡男の信忠です。
そして歴女で人気のある森蘭丸ら3兄弟の墓です。
蘭丸(左)・力丸(中央)・坊丸です。誰か知りませんが、お花が供えてありました。森三兄弟は、本能寺の変で、壮絶な討ち死にを遂げるわけですが、その時、蘭丸18歳・坊丸17歳・力丸16歳でした。
今日は、案内が出ていますが、普段は何もありません。前回来たときは探しました。ただ、信長の墓から清玉上人の墓の案内が出ていたので、お参りさせてもらいました。
ここは案内がなかったら分からなかったでしょうね。
お参りを済ませると、拝観受付て訪ねた朱印です。境内の左手にある庫裏の中に寺務所があって、そこに向かいました。
ここで朱印帳に書いてもらいました。朱印帳300円、掛け軸500円が定番ですが、ここでは500円納めました。(300円と思い込んでて、思わず引っ込めました)
ここを出たら13時を回ってました。天気予報は、朝から晴天の予報でしたが、ここに来るまでずっと曇り空で、ようやく晴れてくれました。それにしても珍しく予報が外れました。(私は天気予報を全幅の信頼をよせてます) それにしても賑わってましたね・・・織田信長人気はすごいです。今日は、どこでで食べて帰る予定にしてます。つづく。
第48回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開で、12年振りに公開されましたと言っても、境内はいつでも自由散策でき、織田信長の墓所もいつでもお参りできます。ただ本堂は、毎年6月2日の信長忌以外は入れません。
妙顕寺から寺町 阿弥陀寺に行く途中に、俵屋吉富と大黒屋鎌餅本舗に寄ったということです。大黒屋鎌餅本舗から寺町 阿弥陀寺の山門は見えています。
通常非公開と言っても境内は自由散策できるので、2012年3月に一度訪れました。冬の旅の看板が出てるので、目印です。
入って右側の本堂の前に臨時の拝観受付が設けられてました。
拝観期間:1月10日(金)~3月18日(火) 拝観時間:10時00分~16時00分(受付終了) 拝観料:600円 ※3月15日・16日は午後1時まで拝観休止
拝観料を納めて本堂を入ると、既に案内は始まってました。しかし、座る席はありません。立ち見席で話を聞いてました。ただ、戦国歴史ファンの私には、目新しい話はなかったです。
織田信長や正親町天皇の帰依を受けた清玉(せいぎょく)上人が滋賀県坂本で開山したのが始まり。その後信長の入洛に際して、京都西陣に移りました。清玉上人は、織田信長に帰依を受け信頼も厚かったと言います。そして信長も入洛の折りは、度々この阿弥陀寺を訪れました。
1582年(天正10)6月2日の本能寺での異変を聞き、いち早く駆けつけた清玉上人は、信長の遺骸を寺に運び、また、二条城で同じく信忠の亡骸を運び出し、本能寺・二条城で討死した織田家中百余名と共に供養・埋葬しました。
天王山の戦いで明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉は、信長の法事を申し出ますが、清玉上人は「すでに織田家の菩提寺として法事は済ませた」と言って拒絶。また法事料として300石の朱印の下附や永代墓所供養のための寺領とすることも拒絶したため、怒った秀吉は、大徳寺に総見院を建立。 信長の木造を作り、法要を行いました。そして清玉上人が死去すると、秀吉は西陣からこの寺町に移し、寺の規模も大幅に縮小させ今日に至っています。
ガイドさんの話が終わると、本堂内を見て回れます。ただ堂内は写真撮影禁止のため撮れません。写真は織田信長木像で看板を撮りました。
この特別公開の見所は、信長公木像や位牌、弓掛(ゆがけ)や鞍覆、手槍先、於本能寺・二条城討死衆合同位牌、明智光秀・木下藤吉郎(豊臣秀吉)書状などです。また、本堂天井は、日本画家・上田幸子氏筆、極彩色の花曼荼羅『彩華来迎花浄土之図』が5年の歳月をかけて、完成し彩っています。
本堂内を見て回って外に出ましたが、これだけが本音です。少しじゃなく、すごく物足りなさはありました。
これで帰るわけには行かないので、以前も来ましたが、境内には信長・信忠父子墓と森蘭丸ほか家臣の墓があるので、お参りに行きました。
向かって右が織田信長。左が嫡男の信忠です。
そして歴女で人気のある森蘭丸ら3兄弟の墓です。
蘭丸(左)・力丸(中央)・坊丸です。誰か知りませんが、お花が供えてありました。森三兄弟は、本能寺の変で、壮絶な討ち死にを遂げるわけですが、その時、蘭丸18歳・坊丸17歳・力丸16歳でした。
今日は、案内が出ていますが、普段は何もありません。前回来たときは探しました。ただ、信長の墓から清玉上人の墓の案内が出ていたので、お参りさせてもらいました。
ここは案内がなかったら分からなかったでしょうね。
お参りを済ませると、拝観受付て訪ねた朱印です。境内の左手にある庫裏の中に寺務所があって、そこに向かいました。
ここで朱印帳に書いてもらいました。朱印帳300円、掛け軸500円が定番ですが、ここでは500円納めました。(300円と思い込んでて、思わず引っ込めました)
ここを出たら13時を回ってました。天気予報は、朝から晴天の予報でしたが、ここに来るまでずっと曇り空で、ようやく晴れてくれました。それにしても珍しく予報が外れました。(私は天気予報を全幅の信頼をよせてます) それにしても賑わってましたね・・・織田信長人気はすごいです。今日は、どこでで食べて帰る予定にしてます。つづく。