『静寂の尼僧寺院と正暦寺』定期観光バスツアーへ
奈良定期観光バスに「早春の旅」があり、その中に『静寂の尼僧寺院と正暦寺』がありました。そのツアーに2月26日(水)行ってきました。
2月13日・19日・26日・3月5日(各水曜日)の4日間と60人限定ツアーで、通常非公開でこのツアーでしか見られない円照寺を特別に拝観できるとあって、平日でも休みを取って行きました。
奈良定期観光バスの利用は初めてです。そのため少し早めに近鉄奈良駅に着きました。そして10時15分にJR奈良駅を出発したバスは、近鉄奈良駅に10時20分に着き、私らを乗せ直ぐに出発。驚いたことに、平日にもかかわらずバス2台も出るほどの盛況ぶりです。
最初の目的地は正暦寺で、奈良市内を南下していきます。奈良は詳しくないので、バスガイドさんの話を興味津々聞いてました。そして10時47分に正暦寺駐車場に着きました。このあたりは、かつて正暦寺の南大門があったとされる場所だと聞きました。(1936年・昭和36年の第二室戸台風で倒壊したそうです)
このツアーに参加する前に、事前に地図は調べました。しかし、こんなに山里深いとは思いませんでした。途中何カ所か大型バスが通れるのかと心配しましたが、さすがにプロの運転手ですね。それに対向車が一台も通らなくて良かったです。普通車でも、どこですれ違ったらいいのか心配するほど細い道でした。
駐車場を降りてから正暦寺まで、少し歩くことになります。バスガイドさんを先頭にゾロゾロと・・・。かつて、この辺りは塔頭寺院が立ち並ぶほど大寺だったそうですけど、今は面影は残っていません。
途中、日本清酒発祥之地の石碑がありました。
本来、寺院での酒造りは禁止されていましたが、神仏習合の形態をとる中で、鎮守や天部の仏へ献上するお酒として、荘園からあがる米を用いて寺院で自家製造されていました。このように荘園で造られた米から僧侶が醸造するお酒を僧坊酒と呼ばれています。正暦寺は創建当初は86坊、多い時には120坊を抱え、大量の僧坊酒を作る筆頭格の大寺院でした。正暦寺での酒造技術は非常に高く、天下第一と評される南都諸白に受け継がれました。そしてこの諸白こそが、現代において行われている清酒製法の祖とされています。このことから、現在の清酒造りの原点を正暦寺に求めることができます。(パンフより抜粋)
正暦寺では、住職さんの法話を最初に聞きます。その住職さんが待っておられる福寿院客殿にようやく着きました。
正暦寺では有料の拝観は、ここ福寿院客殿になります。人数が多いので、ここで一旦待機して前の組が入るのを確認して進みます。
山門階段横の南天の赤い実が、なんとも言えないほど美しい。
山門入って左手が客殿の入り口てした。ここで靴を脱いで上がります。
最初に、バスガイドさんから聞いてた朱印帳を出してお願いしました。あとで、お酒を買われたツアー客も多かったです。私も迷ったんですけど・・・まだ酒造見学のお酒も残っているのでやめました。
そして、ここで住職さんの話が始まりました。朱印帳の関係で、座るところが後ろになってしまいましたが、声が大きい住職さんで良かったです。
992年(正暦3)、一条天皇の勅願により、真言密教・法相宗の教学禅定道場として創建されました。創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊の塔頭が渓流をはさんで建ち並び、勅願寺としての威容壮麗を誇っていました。しかし、1180年(治承4)、平重衡の南都焼き討ちの際、その類焼を受け、全山全焼、寺領は没収され一時は廃墟と化します。その後も度々火災に見舞われますが、後に興福寺別当の信円僧正が法相宗の学問所として再興し、それ以後興福寺の別院として再び隆盛しましたが、今度は明治の廃仏毀釈によって衰退し、ほとんどの堂塔・伽藍は失われました。現在では、福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなっています。
話が終わると襖を開けて、お庭の説明をされました。ここのは借景を利用した自然風景式庭園と言うそうです。
ここから見える山を借景に、座った人が感ずるままに楽しめる庭園だそうです。秋の紅葉は、綺麗なんでしょうね。
次に収蔵庫に移動しますが、それまでは自由に客殿内を散策です。先ほど話しを聞いた襖絵を鑑賞しました。
「雪中柳鷺図」狩野永納筆(京狩野派)の襖絵
「八重桜と三光鳥」狩野永納筆(京狩野派)の襖絵
「富嶽(上・三保の松原 下・富士山)」狩野永納筆(京狩野派)の襖絵 この襖絵を見るために閉めてもらったもので、普段は仏間のため開いてます。
ここで、バスガイドさんより声がかかり収蔵庫にあたる「瑠璃殿」に全員で移動します。そこから見た福寿院客殿(重要文化財)の全景です。
1681(延宝9)に再建された建物で、上壇の間を持つ数寄屋風客殿建築です。足元を見ると、先般の大雪の影響が、まだ残ってました。そう言えば奈良に24年ぶり大雪警報が出たんですよね。
なお、収蔵庫内は狭く、ツアー客全員とバスガイドさん、そして住職さんが入って満杯です。そこで収蔵してある仏像などについて説明を聞きました。
1980年(昭和55)に本堂の仏像を安置する目的で作られた収蔵庫で、将来立派な本堂が建立されるまでの仮安置所とされています。秘仏公開時しか、ここは見られません。目玉は、白鳳時代の薬師如来倚像でしょう。台座に腰掛け踏割蓮花の上に足を置く倚像形式の金銅仏です。
秘仏御開扉 4月18日~5月8日、11月1日~11月30日、12月22日です。
収蔵庫から戻ると、今度は全員で本堂に移動します。再び靴を履いて少しばかり歩きます。
本堂に向かう時、振り返って福寿院客殿を見ると、立派な石垣が目に付きます。まるで城構えのようで、当時の隆盛が偲ばれます。
福寿院から本堂まで少しばかり距離があって、先頭の住職さんが見えないくらい前に進んでいます。川沿いの南天の赤い実が綺麗なんで、ついつい写真に撮って遅れてしまいました。
先頭を行く住職さんは、石仏群で待っててくれました。
この石仏群(墓石群)は、全部で3ヶ所あると聞きました。ここへ来るバスの車中からは一つ見ました。ここでも住職さんから話を聞きました。
かつて大寺であった正暦寺には、塔頭寺院も多く点在してました。そこには石仏(墓石)がありました。しかし衰退したあとは野仏となって、山々に点在しており、それを一体づつ花を持って拝んで回るは、すごい苦力必要でした(一週間はかかったみたいです)。そこである会社の社長から従業員を総動員するので、石仏(墓石)を一ヶ所に集めたほうが、分散してた寺の力が、まとまるのではとの提案を受け、石仏(墓石)を集められたそうです。全部で3ヶ所もあるそうです。写真の石仏(墓石)は180体もあるそうで、全部で500体もあるそうです。
話が終わって、いよいよ本堂に行きますが、その前にこの石段を登ります。
普段から会社のエレベータを使わず、歩いて4階や6階に上ってるので、これくらい大丈夫です。
上がると本堂が見えました。先般の奈良地方を襲った大雪のため木々が倒木して屋根が破損したため、現在工事中とのことでした。本堂は1916(大正5)年に再建されたものです。
ここも靴を脱いで上がります。本堂内は少し寒かったです。全員が揃ったところで、住職さんが般若心経を唱え、終わると最後の講話が始まりました。
「一条天皇の時代に生きてた人々」についての講話をいただきました。 一条天皇は、991年(正暦2)に成人式をあげられました。その頃に生きてた人々の代表は、藤原道真でしょう。その道真の兄である道隆の娘が定子で、一条天皇の最初后となるわけです。しかし若くして亡くなられました。そして道長の娘・彰子が2番目の后となりました。正暦年間では、清少納言・紫式部なんかも生きて人々です。ちなみに父は円融天皇で、現在の龍安寺のあったところに円融寺があったそうです。その龍安寺から山を少し上ると一条天皇の御陵があるそうです。
歴史好きの私にとって、興味深い話でした。住職さんの話が終わって、普段公開されことのない絵巻物(当時大伽藍を誇ったころ隆盛を極めてたころの絵図面)を全員で鑑賞し、見終わった人から本堂を出ていきます。そして、ここでも全員が揃ったところで、バスガイドさんの先導で、昼食会場に向かいます。つづく。
【正暦寺 福寿院客殿】
2月13日・19日・26日・3月5日(各水曜日)の4日間と60人限定ツアーで、通常非公開でこのツアーでしか見られない円照寺を特別に拝観できるとあって、平日でも休みを取って行きました。
奈良定期観光バスの利用は初めてです。そのため少し早めに近鉄奈良駅に着きました。そして10時15分にJR奈良駅を出発したバスは、近鉄奈良駅に10時20分に着き、私らを乗せ直ぐに出発。驚いたことに、平日にもかかわらずバス2台も出るほどの盛況ぶりです。
最初の目的地は正暦寺で、奈良市内を南下していきます。奈良は詳しくないので、バスガイドさんの話を興味津々聞いてました。そして10時47分に正暦寺駐車場に着きました。このあたりは、かつて正暦寺の南大門があったとされる場所だと聞きました。(1936年・昭和36年の第二室戸台風で倒壊したそうです)
このツアーに参加する前に、事前に地図は調べました。しかし、こんなに山里深いとは思いませんでした。途中何カ所か大型バスが通れるのかと心配しましたが、さすがにプロの運転手ですね。それに対向車が一台も通らなくて良かったです。普通車でも、どこですれ違ったらいいのか心配するほど細い道でした。
駐車場を降りてから正暦寺まで、少し歩くことになります。バスガイドさんを先頭にゾロゾロと・・・。かつて、この辺りは塔頭寺院が立ち並ぶほど大寺だったそうですけど、今は面影は残っていません。
途中、日本清酒発祥之地の石碑がありました。
本来、寺院での酒造りは禁止されていましたが、神仏習合の形態をとる中で、鎮守や天部の仏へ献上するお酒として、荘園からあがる米を用いて寺院で自家製造されていました。このように荘園で造られた米から僧侶が醸造するお酒を僧坊酒と呼ばれています。正暦寺は創建当初は86坊、多い時には120坊を抱え、大量の僧坊酒を作る筆頭格の大寺院でした。正暦寺での酒造技術は非常に高く、天下第一と評される南都諸白に受け継がれました。そしてこの諸白こそが、現代において行われている清酒製法の祖とされています。このことから、現在の清酒造りの原点を正暦寺に求めることができます。(パンフより抜粋)
正暦寺では、住職さんの法話を最初に聞きます。その住職さんが待っておられる福寿院客殿にようやく着きました。
正暦寺では有料の拝観は、ここ福寿院客殿になります。人数が多いので、ここで一旦待機して前の組が入るのを確認して進みます。
山門階段横の南天の赤い実が、なんとも言えないほど美しい。
山門入って左手が客殿の入り口てした。ここで靴を脱いで上がります。
最初に、バスガイドさんから聞いてた朱印帳を出してお願いしました。あとで、お酒を買われたツアー客も多かったです。私も迷ったんですけど・・・まだ酒造見学のお酒も残っているのでやめました。
そして、ここで住職さんの話が始まりました。朱印帳の関係で、座るところが後ろになってしまいましたが、声が大きい住職さんで良かったです。
992年(正暦3)、一条天皇の勅願により、真言密教・法相宗の教学禅定道場として創建されました。創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊の塔頭が渓流をはさんで建ち並び、勅願寺としての威容壮麗を誇っていました。しかし、1180年(治承4)、平重衡の南都焼き討ちの際、その類焼を受け、全山全焼、寺領は没収され一時は廃墟と化します。その後も度々火災に見舞われますが、後に興福寺別当の信円僧正が法相宗の学問所として再興し、それ以後興福寺の別院として再び隆盛しましたが、今度は明治の廃仏毀釈によって衰退し、ほとんどの堂塔・伽藍は失われました。現在では、福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなっています。
話が終わると襖を開けて、お庭の説明をされました。ここのは借景を利用した自然風景式庭園と言うそうです。
ここから見える山を借景に、座った人が感ずるままに楽しめる庭園だそうです。秋の紅葉は、綺麗なんでしょうね。
次に収蔵庫に移動しますが、それまでは自由に客殿内を散策です。先ほど話しを聞いた襖絵を鑑賞しました。
「雪中柳鷺図」狩野永納筆(京狩野派)の襖絵
「八重桜と三光鳥」狩野永納筆(京狩野派)の襖絵
「富嶽(上・三保の松原 下・富士山)」狩野永納筆(京狩野派)の襖絵 この襖絵を見るために閉めてもらったもので、普段は仏間のため開いてます。
ここで、バスガイドさんより声がかかり収蔵庫にあたる「瑠璃殿」に全員で移動します。そこから見た福寿院客殿(重要文化財)の全景です。
1681(延宝9)に再建された建物で、上壇の間を持つ数寄屋風客殿建築です。足元を見ると、先般の大雪の影響が、まだ残ってました。そう言えば奈良に24年ぶり大雪警報が出たんですよね。
なお、収蔵庫内は狭く、ツアー客全員とバスガイドさん、そして住職さんが入って満杯です。そこで収蔵してある仏像などについて説明を聞きました。
1980年(昭和55)に本堂の仏像を安置する目的で作られた収蔵庫で、将来立派な本堂が建立されるまでの仮安置所とされています。秘仏公開時しか、ここは見られません。目玉は、白鳳時代の薬師如来倚像でしょう。台座に腰掛け踏割蓮花の上に足を置く倚像形式の金銅仏です。
秘仏御開扉 4月18日~5月8日、11月1日~11月30日、12月22日です。
収蔵庫から戻ると、今度は全員で本堂に移動します。再び靴を履いて少しばかり歩きます。
本堂に向かう時、振り返って福寿院客殿を見ると、立派な石垣が目に付きます。まるで城構えのようで、当時の隆盛が偲ばれます。
福寿院から本堂まで少しばかり距離があって、先頭の住職さんが見えないくらい前に進んでいます。川沿いの南天の赤い実が綺麗なんで、ついつい写真に撮って遅れてしまいました。
先頭を行く住職さんは、石仏群で待っててくれました。
この石仏群(墓石群)は、全部で3ヶ所あると聞きました。ここへ来るバスの車中からは一つ見ました。ここでも住職さんから話を聞きました。
かつて大寺であった正暦寺には、塔頭寺院も多く点在してました。そこには石仏(墓石)がありました。しかし衰退したあとは野仏となって、山々に点在しており、それを一体づつ花を持って拝んで回るは、すごい苦力必要でした(一週間はかかったみたいです)。そこである会社の社長から従業員を総動員するので、石仏(墓石)を一ヶ所に集めたほうが、分散してた寺の力が、まとまるのではとの提案を受け、石仏(墓石)を集められたそうです。全部で3ヶ所もあるそうです。写真の石仏(墓石)は180体もあるそうで、全部で500体もあるそうです。
話が終わって、いよいよ本堂に行きますが、その前にこの石段を登ります。
普段から会社のエレベータを使わず、歩いて4階や6階に上ってるので、これくらい大丈夫です。
上がると本堂が見えました。先般の奈良地方を襲った大雪のため木々が倒木して屋根が破損したため、現在工事中とのことでした。本堂は1916(大正5)年に再建されたものです。
ここも靴を脱いで上がります。本堂内は少し寒かったです。全員が揃ったところで、住職さんが般若心経を唱え、終わると最後の講話が始まりました。
「一条天皇の時代に生きてた人々」についての講話をいただきました。 一条天皇は、991年(正暦2)に成人式をあげられました。その頃に生きてた人々の代表は、藤原道真でしょう。その道真の兄である道隆の娘が定子で、一条天皇の最初后となるわけです。しかし若くして亡くなられました。そして道長の娘・彰子が2番目の后となりました。正暦年間では、清少納言・紫式部なんかも生きて人々です。ちなみに父は円融天皇で、現在の龍安寺のあったところに円融寺があったそうです。その龍安寺から山を少し上ると一条天皇の御陵があるそうです。
歴史好きの私にとって、興味深い話でした。住職さんの話が終わって、普段公開されことのない絵巻物(当時大伽藍を誇ったころ隆盛を極めてたころの絵図面)を全員で鑑賞し、見終わった人から本堂を出ていきます。そして、ここでも全員が揃ったところで、バスガイドさんの先導で、昼食会場に向かいます。つづく。
【正暦寺 福寿院客殿】