勧修寺と勧修寺朱印所 佛光院へ
前編からの続きです。ここに来て花菖蒲や睡蓮を見て回ると、後は境内を散策です。前編の地図でお分かりかと思いますが、境内の北側に名神高速道路が通っています。かつては、山々を借景にした庭園だったよですが、景観は損なわれました。また、開業当時は騒音もひどかったようです。(現在は防音壁があって、騒音も気にならないようです)
本堂でお参りも済ませたので、帰るために出口に向かいました。
そこには、沙羅の花が一輪だけ咲いてたので、撮りました。
また、ガクアジサイも綺麗に咲いています。
再び書院の前を通って出口に向かいます。写真の左か書院で、右が宸殿です。
前編で重要文化財として紹介しましたが、さらに詳しく・・・この書院は、後西(ごさい)院の旧殿を移したもので、貴重な宮中の建築物が境内に残っていました。
その書院前には、変わった形の手水鉢もありました。
入ると時は、先に氷室の池を見るため、急いで向かったので、帰りはゆっくり見ています。老梅です。
案内板に「幹の下を見て下さい」と書いてありました。伏した龍の型をしているとありましたが、どうでしょうか。
出口付近の宸殿まで戻ってきました。
芝生とモミジが綺麗に似合っています。
その宸殿前に、さざれ石がありました。
君が代でお馴染みの、さざれ石です。案内板には「八千代の感触をどうぞ」と書いてありました。
ここで中門を出て、外に出ました。拝観受付で朱印を訪ねると、地図を見せて説明してくれました。ここから少し先にあるらしい。
ここを出るまでに大玄関を撮りました。
多分、ここから堂内に入るんでしょうね。特別公開・・・無いかな。
ここで前編の最初の写真の地点まで戻ります。そこから左に進みます。そしてら案内板があったので、確認しました。
その案内板の隣でした。勧修寺の朱印所である佛光院の入口です。
立て看板が出てたので、安心して入れました。何せ誰もいないので。
入ると右手に手水舎がありました。
そして左手にはお地蔵さん。
正面に本堂でしょうか。
そのお堂の左手に朱印所がありました。
一瞬焦りました。誰もいない。案内を読むと「ご用の方は、呼び鈴を・・・」とあったので、インターホンを押すと僧侶の方が出て来られました。
ここで朱印をいただきました。300円を納めて佛光院を出ようとしましたが、奥に庭が見えたので写真に撮りました。
この奥が勧修寺の氷室の池で、その奥が借景の山です。拝観不可と書いてありました。
当院は、昭和26年4月、かつて勧修寺の塔頭があったと伝えられる由緒ある地に、大石順教尼(じゅんきょうに)によって再興建立された寺院である。順教尼は、もと大阪堀江の名妓で妻吉といったが、明治38年6月、中川万次郎6人斬り事件のまきぞえをうけて17才の身で両腕をきり落された。この不幸のどん底から数々の苦難をのりこえ、求道(きゅうどう)者として出家得度(とくど)し犠牲者の追善とともに身体障害者の救済に生涯をささげた。両手のないままに口に筆をくわえて書画を描き、非凡な才能を示し日展に入選、また日本人としてはじめて世界身体障害者芸術家協会の会員にも選ばれた。ここ佛光院にあって、順教尼は全国身体障害者の心の母と慕われてきたが、昭和43年4月、奇しくも遭難したと同じ日の21日入寂(にゅうじゃく)した。享年81才(駒札より)
朱印を待つ間、駒札を読みました。それで事件のことも初めて知りました。ここが勧修寺の朱印所てなかったら多分、訪問しなかっただろうし・・・。この日は、これで地下鉄「小野」駅まで戻り、終点の「天神川」駅から嵐電に乗り替えて帰りました。山科も地下鉄東西線が開通して随分、便利になりました。
【佛光院】
本堂でお参りも済ませたので、帰るために出口に向かいました。
そこには、沙羅の花が一輪だけ咲いてたので、撮りました。
また、ガクアジサイも綺麗に咲いています。
再び書院の前を通って出口に向かいます。写真の左か書院で、右が宸殿です。
前編で重要文化財として紹介しましたが、さらに詳しく・・・この書院は、後西(ごさい)院の旧殿を移したもので、貴重な宮中の建築物が境内に残っていました。
その書院前には、変わった形の手水鉢もありました。
入ると時は、先に氷室の池を見るため、急いで向かったので、帰りはゆっくり見ています。老梅です。
案内板に「幹の下を見て下さい」と書いてありました。伏した龍の型をしているとありましたが、どうでしょうか。
出口付近の宸殿まで戻ってきました。
芝生とモミジが綺麗に似合っています。
その宸殿前に、さざれ石がありました。
君が代でお馴染みの、さざれ石です。案内板には「八千代の感触をどうぞ」と書いてありました。
ここで中門を出て、外に出ました。拝観受付で朱印を訪ねると、地図を見せて説明してくれました。ここから少し先にあるらしい。
ここを出るまでに大玄関を撮りました。
多分、ここから堂内に入るんでしょうね。特別公開・・・無いかな。
ここで前編の最初の写真の地点まで戻ります。そこから左に進みます。そしてら案内板があったので、確認しました。
その案内板の隣でした。勧修寺の朱印所である佛光院の入口です。
立て看板が出てたので、安心して入れました。何せ誰もいないので。
入ると右手に手水舎がありました。
そして左手にはお地蔵さん。
正面に本堂でしょうか。
そのお堂の左手に朱印所がありました。
一瞬焦りました。誰もいない。案内を読むと「ご用の方は、呼び鈴を・・・」とあったので、インターホンを押すと僧侶の方が出て来られました。
ここで朱印をいただきました。300円を納めて佛光院を出ようとしましたが、奥に庭が見えたので写真に撮りました。
この奥が勧修寺の氷室の池で、その奥が借景の山です。拝観不可と書いてありました。
当院は、昭和26年4月、かつて勧修寺の塔頭があったと伝えられる由緒ある地に、大石順教尼(じゅんきょうに)によって再興建立された寺院である。順教尼は、もと大阪堀江の名妓で妻吉といったが、明治38年6月、中川万次郎6人斬り事件のまきぞえをうけて17才の身で両腕をきり落された。この不幸のどん底から数々の苦難をのりこえ、求道(きゅうどう)者として出家得度(とくど)し犠牲者の追善とともに身体障害者の救済に生涯をささげた。両手のないままに口に筆をくわえて書画を描き、非凡な才能を示し日展に入選、また日本人としてはじめて世界身体障害者芸術家協会の会員にも選ばれた。ここ佛光院にあって、順教尼は全国身体障害者の心の母と慕われてきたが、昭和43年4月、奇しくも遭難したと同じ日の21日入寂(にゅうじゃく)した。享年81才(駒札より)
朱印を待つ間、駒札を読みました。それで事件のことも初めて知りました。ここが勧修寺の朱印所てなかったら多分、訪問しなかっただろうし・・・。この日は、これで地下鉄「小野」駅まで戻り、終点の「天神川」駅から嵐電に乗り替えて帰りました。山科も地下鉄東西線が開通して随分、便利になりました。
【佛光院】