第39回 京の夏の旅 文化財特別公開 島原 輪違屋へ
第39回 京の夏の旅 文化財特別公開で、初めて公開された島原 輪違屋に、8月に入ってから行きました。
7月12日(土)~9月30日(火) 時間10:00~15:30 拝観料600円
今年の夏の旅では、最大の目玉でしょう、輪違屋の公開は・・・と言うか、他は通常公開しているからでしょうね。本当は7月12日になったら直ぐにでも行きたかったんですが・・・。
私が会員になっている京都市文化観光資源保護財団より、8月から有効の招待券をいただいたので、8月になるまで我慢してました。
島原には過去何度か来ています。今回同時に公開されている角屋もてなしの文化美術館に行きました。もちろん角屋さんの前もとおりましたが、今回はパスし輪違屋さんに直行です。猛暑で汗を拭き拭きJR丹波口駅から歩いて10分弱で着きました。
普段の輪違屋は、固く拝観を拒絶されています。こうして扉が開いてるのを見るのは、もちろん初めてです。
輪違屋の建物は1857年(安政4年)の再建で、1871年(明治4年)にはほぼ現在の姿になりました。まだ歴史も浅いこともあって、京都指定文化財となっています。
「夏の旅」お決まりの看板が出てました。これで安心して入れます。
玄関灯には、屋号の輪違いの家紋も見えました。
それでは、入ります。玄関を入って左手に受付があって、招待状をだします。そして案内にしたがって靴を袋に入れ1階から見学します。
事前の情報で、1階は撮影可。2階は不可との情報は得てました。
ここで島原の歴史を・・・豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条柳馬場に柳町の花街を開設。その後六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄ました。ところが、1641年(寛永18年)に市街地の西にあたる朱雀野付近への移転が命ぜられ、西新屋敷と呼ばれました。移転騒動が、あたかも九州島原の乱の直後であったため島原と呼ばれるようになりました。現在は、角屋(重要文化財)、輪違屋、大門のみが往時の面影を留めています。
入ると前の組の方に、ガイドさんが説明をしていたので、庭の写真を撮って待つことにしました。ご覧のように西日を遮るように大きな庇が特徴です。この大きな庇に柱が無いのも特徴です。
右手に主座敷の部屋があって、それを取り囲むように庭園がありました。
手水鉢、石灯籠なんかあって露地庭園の雰囲気がありました。
ここで前の組の案内が終わったので、主座敷に入りました。(話の途中でも、入ることは可能です。私は最初から話しを聞きたかったので、そうしただけです。)
ここで最初の説明を聞きました。さすがに人気の輪違屋です、ひっきりなしに人が入ってきます。
この島原には「太夫」と呼ばれた、優れた技能、教養(書道・華道・茶道・歌舞音曲など)を持つ最高位の遊女がいました。(参考までに、島原では「太夫」、吉原では「花魁」と呼ばれました。) 花街では分業組織になっており、揚屋と置屋に分かれてました。角屋は揚屋(宴会場)、輪違屋は置屋(太夫さんが暮らしてたところ)でした。そのため角屋に比べたら部屋が細々しています。明治になると政財界が東京に移転しため、島原は段々廃れていきました。ただ輪違屋だけは現在もお茶屋として営業されています。太夫さんも4名おられ、通いで来られてそうです。
以前角屋もてなしの文化美術館で1階と2階を見学しているので、揚屋と置屋をやっと知ることができました。案内が終わると、室内や庭をゆっくり見学できます。
これは恋文の下書きだそうです。太夫さんがお客様宛てに書かれたもので、「またお越し下さい」「逢いたい・・・」今で言う営業のダイレクトメールのようなものでしょうか。
新撰組隊長の近藤勇の書を屏風に貼り付けあります。輪違屋は置屋でお客様は来られません。多分、角屋さんに来られ時に太夫が書いてもらったんだろうと思われます。
この掛け軸の案内はありせんでした・・・・誰のか分かりません。
実は、私らの前の組の案内を写真を撮りながら聞いてました。そこで「キリシタン灯籠」と聞こえてきました。キリシタン灯籠って前から気になってたので・・・。
で、主座敷東側の庭の説明を楽しみにしていたら・・・庭の案内がなくて・・・終わってしまいました。そこでガイドさんに聞いて見たんです。
写真上と中で右にに写ってる灯籠がそれなんですけと・・・下に大きく撮ったので確認すると・・・。ちなみに下の写真では春日灯籠もありました。
この灯籠の形を織部灯籠と言います。戦国武将で茶人でもあった古田織部の名をとった灯籠です。
この石灯籠は土台が無い形をしてるのが特徴で、その灯籠の下ににマリア像が彫ってあるのがキリシタン灯籠と呼ばれるものだそうです。
今までキリシタン灯籠と説明があっても分からずじまいでした。これですっきりしました。すっきりしたところで、次の案内も始まったので、2階へ上がります。ここの見所は2階なんです。
1階を見学すると次に2階に行くよう、案内されます。
この大きな階段を上がります。「危ないから手すりを持って」と言われました。誰か落ちたのかなぁ・・・・・・・三門を登るとことに比べると・・・・。
2階は当初の案内のとおり撮影禁止です。ただ上がって分かりました。角屋は重要文化財のため人数制限もあって分かりますが、ここは単に狭いからでしょう。狭いのに写真を撮るのに夢中になると文化財を傷つけるかも知れませんね。
狭い2階には人数制限されてるのかも知れません。ガイドさんは階段で案内を始められました。先ずは「紅葉の間」から。壁に一面の紅葉が特徴でした。
まだ壁が乾かない間に、本物の紅葉を押しつけます。そしてその紅葉を取り外したら紅葉の形が残ります。その残った所に絵の具で描いていったそうです。
そして次に「太夫の間」で、文字通り太夫の控え間として使われてます。写真はありませんが、太夫の豪華の刺繍の打ち掛けが掛けられてました。
最後に「傘の間」です。今回の「夏の旅」の表紙になっています。
襖に土中傘を貼り込んでいます。ポスターの表紙にもなっていたので、是非見たかったお部屋です。(下の写真は看板から)
実際に太夫が使ってた日傘や雨傘の骨を外して、それを銀箔の上に貼り込んでいます。それがデザインになっているので、傘の間で呼ばれているそうです。また床の間に飾ってある掛け軸は、桂小五郎の書によるものだそうです。また床柱は、松・竹・梅が使われてるそうで、松竹梅と縁起の良いものでおもてなしをするのが仕来りだったみたいですね。
案内が終わってから、各部屋を見て回りました。紅葉の間だけ目の前だったので、ゆっくり見られましたが。
角屋もてなしの文化美術館では、2階に上がるためには荷物を置いていきます。文化財を傷つけないような配慮でした。輪違屋ては荷物を置いて行くように言われませんが、リュックで壁擦らないように、盛んに注意されたました。それでも貴重なものを見られて良かったです。
ここ輪違屋は今でも営業されています。ただ門前に「回覧謝絶」と書いてあります。要するに一見さんお断りなんですよね。誰かのツテがあれば行けるかと思います。私ははっきり行って無理です。
この日は島原 大門も見ずに帰りました。もちろん角屋にも行ってません。輪違屋でお腹が一杯になりました。
7月12日(土)~9月30日(火) 時間10:00~15:30 拝観料600円
今年の夏の旅では、最大の目玉でしょう、輪違屋の公開は・・・と言うか、他は通常公開しているからでしょうね。本当は7月12日になったら直ぐにでも行きたかったんですが・・・。
私が会員になっている京都市文化観光資源保護財団より、8月から有効の招待券をいただいたので、8月になるまで我慢してました。
島原には過去何度か来ています。今回同時に公開されている角屋もてなしの文化美術館に行きました。もちろん角屋さんの前もとおりましたが、今回はパスし輪違屋さんに直行です。猛暑で汗を拭き拭きJR丹波口駅から歩いて10分弱で着きました。
普段の輪違屋は、固く拝観を拒絶されています。こうして扉が開いてるのを見るのは、もちろん初めてです。
輪違屋の建物は1857年(安政4年)の再建で、1871年(明治4年)にはほぼ現在の姿になりました。まだ歴史も浅いこともあって、京都指定文化財となっています。
「夏の旅」お決まりの看板が出てました。これで安心して入れます。
玄関灯には、屋号の輪違いの家紋も見えました。
それでは、入ります。玄関を入って左手に受付があって、招待状をだします。そして案内にしたがって靴を袋に入れ1階から見学します。
事前の情報で、1階は撮影可。2階は不可との情報は得てました。
ここで島原の歴史を・・・豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条柳馬場に柳町の花街を開設。その後六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄ました。ところが、1641年(寛永18年)に市街地の西にあたる朱雀野付近への移転が命ぜられ、西新屋敷と呼ばれました。移転騒動が、あたかも九州島原の乱の直後であったため島原と呼ばれるようになりました。現在は、角屋(重要文化財)、輪違屋、大門のみが往時の面影を留めています。
入ると前の組の方に、ガイドさんが説明をしていたので、庭の写真を撮って待つことにしました。ご覧のように西日を遮るように大きな庇が特徴です。この大きな庇に柱が無いのも特徴です。
右手に主座敷の部屋があって、それを取り囲むように庭園がありました。
手水鉢、石灯籠なんかあって露地庭園の雰囲気がありました。
ここで前の組の案内が終わったので、主座敷に入りました。(話の途中でも、入ることは可能です。私は最初から話しを聞きたかったので、そうしただけです。)
ここで最初の説明を聞きました。さすがに人気の輪違屋です、ひっきりなしに人が入ってきます。
この島原には「太夫」と呼ばれた、優れた技能、教養(書道・華道・茶道・歌舞音曲など)を持つ最高位の遊女がいました。(参考までに、島原では「太夫」、吉原では「花魁」と呼ばれました。) 花街では分業組織になっており、揚屋と置屋に分かれてました。角屋は揚屋(宴会場)、輪違屋は置屋(太夫さんが暮らしてたところ)でした。そのため角屋に比べたら部屋が細々しています。明治になると政財界が東京に移転しため、島原は段々廃れていきました。ただ輪違屋だけは現在もお茶屋として営業されています。太夫さんも4名おられ、通いで来られてそうです。
以前角屋もてなしの文化美術館で1階と2階を見学しているので、揚屋と置屋をやっと知ることができました。案内が終わると、室内や庭をゆっくり見学できます。
これは恋文の下書きだそうです。太夫さんがお客様宛てに書かれたもので、「またお越し下さい」「逢いたい・・・」今で言う営業のダイレクトメールのようなものでしょうか。
新撰組隊長の近藤勇の書を屏風に貼り付けあります。輪違屋は置屋でお客様は来られません。多分、角屋さんに来られ時に太夫が書いてもらったんだろうと思われます。
この掛け軸の案内はありせんでした・・・・誰のか分かりません。
実は、私らの前の組の案内を写真を撮りながら聞いてました。そこで「キリシタン灯籠」と聞こえてきました。キリシタン灯籠って前から気になってたので・・・。
で、主座敷東側の庭の説明を楽しみにしていたら・・・庭の案内がなくて・・・終わってしまいました。そこでガイドさんに聞いて見たんです。
写真上と中で右にに写ってる灯籠がそれなんですけと・・・下に大きく撮ったので確認すると・・・。ちなみに下の写真では春日灯籠もありました。
この灯籠の形を織部灯籠と言います。戦国武将で茶人でもあった古田織部の名をとった灯籠です。
この石灯籠は土台が無い形をしてるのが特徴で、その灯籠の下ににマリア像が彫ってあるのがキリシタン灯籠と呼ばれるものだそうです。
今までキリシタン灯籠と説明があっても分からずじまいでした。これですっきりしました。すっきりしたところで、次の案内も始まったので、2階へ上がります。ここの見所は2階なんです。
1階を見学すると次に2階に行くよう、案内されます。
この大きな階段を上がります。「危ないから手すりを持って」と言われました。誰か落ちたのかなぁ・・・・・・・三門を登るとことに比べると・・・・。
2階は当初の案内のとおり撮影禁止です。ただ上がって分かりました。角屋は重要文化財のため人数制限もあって分かりますが、ここは単に狭いからでしょう。狭いのに写真を撮るのに夢中になると文化財を傷つけるかも知れませんね。
狭い2階には人数制限されてるのかも知れません。ガイドさんは階段で案内を始められました。先ずは「紅葉の間」から。壁に一面の紅葉が特徴でした。
まだ壁が乾かない間に、本物の紅葉を押しつけます。そしてその紅葉を取り外したら紅葉の形が残ります。その残った所に絵の具で描いていったそうです。
そして次に「太夫の間」で、文字通り太夫の控え間として使われてます。写真はありませんが、太夫の豪華の刺繍の打ち掛けが掛けられてました。
最後に「傘の間」です。今回の「夏の旅」の表紙になっています。
襖に土中傘を貼り込んでいます。ポスターの表紙にもなっていたので、是非見たかったお部屋です。(下の写真は看板から)
実際に太夫が使ってた日傘や雨傘の骨を外して、それを銀箔の上に貼り込んでいます。それがデザインになっているので、傘の間で呼ばれているそうです。また床の間に飾ってある掛け軸は、桂小五郎の書によるものだそうです。また床柱は、松・竹・梅が使われてるそうで、松竹梅と縁起の良いものでおもてなしをするのが仕来りだったみたいですね。
案内が終わってから、各部屋を見て回りました。紅葉の間だけ目の前だったので、ゆっくり見られましたが。
角屋もてなしの文化美術館では、2階に上がるためには荷物を置いていきます。文化財を傷つけないような配慮でした。輪違屋ては荷物を置いて行くように言われませんが、リュックで壁擦らないように、盛んに注意されたました。それでも貴重なものを見られて良かったです。
ここ輪違屋は今でも営業されています。ただ門前に「回覧謝絶」と書いてあります。要するに一見さんお断りなんですよね。誰かのツテがあれば行けるかと思います。私ははっきり行って無理です。
この日は島原 大門も見ずに帰りました。もちろん角屋にも行ってません。輪違屋でお腹が一杯になりました。