大徳寺本坊&法堂&唐門の特別公開へ
再び大徳寺本坊へ10時45分過ぎに戻ってきました。こちらは空いてたら良いのにと思ってきましたが、多くの人が表門をくぐられます。
最低、年一回は公開される大徳寺本坊の特別公開ですが、2009年以来の訪問となりました。
門を入ると国宝の庫裏が建っています。
入ると左手に臨時の受付がありました。そこで孤篷庵で購入した共通券を差し出します。
5年振りの訪問で大きく変わったことがありました。前回は靴を脱いで上がると荷物を担当者に預けました。すごい神経質で荷物の持ち込みは厳禁。もちろん堂内・庭を含めて全面撮影禁止でした。今回は撮影可にそんなことはありません。今回も撮影は禁止で事前に知ってて訪れた訳です。(堂内の写真はポストカード&バンフからの抜粋で画像は悪いです)
撮影禁止は残念なことですが、私も心境の変化があって、見せて貰えるだけでも有り難いと思うようになりました。今回は本坊の他、法堂や唐門を見られるとあっては、行くしかないでしょう。
臨時受付所の向かいにある寺務所で朱印(書いてあるのを貼り付ける方法のものです)やポストカードをお願いしてたので、少し遅くなりましたが靴を脱いで上がりました。時計は10時50分でしたが、係の方より「11時から本坊で案内があるので、それまで法堂や唐門を見学しててください」と言われたので、今日の目的であった法堂に向かいました。
これは外から見た法堂です。普段非公開の法堂は楽しみに来ました。
入ると5年前に比べて随分広くなったように感じました。そこは後程説明があるので、ここでは割愛します。久し振りに方丈前庭園を横目に見ながら建物沿いに法堂へ移動します。その途中に寝堂といって、法堂で講義される和尚さんの控室だったお堂がありました。そして中には首から下の大燈国師像が安置されてました。これは普段目にしないのでラッキーでした。
殆どの人は素通りでしたが、事前に寝堂の存在を教えてもらってたので注意してました。それから初めて法堂に入りました。ここは出入り口の近くだけで、真ん中にには行くことは規制されてて行けません。
現在の法堂は、開山300年忌に際して1636年(寛永13年)に小田原城主・稲葉正勝・正則親子の寄進により再建。天井の龍は狩野探幽が35歳の時に描きました。この龍は鳴き龍としても有名で、天井の下で手を叩くと龍が鳴いたように反響すると言われています。龍は仏法の神様で、「修行僧に仏法の雨を降らせる」とか「水の神様である龍が建物を火災から守ってもらえる」とかの意味があるそうです。
残念ながら天井の真ん中には行けないので手を叩くことはできません。多分、相国寺の法堂みたいに響くでしょう。次ぎに案内にしたがって、国宝の唐門を見に行きます。
余談ですが、京都には国宝の唐門が3つあります。西本願寺・豊国神社と大徳寺です。この中で、西本願寺と豊国神社は、無料で見られます。この大徳寺の唐門だけ外からは全く見ることができません。こうして特別拝観の時にしか見られないということです。
近年修復されて色が鮮やかになった唐門を間近で見られます。色はポストカードの写真より断然鮮やかになってるので必見です。
豊臣秀吉が造営した聚楽第の遺構と言われています。彫刻が多く施されており、いくら見ても飽きないことから「日暮門(ひぐらしもん)」とも呼ばれています。
法堂と唐門を見られて感激しました。やっぱり生で見るのは良いものです。10時55分に方丈前に戻ってきました。まだ5分もあるので、方丈の廻りをウロウロしてたら、外国人がとんでもないことしてました。下に降りて井戸に腰掛け記念写真を撮ってます。見てて驚いたと言うか唖然その後、裸足で庭に降りて記念写真・・・係の方が走って来られたのは言うまでもありません。最近の外国人の傍若無人には怒りがこみ上げます。
11時なったら説明が始まりました。最初は庭を見ながら聞こうと思ってましたが、蚊が飛んできてまとわりつくからガイドさんの近くに移動しました。
鎌倉時代末期、宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)(大燈国師)が紫草の繁る洛北の野原に大徳という小庵を開創しました。厳しい宗風をもった宗峰の学徳は次第に世に知られ、この小庵は、花園・後醍醐両天皇の帰依を受け勅願所となり1326年(嘉暦元年)の法堂の完成と同時に現在の龍宝山大徳寺と命名されまた。それから100年後、応仁の乱により大徳寺は廃墟となりました。その大徳寺を再建されたのが一休禅師(一休宗純)で堺の豪商の援助を受け方丈・法堂・三門など復興を成し遂げ、大徳寺では中興の祖と言われ称えられてます。そして戦国時代に入ると大名や諸侯に大徳寺の高僧が禅の道を説きました。そして大名や諸侯は自分が師と仰ぐ高僧を開祖として大徳寺の山内に塔頭を建てることになりました。豊臣秀吉が織田信長の菩提寺の総見院を建立。小堀遠州が孤篷庵を。前田利家が芳春院、大友宗麟が瑞峯院・・・・数えたら切りがありません。大燈国師を慕って塔頭が建てられましたが、現在は24もの塔頭が大徳寺はあります。安土桃山・徳川時代には古渓和尚(こけいおしょう)や沢庵和尚などの高僧が人々に厳しい禅の教えを説き武士・貴族・文化人に大きな影響を与えたといい、華道・茶道・書道・建築・造園は大徳寺で育まれたといいます。
次ぎに国の名勝に指定されている方丈前庭の説明です。
枯山水庭園の東側にある大きな2枚の縦岩を滝の流れを表し、その下の石を滝壺。後の椿を山に見立てています。その山から流れきた川が滝になり、それが大海にそそぐ様子を白砂で表しています。この前庭は江戸時代の天佑和尚が作庭し、国史跡、特別名勝に指定されています。
庭のあとは、国宝の方丈について説明されました。ここで襖を開けられたので中を覗くことができました。
襖絵は84面あり、狩野探幽の筆によるものです。狩野探幽は江戸幕府の御用絵師として活躍し、名古屋城・江戸城・二条城の襖絵を描きました。大徳寺の襖絵は40歳の頃と言われており、国の重要文化財に指定されています。方丈の正面右の格子戸奥には大燈国師の木像とお骨が安置されています。通常禅宗寺院では開山堂が建てて祀られますが、大燈国師は「お墓も開山堂も建てるな」と遺言されたため困った弟子だちは、方丈内に雲門庵(うんもんあん)という開山堂を設けお祀りしました。
雲門庵は、ここから見えないので後程説明されるそうで、次ぎに方丈東庭に移動します。この庭はパンフにも載ってないので写真はありません。
東庭は、小堀遠州が作庭した「七五三の庭」です。かつては田園風景が広がり借景の比叡山を主峰とする東山の山並みが望めたといいます。この庭は南北に細長く、小さめの小石をほぼ一直線に配されてます。その手法から「七五三の石組」とも呼ばれています。
次ぎに雲門庵の案内のため方丈北側に移動します。先ほどの傍若無人の外国人が下に降りてたところです。方丈の北側に出っ張りがあり、そこが雲門庵だそうです。そこだけ通るために階段が設けられてました。
最後に重要文化財の庫裏の案内のため移動します。
そして雲梆(うんぱん)の説明からで、これは大徳寺の修行僧に食事の時間を知らせる時に叩くものです。現在は龍翔寺(りゅうしょうじ)で修行されてるそうです。また玄関先の廊下ですが前後の障子を閉め切ると一つの部屋として使われ食堂として使われました。また庫裏の上を見ると輿が乗せられ、かつては身分の高い方、大徳寺の高僧らが乗られたものです。玄関の釜ですが、現在も11月22日の大燈国師の開山忌に大徳寺境内に集められた松の木で、お米が炊かれます。煙は庫裏の上から出ていくそうで、ここは大きな台所と言えます。
11時から始まった案内が11時25分に終わりました。5年前にも聞いたと思いますが覚えてなかったため新鮮でした。大徳寺は他の寺院に比べて非公開の塔頭寺院が多いです。禅の修行とは生活の全てであり、塔頭は厳粛な修行の場であるからでしょう。大徳寺は本坊を初め、特別公開の塔頭寺院でも撮影禁止が殆どです。前途した理由なんでしょうね。今日はいろいろ廻りましたが、これで帰りました。
帰りに仏殿だけ寄りました。
ここは、いつでも見られます。中央には釈迦如来坐像が祀られてました。天井の絵は良く見えません。何かなぁ 建物は重要文化財に指定されてます。
【大徳寺 唐門】
最低、年一回は公開される大徳寺本坊の特別公開ですが、2009年以来の訪問となりました。
門を入ると国宝の庫裏が建っています。
入ると左手に臨時の受付がありました。そこで孤篷庵で購入した共通券を差し出します。
5年振りの訪問で大きく変わったことがありました。前回は靴を脱いで上がると荷物を担当者に預けました。すごい神経質で荷物の持ち込みは厳禁。もちろん堂内・庭を含めて全面撮影禁止でした。今回は撮影可にそんなことはありません。今回も撮影は禁止で事前に知ってて訪れた訳です。(堂内の写真はポストカード&バンフからの抜粋で画像は悪いです)
撮影禁止は残念なことですが、私も心境の変化があって、見せて貰えるだけでも有り難いと思うようになりました。今回は本坊の他、法堂や唐門を見られるとあっては、行くしかないでしょう。
臨時受付所の向かいにある寺務所で朱印(書いてあるのを貼り付ける方法のものです)やポストカードをお願いしてたので、少し遅くなりましたが靴を脱いで上がりました。時計は10時50分でしたが、係の方より「11時から本坊で案内があるので、それまで法堂や唐門を見学しててください」と言われたので、今日の目的であった法堂に向かいました。
これは外から見た法堂です。普段非公開の法堂は楽しみに来ました。
入ると5年前に比べて随分広くなったように感じました。そこは後程説明があるので、ここでは割愛します。久し振りに方丈前庭園を横目に見ながら建物沿いに法堂へ移動します。その途中に寝堂といって、法堂で講義される和尚さんの控室だったお堂がありました。そして中には首から下の大燈国師像が安置されてました。これは普段目にしないのでラッキーでした。
殆どの人は素通りでしたが、事前に寝堂の存在を教えてもらってたので注意してました。それから初めて法堂に入りました。ここは出入り口の近くだけで、真ん中にには行くことは規制されてて行けません。
現在の法堂は、開山300年忌に際して1636年(寛永13年)に小田原城主・稲葉正勝・正則親子の寄進により再建。天井の龍は狩野探幽が35歳の時に描きました。この龍は鳴き龍としても有名で、天井の下で手を叩くと龍が鳴いたように反響すると言われています。龍は仏法の神様で、「修行僧に仏法の雨を降らせる」とか「水の神様である龍が建物を火災から守ってもらえる」とかの意味があるそうです。
残念ながら天井の真ん中には行けないので手を叩くことはできません。多分、相国寺の法堂みたいに響くでしょう。次ぎに案内にしたがって、国宝の唐門を見に行きます。
余談ですが、京都には国宝の唐門が3つあります。西本願寺・豊国神社と大徳寺です。この中で、西本願寺と豊国神社は、無料で見られます。この大徳寺の唐門だけ外からは全く見ることができません。こうして特別拝観の時にしか見られないということです。
近年修復されて色が鮮やかになった唐門を間近で見られます。色はポストカードの写真より断然鮮やかになってるので必見です。
豊臣秀吉が造営した聚楽第の遺構と言われています。彫刻が多く施されており、いくら見ても飽きないことから「日暮門(ひぐらしもん)」とも呼ばれています。
法堂と唐門を見られて感激しました。やっぱり生で見るのは良いものです。10時55分に方丈前に戻ってきました。まだ5分もあるので、方丈の廻りをウロウロしてたら、外国人がとんでもないことしてました。下に降りて井戸に腰掛け記念写真を撮ってます。見てて驚いたと言うか唖然その後、裸足で庭に降りて記念写真・・・係の方が走って来られたのは言うまでもありません。最近の外国人の傍若無人には怒りがこみ上げます。
11時なったら説明が始まりました。最初は庭を見ながら聞こうと思ってましたが、蚊が飛んできてまとわりつくからガイドさんの近くに移動しました。
鎌倉時代末期、宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)(大燈国師)が紫草の繁る洛北の野原に大徳という小庵を開創しました。厳しい宗風をもった宗峰の学徳は次第に世に知られ、この小庵は、花園・後醍醐両天皇の帰依を受け勅願所となり1326年(嘉暦元年)の法堂の完成と同時に現在の龍宝山大徳寺と命名されまた。それから100年後、応仁の乱により大徳寺は廃墟となりました。その大徳寺を再建されたのが一休禅師(一休宗純)で堺の豪商の援助を受け方丈・法堂・三門など復興を成し遂げ、大徳寺では中興の祖と言われ称えられてます。そして戦国時代に入ると大名や諸侯に大徳寺の高僧が禅の道を説きました。そして大名や諸侯は自分が師と仰ぐ高僧を開祖として大徳寺の山内に塔頭を建てることになりました。豊臣秀吉が織田信長の菩提寺の総見院を建立。小堀遠州が孤篷庵を。前田利家が芳春院、大友宗麟が瑞峯院・・・・数えたら切りがありません。大燈国師を慕って塔頭が建てられましたが、現在は24もの塔頭が大徳寺はあります。安土桃山・徳川時代には古渓和尚(こけいおしょう)や沢庵和尚などの高僧が人々に厳しい禅の教えを説き武士・貴族・文化人に大きな影響を与えたといい、華道・茶道・書道・建築・造園は大徳寺で育まれたといいます。
次ぎに国の名勝に指定されている方丈前庭の説明です。
枯山水庭園の東側にある大きな2枚の縦岩を滝の流れを表し、その下の石を滝壺。後の椿を山に見立てています。その山から流れきた川が滝になり、それが大海にそそぐ様子を白砂で表しています。この前庭は江戸時代の天佑和尚が作庭し、国史跡、特別名勝に指定されています。
庭のあとは、国宝の方丈について説明されました。ここで襖を開けられたので中を覗くことができました。
襖絵は84面あり、狩野探幽の筆によるものです。狩野探幽は江戸幕府の御用絵師として活躍し、名古屋城・江戸城・二条城の襖絵を描きました。大徳寺の襖絵は40歳の頃と言われており、国の重要文化財に指定されています。方丈の正面右の格子戸奥には大燈国師の木像とお骨が安置されています。通常禅宗寺院では開山堂が建てて祀られますが、大燈国師は「お墓も開山堂も建てるな」と遺言されたため困った弟子だちは、方丈内に雲門庵(うんもんあん)という開山堂を設けお祀りしました。
雲門庵は、ここから見えないので後程説明されるそうで、次ぎに方丈東庭に移動します。この庭はパンフにも載ってないので写真はありません。
東庭は、小堀遠州が作庭した「七五三の庭」です。かつては田園風景が広がり借景の比叡山を主峰とする東山の山並みが望めたといいます。この庭は南北に細長く、小さめの小石をほぼ一直線に配されてます。その手法から「七五三の石組」とも呼ばれています。
次ぎに雲門庵の案内のため方丈北側に移動します。先ほどの傍若無人の外国人が下に降りてたところです。方丈の北側に出っ張りがあり、そこが雲門庵だそうです。そこだけ通るために階段が設けられてました。
最後に重要文化財の庫裏の案内のため移動します。
そして雲梆(うんぱん)の説明からで、これは大徳寺の修行僧に食事の時間を知らせる時に叩くものです。現在は龍翔寺(りゅうしょうじ)で修行されてるそうです。また玄関先の廊下ですが前後の障子を閉め切ると一つの部屋として使われ食堂として使われました。また庫裏の上を見ると輿が乗せられ、かつては身分の高い方、大徳寺の高僧らが乗られたものです。玄関の釜ですが、現在も11月22日の大燈国師の開山忌に大徳寺境内に集められた松の木で、お米が炊かれます。煙は庫裏の上から出ていくそうで、ここは大きな台所と言えます。
11時から始まった案内が11時25分に終わりました。5年前にも聞いたと思いますが覚えてなかったため新鮮でした。大徳寺は他の寺院に比べて非公開の塔頭寺院が多いです。禅の修行とは生活の全てであり、塔頭は厳粛な修行の場であるからでしょう。大徳寺は本坊を初め、特別公開の塔頭寺院でも撮影禁止が殆どです。前途した理由なんでしょうね。今日はいろいろ廻りましたが、これで帰りました。
帰りに仏殿だけ寄りました。
ここは、いつでも見られます。中央には釈迦如来坐像が祀られてました。天井の絵は良く見えません。何かなぁ 建物は重要文化財に指定されてます。
【大徳寺 唐門】