東山区民ふれあい文化財鑑賞会 法性寺へ
東山区民ふれあい文化財鑑賞会も残り一ヶ寺、最後は洛陽三十三所観音巡礼 第二十一番札所 法性寺です。
ここは洛陽三十三所観音巡礼で2006年(平成18年)に御朱印をいただきにお参りに来ました。その後、ご本尊の千手観音菩薩立像(国宝)が公開されるようになり、大変な人で混み合ったそうです。通常非公開の法性寺(ほっしょうじ)は当時、朱印をいただく時はインターホンを押して中に入れてもらいました。その時、ご本尊にお参りさせてもらったので、てっきり手観音菩薩立像だと思ってたら、最近知ったことですが、お前立様だったんですね。知らなかったです。特別拝観には行かなかったので、この東山区民ふれあい文化財鑑賞会で見られるとは本当に有り難いことでした。
法性寺には10時30分前に着きました。予定どおりです。8年振りの再訪ですが、この表門は覚えてました。その証拠に迷わず来られましたから。
ここ法性寺は表門から玄関まで直ぐ。それに狭い堂内と言っていいのか、普通の一般の居間が二間あるだけで狭く、そんなに入れません。そのため玄関から混雑してました。
玄関の写真は2006年当時のものです。玄関で靴を脱ぐと受付があって、そこで最後のスタンプを押してもらいました。そとたら記念品としてタオルをいただきました。
玄関前には手水鉢もあましたが、今回は気が付かなかったです。
玄関で由緒書を訪ねたら「ここはありません」との返答。以前に朱印を書いてもらうため通された部屋で学生さんのガイドさんより説明が始まりました。
法性寺の歴史は諸説ありますが、924年(延長2年)に藤原忠平によって建立した藤原氏の氏寺です。当時の寺領は現在の東福寺はもちろん泉涌寺から東山まで及ぶ広大なものでした。時代は過ぎて藤原道長の時代になると藤原家の力で金堂や五大堂が建立されました。この五大堂は現在の東福寺塔頭同聚院にあたり、五大明王が祀られてました。現在は不動明王のみとなっているそうです。応仁の乱による戦火で、100以上あったお堂の全てが焼失してしまい、一度は東福寺に飲み込まれてしまい廃寺となってしまいましたが、現在のお堂は明治以降に復興されたものです。
やっとお目にかかった国宝・手観音菩薩立像ですが、遠い・・・・そして暗い・・・。この写真のようにハッキリ見えません。しかし・・・じっくり見せてもらいました。(写真は以前の特別公開時のパンフより)
この千手観音菩薩立像ができたのが10世紀前半で、法性寺の建立の時期にあたります。旧法性寺の灌頂堂の本尊と伝わり藤原時代前半の作とされ、温和な表情を持ち本面の他、左右の耳の辺りに忿怒面し菩薩面を有し、頭上には菩薩面24面と大笑面1面を配す。さらに頂上に仏面を有し、計28面を有する異形の像として国宝に指定されています。藤原忠通が、難病のおり本像に祈願したところ無事に快復したことから「厄除観音」の名で呼ばれています。
また、国宝・千手観音菩薩立像から見て左側に巨大な仏像が安置されてました。この仏像は8年前の記憶でも鮮明に覚えています。向かって左が不動明王像で、本物は東福寺塔頭同聚院に安置されてて、ここのはレプリカです。そして右側が薬師如来坐像も元は法性寺にあったもので、本物は極楽寺で安置され、ここのはレプリカです。
学生さんのガイドが終わると室内が狭いので、ここを出ました。もちろん国宝・千手観音菩薩立像をじっくりゆっくり見てからです。時計の針は10時40分で、ほぼ予定どおりで鑑賞会を終えました。そして、ここからです。ここから五条通りの富小路まで移動します。もちろん時間が惜しいので、タクシーでの移動です。「ここの前で拾えたら良いのに」と思ってたら直ぐに来ました。ラッキーです。この後は怒濤の拝観ラッシュです。つづく。
ここは洛陽三十三所観音巡礼で2006年(平成18年)に御朱印をいただきにお参りに来ました。その後、ご本尊の千手観音菩薩立像(国宝)が公開されるようになり、大変な人で混み合ったそうです。通常非公開の法性寺(ほっしょうじ)は当時、朱印をいただく時はインターホンを押して中に入れてもらいました。その時、ご本尊にお参りさせてもらったので、てっきり手観音菩薩立像だと思ってたら、最近知ったことですが、お前立様だったんですね。知らなかったです。特別拝観には行かなかったので、この東山区民ふれあい文化財鑑賞会で見られるとは本当に有り難いことでした。
法性寺には10時30分前に着きました。予定どおりです。8年振りの再訪ですが、この表門は覚えてました。その証拠に迷わず来られましたから。
ここ法性寺は表門から玄関まで直ぐ。それに狭い堂内と言っていいのか、普通の一般の居間が二間あるだけで狭く、そんなに入れません。そのため玄関から混雑してました。
玄関の写真は2006年当時のものです。玄関で靴を脱ぐと受付があって、そこで最後のスタンプを押してもらいました。そとたら記念品としてタオルをいただきました。
玄関前には手水鉢もあましたが、今回は気が付かなかったです。
玄関で由緒書を訪ねたら「ここはありません」との返答。以前に朱印を書いてもらうため通された部屋で学生さんのガイドさんより説明が始まりました。
法性寺の歴史は諸説ありますが、924年(延長2年)に藤原忠平によって建立した藤原氏の氏寺です。当時の寺領は現在の東福寺はもちろん泉涌寺から東山まで及ぶ広大なものでした。時代は過ぎて藤原道長の時代になると藤原家の力で金堂や五大堂が建立されました。この五大堂は現在の東福寺塔頭同聚院にあたり、五大明王が祀られてました。現在は不動明王のみとなっているそうです。応仁の乱による戦火で、100以上あったお堂の全てが焼失してしまい、一度は東福寺に飲み込まれてしまい廃寺となってしまいましたが、現在のお堂は明治以降に復興されたものです。
やっとお目にかかった国宝・手観音菩薩立像ですが、遠い・・・・そして暗い・・・。この写真のようにハッキリ見えません。しかし・・・じっくり見せてもらいました。(写真は以前の特別公開時のパンフより)
この千手観音菩薩立像ができたのが10世紀前半で、法性寺の建立の時期にあたります。旧法性寺の灌頂堂の本尊と伝わり藤原時代前半の作とされ、温和な表情を持ち本面の他、左右の耳の辺りに忿怒面し菩薩面を有し、頭上には菩薩面24面と大笑面1面を配す。さらに頂上に仏面を有し、計28面を有する異形の像として国宝に指定されています。藤原忠通が、難病のおり本像に祈願したところ無事に快復したことから「厄除観音」の名で呼ばれています。
また、国宝・千手観音菩薩立像から見て左側に巨大な仏像が安置されてました。この仏像は8年前の記憶でも鮮明に覚えています。向かって左が不動明王像で、本物は東福寺塔頭同聚院に安置されてて、ここのはレプリカです。そして右側が薬師如来坐像も元は法性寺にあったもので、本物は極楽寺で安置され、ここのはレプリカです。
学生さんのガイドが終わると室内が狭いので、ここを出ました。もちろん国宝・千手観音菩薩立像をじっくりゆっくり見てからです。時計の針は10時40分で、ほぼ予定どおりで鑑賞会を終えました。そして、ここからです。ここから五条通りの富小路まで移動します。もちろん時間が惜しいので、タクシーでの移動です。「ここの前で拾えたら良いのに」と思ってたら直ぐに来ました。ラッキーです。この後は怒濤の拝観ラッシュです。つづく。