方広寺鐘銘事件の鐘が残る 方広寺へ
京都国立博物館の正門を出て次に向かったのが、方広寺です。
歴史ファンならご存じだと思いますが、大坂冬の陣のきっかけになった方広寺鐘銘事件の鐘が今も残っており、それを見学に何度も足を運んでいます。ただ方広寺の拝観はタイミングが合わず行けてませんでした。と言うのも、通常拝観可能な方広寺もお寺の方が留守の時(と言うより説明する人が不在の時)は拝観できません。2度程訪ねインターホンを押しましたかが、運悪く断られました。
正門を北に上がり、豊国神社を超えます。そして最初の道を東に入ると本堂が見えてきます。
「今日は開いてるか」と少しドキドキしましたが、拝観受付に人が見えたので今日は大丈夫と確信しました。
こちらが本堂東隣の大黒天堂です。
ここは後程、中に入って参拝させてもらいます。
本堂の東寄りに拝観受付があります。
ここで拝観料500円を納めます。私はついでに朱印もお願いしました。
訪れた時は、吉川霊華筆『龍の図』が公開中でした。9月13日(土)~9月28日(日)
拝観料を納めると「説明しますから上がって下さい」と言われたので、大黒天堂内に入ります。
ここで靴を脱いで上がりました。初めて入るので、いつもながら興味津々です。
入ると中は暗いです。懐中電灯で説明していただきました。それより驚いたことがあって、説明が終わると「写真撮って下さい」と。私が聞き間違えたと思い「えっ写真良いですか」と。すると「どうぞどうぞ」と言われたので、撮らさせてもらいました。
桓武天皇の勅命により最澄が延暦寺を建立する際に、比叡登山中に出会った神人を彫刻したものと伝えられてる小さな大黒天が持仏で、前の大きな大黒天は御前立です。
あまりに小さいので写真では分からないでしょう。説明を聞いてても懐中電灯で照らされるので分からなかったです。帰って写真で確認してようやく分かりました。
堂内の上を見上げると五七の桐がありました。そう、豊臣秀吉の家紋ですね。
そこには大黒天と書かれています。
また、天井を見上げると綺麗な極彩色の天井を目にします。
こちらは堂内が建てられた時からあるものと聞きました。
こちらが花天井で、平成になってから造られたと聞きました。
次ぎに本堂内に行くように案内され移動します。ここからは電気が付いてて明るいです。ここでは眉間籠り仏が祀られています。
豊臣秀頼が再興した大仏の眉間に納められていたという珍しい仏像だそうです。
次の間は盧舎那仏坐像が祀られていました。
豊臣秀頼が再興した高さ19㍍の盧舎那佛(大仏)の10分の1サイズだそうです。
ここに期間限定ですが、吉川霊華筆『龍の図』がありました。
吉川霊華(きっかわ れいか)今日、この龍図を見るまで知りませんでした。明治・大正・昭和の日本画家だそうで、この作品は1911年(明治44年)に画かれたもので、代表作の一つだそうです。
そして本堂最後の部屋には、豊臣秀頼が再建した際の金銅大仏の遺物が展示されてました。
瓦の大きさで当時の大仏殿の大きさが想像できます。これは実際に見てみないと分からないでしょう。
この龍の彫刻は、左甚五郎作と書いてありました。
この肖像画は、左が豊臣秀吉。右が豊臣秀頼です。
本堂は3間あって、説明付きでゆっくり見られました。拝観はここまでで、庭園があるのかどうか知りませんが、これ以上は行けません。
入口でお願いしてあった朱印帳を受け取って、ここを出ました。次は鐘楼です。あの方広寺鐘銘事件の鐘を見に行きます。
ここは拝観料がいらないので、いつでも見られます。私も何度も見てますが本堂を見て素通りでは帰れないでしょう。
明治の初めに鐘楼が取り壊されて、しばらくは方広寺の鐘は雨曝し状態になってたそうです。今では信じがたいものですが、1884年(明治17年)に再建されて現在に至っています。その天井には綺麗な彩色画が描かれています。
古写真を見つけました。奥が大仏殿です。雨曝し・・・本当だったんですね。驚きです。
1614年(慶長19年)、豊臣秀頼が方広寺大仏殿を再建します。その大梵鐘の銘が入れられたとき有名な方広寺鐘銘事件が起こります。徳川家康が突然、梵鐘の銘文中に国家安康と君臣豊楽が刻されていたことを家康の名を切ったものであり徳川家を呪い、豊臣家のみの繁栄を願っているものであると言いがかりをつけ、開眼供養の延期を命じます。後に大坂冬の陣、そして夏の陣の戦いにより豊臣家は滅亡になるきっかけとなる事件でした。
ところで大仏殿は1973年(昭和48年)の火災で焼失するまで残ってました。先ほど堂内を案内していただ時に質問してみました。「かつて大仏殿は、何処にあったんですか」と。答えは「隣の駐車場にあったんです」と答えがかえってきました。
そこで鐘楼から撮ってみました。
あの辺りに大仏殿があったんだ・・・。それも昭和48年まであったとは・・・。見てみたかったですね。ひょっとしたら親に連れられて見てたかも知れませんが・・・・。
昭和48年3月27日に方広寺大仏殿は炎上しました。原因は,大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末。自動火災報知設備が設置されておらず、手動の設備も故障していたなど、くつもの不運が重なって大火となりました。
方広寺は、豊臣秀吉が戦乱で焼失した奈良東大寺の大仏殿にならって、1586年(天正14年)に造営がはじまり、1595年(文禄4年)に完成しました。奈良東大寺の大仏より18㎝も大きい木造盧舎那佛(大仏)が安置された言います。また境内は現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含む広大なものでした。しかし、1596年(慶長元年)地震により倒壊してしまいます。その後1599年(慶長4年)息子の豊臣秀頼が盧舎那佛(大仏)を金銅仏として再建を図りますが、これも1602年(慶長7年)に火災で焼失してしまいます。秀頼は、その後も大仏殿の復興を計画し、1612年(慶長17年)に大仏が完成しました。その後、あの方広寺鐘銘事件がおこるわけです。大仏殿は1662年(寛文2年)の地震で大破。大仏は1667年(寛文7年)に木造で再興されます。この大仏も798年(寛政10年)落雷による火災で焼失し、以後は同様の規模のものは再建されませんでした。天保年間(1830年~44年)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進されましたが、前途した1973年(昭和48年)3月27日に焼失してしまいました。
こちらが焼失した大仏です。肩より上しかない大仏だったようですね。
鐘楼を見たあと方広寺を出て大和大路通りに出ました。そこには巨石が立ち並びます。
当時、広大だった境内の規模が分かります。
戦国歴史ファンにとっては、興味津々ですね。ここよりずっと東には豊国廟があって、秀吉のお墓もありますが、まだ行けてません。このあと、もう一ヶ所訪問します。つづく。
【方広寺 鐘楼】
歴史ファンならご存じだと思いますが、大坂冬の陣のきっかけになった方広寺鐘銘事件の鐘が今も残っており、それを見学に何度も足を運んでいます。ただ方広寺の拝観はタイミングが合わず行けてませんでした。と言うのも、通常拝観可能な方広寺もお寺の方が留守の時(と言うより説明する人が不在の時)は拝観できません。2度程訪ねインターホンを押しましたかが、運悪く断られました。
正門を北に上がり、豊国神社を超えます。そして最初の道を東に入ると本堂が見えてきます。
「今日は開いてるか」と少しドキドキしましたが、拝観受付に人が見えたので今日は大丈夫と確信しました。
こちらが本堂東隣の大黒天堂です。
ここは後程、中に入って参拝させてもらいます。
本堂の東寄りに拝観受付があります。
ここで拝観料500円を納めます。私はついでに朱印もお願いしました。
訪れた時は、吉川霊華筆『龍の図』が公開中でした。9月13日(土)~9月28日(日)
拝観料を納めると「説明しますから上がって下さい」と言われたので、大黒天堂内に入ります。
ここで靴を脱いで上がりました。初めて入るので、いつもながら興味津々です。
入ると中は暗いです。懐中電灯で説明していただきました。それより驚いたことがあって、説明が終わると「写真撮って下さい」と。私が聞き間違えたと思い「えっ写真良いですか」と。すると「どうぞどうぞ」と言われたので、撮らさせてもらいました。
桓武天皇の勅命により最澄が延暦寺を建立する際に、比叡登山中に出会った神人を彫刻したものと伝えられてる小さな大黒天が持仏で、前の大きな大黒天は御前立です。
あまりに小さいので写真では分からないでしょう。説明を聞いてても懐中電灯で照らされるので分からなかったです。帰って写真で確認してようやく分かりました。
堂内の上を見上げると五七の桐がありました。そう、豊臣秀吉の家紋ですね。
そこには大黒天と書かれています。
また、天井を見上げると綺麗な極彩色の天井を目にします。
こちらは堂内が建てられた時からあるものと聞きました。
こちらが花天井で、平成になってから造られたと聞きました。
次ぎに本堂内に行くように案内され移動します。ここからは電気が付いてて明るいです。ここでは眉間籠り仏が祀られています。
豊臣秀頼が再興した大仏の眉間に納められていたという珍しい仏像だそうです。
次の間は盧舎那仏坐像が祀られていました。
豊臣秀頼が再興した高さ19㍍の盧舎那佛(大仏)の10分の1サイズだそうです。
ここに期間限定ですが、吉川霊華筆『龍の図』がありました。
吉川霊華(きっかわ れいか)今日、この龍図を見るまで知りませんでした。明治・大正・昭和の日本画家だそうで、この作品は1911年(明治44年)に画かれたもので、代表作の一つだそうです。
そして本堂最後の部屋には、豊臣秀頼が再建した際の金銅大仏の遺物が展示されてました。
瓦の大きさで当時の大仏殿の大きさが想像できます。これは実際に見てみないと分からないでしょう。
この龍の彫刻は、左甚五郎作と書いてありました。
この肖像画は、左が豊臣秀吉。右が豊臣秀頼です。
本堂は3間あって、説明付きでゆっくり見られました。拝観はここまでで、庭園があるのかどうか知りませんが、これ以上は行けません。
入口でお願いしてあった朱印帳を受け取って、ここを出ました。次は鐘楼です。あの方広寺鐘銘事件の鐘を見に行きます。
ここは拝観料がいらないので、いつでも見られます。私も何度も見てますが本堂を見て素通りでは帰れないでしょう。
明治の初めに鐘楼が取り壊されて、しばらくは方広寺の鐘は雨曝し状態になってたそうです。今では信じがたいものですが、1884年(明治17年)に再建されて現在に至っています。その天井には綺麗な彩色画が描かれています。
古写真を見つけました。奥が大仏殿です。雨曝し・・・本当だったんですね。驚きです。
1614年(慶長19年)、豊臣秀頼が方広寺大仏殿を再建します。その大梵鐘の銘が入れられたとき有名な方広寺鐘銘事件が起こります。徳川家康が突然、梵鐘の銘文中に国家安康と君臣豊楽が刻されていたことを家康の名を切ったものであり徳川家を呪い、豊臣家のみの繁栄を願っているものであると言いがかりをつけ、開眼供養の延期を命じます。後に大坂冬の陣、そして夏の陣の戦いにより豊臣家は滅亡になるきっかけとなる事件でした。
ところで大仏殿は1973年(昭和48年)の火災で焼失するまで残ってました。先ほど堂内を案内していただ時に質問してみました。「かつて大仏殿は、何処にあったんですか」と。答えは「隣の駐車場にあったんです」と答えがかえってきました。
そこで鐘楼から撮ってみました。
あの辺りに大仏殿があったんだ・・・。それも昭和48年まであったとは・・・。見てみたかったですね。ひょっとしたら親に連れられて見てたかも知れませんが・・・・。
昭和48年3月27日に方広寺大仏殿は炎上しました。原因は,大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末。自動火災報知設備が設置されておらず、手動の設備も故障していたなど、くつもの不運が重なって大火となりました。
方広寺は、豊臣秀吉が戦乱で焼失した奈良東大寺の大仏殿にならって、1586年(天正14年)に造営がはじまり、1595年(文禄4年)に完成しました。奈良東大寺の大仏より18㎝も大きい木造盧舎那佛(大仏)が安置された言います。また境内は現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含む広大なものでした。しかし、1596年(慶長元年)地震により倒壊してしまいます。その後1599年(慶長4年)息子の豊臣秀頼が盧舎那佛(大仏)を金銅仏として再建を図りますが、これも1602年(慶長7年)に火災で焼失してしまいます。秀頼は、その後も大仏殿の復興を計画し、1612年(慶長17年)に大仏が完成しました。その後、あの方広寺鐘銘事件がおこるわけです。大仏殿は1662年(寛文2年)の地震で大破。大仏は1667年(寛文7年)に木造で再興されます。この大仏も798年(寛政10年)落雷による火災で焼失し、以後は同様の規模のものは再建されませんでした。天保年間(1830年~44年)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進されましたが、前途した1973年(昭和48年)3月27日に焼失してしまいました。
こちらが焼失した大仏です。肩より上しかない大仏だったようですね。
鐘楼を見たあと方広寺を出て大和大路通りに出ました。そこには巨石が立ち並びます。
当時、広大だった境内の規模が分かります。
戦国歴史ファンにとっては、興味津々ですね。ここよりずっと東には豊国廟があって、秀吉のお墓もありますが、まだ行けてません。このあと、もう一ヶ所訪問します。つづく。
【方広寺 鐘楼】