「旧嵯峨御所大覚寺門跡 伝狩野山楽筆『四季耕作図襖』特別鑑賞会」大覚寺へ
11月30日(日)に京都文化協会主催の「旧嵯峨御所大覚寺門跡 伝狩野山楽筆『四季耕作図襖』特別鑑賞会」が大覚寺でありました。
「名残の紅葉を楽しむ」と言う主催者側のコンセプトもあったようですが、今年のモミジの色付きは早かったんですが、ここ数日の高温傾向のため紅葉はまだまだ見頃が続いてました。この日の鑑賞会は僧侶の案内で伽藍を見て行きますが、それらも普段個人でも見られるものです。ただ一つ魅力を感じたのは、通常非公開「庭湖館」に入れて精進料理をいただくことでした。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)で紅葉の写真を撮ったあと家で休憩し、その後、大覚寺に向かいました。集合時間は10時20分に表門前でした。
ここに来る途中、駐車場に京都定期観光バスが3台も止まってました。紅葉巡りだそうで・・・3台も・・・他に駐車場は満車。それほど紅葉では有名じゃないのにね。
受付を済ませたら玄関門を入り、式台玄関横の玄関から入ります。
この時期と言うか、今日まで展示されてる嵯峨菊も楽しめます。
この日の嵯峨菊は、残念ながら萎れてました。以前に綺麗な見事な嵯峨菊は見ています。そのため今日は久し振りに見られただけでも良しとしよう。
そして通常拝観と同じ、玄関から入ろうとしたら大問題が発生下駄箱に靴がびっしりと詰まってて入れるところが無い。こんなの何度も来てますが初めてです。そしたら今日、大覚寺を案内していただける僧侶さんが来られて、別の入口から入ることになりました。
通常は入れないところから入ったので、帰りは思い切り迷いました。分かりやすいように先ずは明智門まで戻ることにします。
玄関門の直ぐ横にありますが、一般の観光客は、ここから入れません。丹波亀山城よりの移築だそうです。
門を入ると正面に明智陣屋があって、明智門と同じく、亀山城の一部と伝わっています。切妻部分を正面とし、そこに瓦葺唐破風造りの差掛屋根を設け、玄関としています。
その玄関から入ったわけじゃなくて、その右側に秘密の入口があり、そこから入りました。
中は大混雑してました。私は大覚寺には朝一番にしか来たことが無かったので・・・知らなかったです。若き僧侶さんが最初に案内してくれたのは宸殿です。
写真は、後程自由拝観になったとき嵯峨菊展の会場から撮りました。通常拝観では、宸殿の全景は撮れません。
今日はMAXの混み具合でした。その中で僧侶さんから案内が始まりました。
810年(弘仁1年)頃、嵯峨天皇が離宮を営んだことに始まり、そして翌年に空海に命じて嵯峨離宮内に五大明王を安置する五覚院(五大堂の前身)を建立したと伝わります。876年(貞観18年)嵯峨天皇の皇女・正子内親王(淳和太皇太后)が嵯峨離宮を大覚寺とし、初代門跡(住職)に淳和天皇の第二子・常寂入道親王を迎え、以後、代々法親王が入寺となりました。
簡単な歴史の説明のあと、宸殿(重要文化財)の案内に移りました。
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮となった正子(東福門院)が女御所として建立されたものを延宝年間(1673年~1681年)に大覚寺に下賜されたものです。
寝殿内の襖絵は、狩野山楽筆によるもので、満開の牡丹の花(牡丹図)が描かれていま。
私は知ってましたが、僧侶さんより「お写真どうぞ」と案内がありました。ここは写真は撮れるんですよね、ただしレプリカですが。
次ぎに、上に開く蔀戸(しとみど)を観て欲しいと言われました。よくよく見ると金色のセミが分かります。
個人で来たら、そこまで見てないですね。セミも今日初めて知りました。何故セミなのか・・・理由は話されましたが・・・忘れました。
最後に、宸殿前の「右近の橘」「左近の梅」についてです。(写真は、左近の梅です。)
京都御所の紫宸殿は、左近の桜ですが、ここでは梅です。大覚寺では古式どおりに梅を植えています。
平安遷都の折、京都御所の紫宸殿前に橘と梅が植えられ「右近の橘、左近の梅」と呼ばれました。一説では、その後、村上天皇の時代(946年~967年在位)に皇居が火災で焼失、梅も焼けてしまい、替わりの梅を献上した紀貫之の娘が梅との別れを惜しみ「勅なれば いともかしこし鶯の 宿はと問わばいかが答えん」と詠まれました。感銘を受けた村上天皇が梅を返して桜を植え、「左近の桜」となったとされています。
次ぎに御影堂に移動します。縁側には嵯峨菊の鉢が置いてあります。
着くと堂内に入ります。そして2度目の案内が始まりました。
御影堂は大正天皇の即位式に使われた京都御所内の饗宴殿でした。今で言うパーティー会場でしたが、1925年(大正14年)の後宇多天皇600年遠忌に移築され、御影堂とされました。
歴史ある建物と思いましたが、浅かったんですね。それもパーティー会場だったとは・・・話は聞くものです。なお、写真は仏像を写すことたがけは禁止でした。
御影堂では、堂内の中央がガラス張りとなっています。僧侶らはお勤めの時、ガラスは張りの奥にある建物・心経殿に向かってお祈りされます。その中には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇が書かれた般若心経が1200年の歴史を超えて納められています。
般若心経殿(登録有形文化財) 案内を聞いて、大覚寺で一番神聖なお堂だと分かりました。大覚寺の信仰の中心だったんですね。今日は参加した中での一番の収穫でした。
1925年(大正14年)奈良法隆寺の夢殿を模して再建。設計は昭和初期を代表する住宅建築家藤井厚二氏。扉は勅封となっており60年に一度、中の経典を虫干しするために開扉されるそうです。
御影堂の堂内を出て、ここの前で案内がありました。奥が勅使門で手前が舞楽台です。
勅使門は、天皇陛下が大覚寺に来られた時にしか開けられない、格式の高い門だそうです。
あの台では、毎年源氏蛍千匹放生会が行われており、以前見に行きました。僧侶さんも「あの台は何ですか?」と聞かれるみたいです。
現在は大沢池の湖畔に建つ五大堂ですが、元々はあの石舞台に建っていました。大正天皇が勅使門から入られた時、天皇陛下から賜った御影堂が見えないのは失礼かと、移築されました。現在、石舞台は能やイベントなんかで広く使われてるそうです。
次ぎに五大堂に移動します。
写真は宸殿から見た五大堂で、手前は、石舞台です。
コースは知ってますが、僧侶さんに着いて行きます。ここで五大堂の堂内に入らずに、先ずは観月台に行かれました。
ここから紅葉している大沢池を一望できます。ただ、後程、大沢池は散策します。
僧侶さんは、ここで観月の夕べの話をされました。仲秋の名月を大沢池に浮かぶ舟にのって愛でるんですが、この舟に乗る舟券は並ばずには買えません。僧侶さも話されてましたが「早く来て並んで貰ったら買えますので」と。私も行きましたが、凄い行列で、なかなか買えません。
観月台で少しゆっくりしたあと、五大堂に入りました。ここでは写経することもできまるので、何名かはされてました。そんな中、僧侶さんの案内が始まりました。
五大堂の内陣には五大明王が祀られています。左から大威徳明王像、軍茶利明王像、不動明王像、隆三世明王像、金剛夜叉明王像で、いずれも1975年(昭和50年)の造像です。本来お祀りしていた五大明王像は、収蔵庫(現、霊宝館)の完成により移されました。
五大堂を出ると修行僧がお経をあげられてました。この風景は東寺でもよく見かけます。同じ真言宗の寺院ですからね。
このあと何処かに行かれました。なお、一般の参拝者は下に、降りることはできません。
ここで今日の参加者で2班に分かれます。A班は『四季耕作図襖絵』の鑑賞。B班は『霊宝館にて名宝展』の鑑賞で、私はB班でした。僧侶さんの案内は、ここまで。私は、久し振りの霊宝館に入ります。
「名残の紅葉を楽しむ」と言う主催者側のコンセプトもあったようですが、今年のモミジの色付きは早かったんですが、ここ数日の高温傾向のため紅葉はまだまだ見頃が続いてました。この日の鑑賞会は僧侶の案内で伽藍を見て行きますが、それらも普段個人でも見られるものです。ただ一つ魅力を感じたのは、通常非公開「庭湖館」に入れて精進料理をいただくことでした。
清涼寺(嵯峨釈迦堂)で紅葉の写真を撮ったあと家で休憩し、その後、大覚寺に向かいました。集合時間は10時20分に表門前でした。
ここに来る途中、駐車場に京都定期観光バスが3台も止まってました。紅葉巡りだそうで・・・3台も・・・他に駐車場は満車。それほど紅葉では有名じゃないのにね。
受付を済ませたら玄関門を入り、式台玄関横の玄関から入ります。
この時期と言うか、今日まで展示されてる嵯峨菊も楽しめます。
この日の嵯峨菊は、残念ながら萎れてました。以前に綺麗な見事な嵯峨菊は見ています。そのため今日は久し振りに見られただけでも良しとしよう。
そして通常拝観と同じ、玄関から入ろうとしたら大問題が発生下駄箱に靴がびっしりと詰まってて入れるところが無い。こんなの何度も来てますが初めてです。そしたら今日、大覚寺を案内していただける僧侶さんが来られて、別の入口から入ることになりました。
通常は入れないところから入ったので、帰りは思い切り迷いました。分かりやすいように先ずは明智門まで戻ることにします。
玄関門の直ぐ横にありますが、一般の観光客は、ここから入れません。丹波亀山城よりの移築だそうです。
門を入ると正面に明智陣屋があって、明智門と同じく、亀山城の一部と伝わっています。切妻部分を正面とし、そこに瓦葺唐破風造りの差掛屋根を設け、玄関としています。
その玄関から入ったわけじゃなくて、その右側に秘密の入口があり、そこから入りました。
中は大混雑してました。私は大覚寺には朝一番にしか来たことが無かったので・・・知らなかったです。若き僧侶さんが最初に案内してくれたのは宸殿です。
写真は、後程自由拝観になったとき嵯峨菊展の会場から撮りました。通常拝観では、宸殿の全景は撮れません。
今日はMAXの混み具合でした。その中で僧侶さんから案内が始まりました。
810年(弘仁1年)頃、嵯峨天皇が離宮を営んだことに始まり、そして翌年に空海に命じて嵯峨離宮内に五大明王を安置する五覚院(五大堂の前身)を建立したと伝わります。876年(貞観18年)嵯峨天皇の皇女・正子内親王(淳和太皇太后)が嵯峨離宮を大覚寺とし、初代門跡(住職)に淳和天皇の第二子・常寂入道親王を迎え、以後、代々法親王が入寺となりました。
簡単な歴史の説明のあと、宸殿(重要文化財)の案内に移りました。
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮となった正子(東福門院)が女御所として建立されたものを延宝年間(1673年~1681年)に大覚寺に下賜されたものです。
寝殿内の襖絵は、狩野山楽筆によるもので、満開の牡丹の花(牡丹図)が描かれていま。
私は知ってましたが、僧侶さんより「お写真どうぞ」と案内がありました。ここは写真は撮れるんですよね、ただしレプリカですが。
次ぎに、上に開く蔀戸(しとみど)を観て欲しいと言われました。よくよく見ると金色のセミが分かります。
個人で来たら、そこまで見てないですね。セミも今日初めて知りました。何故セミなのか・・・理由は話されましたが・・・忘れました。
最後に、宸殿前の「右近の橘」「左近の梅」についてです。(写真は、左近の梅です。)
京都御所の紫宸殿は、左近の桜ですが、ここでは梅です。大覚寺では古式どおりに梅を植えています。
平安遷都の折、京都御所の紫宸殿前に橘と梅が植えられ「右近の橘、左近の梅」と呼ばれました。一説では、その後、村上天皇の時代(946年~967年在位)に皇居が火災で焼失、梅も焼けてしまい、替わりの梅を献上した紀貫之の娘が梅との別れを惜しみ「勅なれば いともかしこし鶯の 宿はと問わばいかが答えん」と詠まれました。感銘を受けた村上天皇が梅を返して桜を植え、「左近の桜」となったとされています。
次ぎに御影堂に移動します。縁側には嵯峨菊の鉢が置いてあります。
着くと堂内に入ります。そして2度目の案内が始まりました。
御影堂は大正天皇の即位式に使われた京都御所内の饗宴殿でした。今で言うパーティー会場でしたが、1925年(大正14年)の後宇多天皇600年遠忌に移築され、御影堂とされました。
歴史ある建物と思いましたが、浅かったんですね。それもパーティー会場だったとは・・・話は聞くものです。なお、写真は仏像を写すことたがけは禁止でした。
御影堂では、堂内の中央がガラス張りとなっています。僧侶らはお勤めの時、ガラスは張りの奥にある建物・心経殿に向かってお祈りされます。その中には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇が書かれた般若心経が1200年の歴史を超えて納められています。
般若心経殿(登録有形文化財) 案内を聞いて、大覚寺で一番神聖なお堂だと分かりました。大覚寺の信仰の中心だったんですね。今日は参加した中での一番の収穫でした。
1925年(大正14年)奈良法隆寺の夢殿を模して再建。設計は昭和初期を代表する住宅建築家藤井厚二氏。扉は勅封となっており60年に一度、中の経典を虫干しするために開扉されるそうです。
御影堂の堂内を出て、ここの前で案内がありました。奥が勅使門で手前が舞楽台です。
勅使門は、天皇陛下が大覚寺に来られた時にしか開けられない、格式の高い門だそうです。
あの台では、毎年源氏蛍千匹放生会が行われており、以前見に行きました。僧侶さんも「あの台は何ですか?」と聞かれるみたいです。
現在は大沢池の湖畔に建つ五大堂ですが、元々はあの石舞台に建っていました。大正天皇が勅使門から入られた時、天皇陛下から賜った御影堂が見えないのは失礼かと、移築されました。現在、石舞台は能やイベントなんかで広く使われてるそうです。
次ぎに五大堂に移動します。
写真は宸殿から見た五大堂で、手前は、石舞台です。
コースは知ってますが、僧侶さんに着いて行きます。ここで五大堂の堂内に入らずに、先ずは観月台に行かれました。
ここから紅葉している大沢池を一望できます。ただ、後程、大沢池は散策します。
僧侶さんは、ここで観月の夕べの話をされました。仲秋の名月を大沢池に浮かぶ舟にのって愛でるんですが、この舟に乗る舟券は並ばずには買えません。僧侶さも話されてましたが「早く来て並んで貰ったら買えますので」と。私も行きましたが、凄い行列で、なかなか買えません。
観月台で少しゆっくりしたあと、五大堂に入りました。ここでは写経することもできまるので、何名かはされてました。そんな中、僧侶さんの案内が始まりました。
五大堂の内陣には五大明王が祀られています。左から大威徳明王像、軍茶利明王像、不動明王像、隆三世明王像、金剛夜叉明王像で、いずれも1975年(昭和50年)の造像です。本来お祀りしていた五大明王像は、収蔵庫(現、霊宝館)の完成により移されました。
五大堂を出ると修行僧がお経をあげられてました。この風景は東寺でもよく見かけます。同じ真言宗の寺院ですからね。
このあと何処かに行かれました。なお、一般の参拝者は下に、降りることはできません。
ここで今日の参加者で2班に分かれます。A班は『四季耕作図襖絵』の鑑賞。B班は『霊宝館にて名宝展』の鑑賞で、私はB班でした。僧侶さんの案内は、ここまで。私は、久し振りの霊宝館に入ります。
1968年(昭和43年)「勅封心経御写経1150年記念事業」として新築。鉄筋コンクリート切妻造瓦葺で公開型収蔵庫である。2007年(平成19年)には「後宇多法皇御入山700年記念事業」として増改築・耐震補強をし、2010年(平成22年)には施設名を「収蔵庫」から「霊宝館」に変更されました。霊宝館内は、桃山時代の狩野山楽筆「牡丹図(重文)」「松鷹図(重文)」の襖絵や江戸時代の渡辺始興筆「野兎図(重文)」大覚寺本尊である平安時代後期の仏師明円作「五大明王像(重文)」や鎌倉・室町時代の「五大明王像(うち三体重要文化財)」や愛染明王坐像などが常時安置されています。毎年、春と秋には、テーマを設け約3ヶ月間「嵯峨御所特別名宝展」と題し、大覚寺の歴史・文化を知る上での貴重な書物、絵画、仏具、工芸品など多くの宝物を展示し公開されてます。(有料)
A班とB班は15分で場所を交代してます。久し振りの霊宝館は良かったです。最近、私のマイブームである仏像は特に良かったです。じっくりゆっくり鑑賞させてもらいました。
そして次は正寝殿(重要文化財)に向かいます。
桃山時代の造営で書院造りとなっています。上段の間は後宇多法皇が政務を執った部屋で御冠の間と呼ばれています。
正寝殿には、「村雨の廊下(むらさめのろうか)」と呼ばれる諸堂を結ぶ回廊を通って行きます。縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光にたとえ、そう呼ばれています。
京都文化協会のスタッフに引導されて正寝殿に着きました。今回の特別鑑賞ではスタッフの解説付きで、狩野山楽筆『四季耕作図襖』を鑑賞します。
綴プロジェクト高精細複製品 公開日 10月3日(金)~12月8日(月) 本物はミネアポリス美術館に所蔵されており、250年振りの帰郷となりました。奥の部屋が「上段の間」「紅葉の間」「竹の間」となっています。
正寝殿の「竹の間」にかつて飾ってた襖会『四季耕作図』が帰ってきました。桃山時代の巨匠・狩野永徳に入門した狩野山楽が描いたとされる『四季耕作図』は流転の運命をたどり、1980年代にミネアポリス美術館が購入。その時には、襖だったはすが、いつしか屏風の状態に変わってました。他方で、この名作を往時の姿に迫ろうとする動き始まり、2003年度までに国の在外文化財修復プロジェクトにより修復が行われ、本来の襖の状態に戻されました。そして「綴プロジェクト」が高精細複製品の製作を担うことになり、2007年からスタート。現地ミネアポリス美術館で、キャノンの一眼レフカメラを使って撮影し、印刷は特注の和紙に印字されました。そして金箔・表具・引手などに京都の伝統工芸の技が活かされています。
ここで説明を聞いてたら、当然一般の参拝者も聞かれています。中はスタッフの方に質問される人まで出て来ました。できたら中に入って見たかったです。案内には特別鑑賞と書いてあったので、期待したんですが・・・残念でした。
その西隣とまた、その西隣の襖絵も狩野山楽と聞きました。
ただ写真が自由に撮れるので多分と言うか、もちろん模写てす。
正寝殿と向に見えている宸殿との間に坪庭がありました。
この庭には、紅葉はありませんが、苔の綺麗な落ち着いた庭でした。案内には樹齢200年のクチナシとありましたが、どれだろう。
ここで時計の針は11時50分になりました。案内では売店の土産物と休憩タイムだったんですが、スタッフの方は、ここから昼食会場に案内されました。その模様は続きます。