第49回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 妙心寺 衡梅院へ
先日訪問した頂妙寺についで今日は、第49回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開~秘められた京の美をたずねて~で、6年ぶりに公開された、妙心寺塔頭 衡梅院(こうばいいん)に行きました。
場所は、以前公開された東海庵や玉鳳院の近くにあって迷うこと無く山門前に着きました。
ここの見所は、妙心寺四派の源流「四河一源」の庭です。後程、ガイドさんから詳しく話しを聴きます。
入って右手に庫裏が、左手に玄関がありました。
玄関を入って靴を袋に入れます。そして傘は傘置きに入れますが、私のは折りたたみのため手に持って入りました。
玄関を上がると正面に受付があって、そこで京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待状を出しました。由緒書きは20円で購入し、朱印は300円で貼るタイプのものでした。スタンプラリーは3個溜まりましたが、これを使うのは、多分ずっと先になりそうです。
案内にしたがって先ず、真ん中の部屋・仏間に入ります。
方丈建築の代表的な造りとなっています。前に3部屋、裏に3部屋あって、今回は前の3部屋を見学できました。ここでガイドさんから案内がありました。最初は妙心寺創建時の話ですが、三門で聴いたので割愛します。
衡梅院は、応仁の乱で荒廃した1480年(文明12年)、妙心寺中興の祖・雪江宗深(せっこうそうしん)を開祖として創建されました。雪江禅師には、のちに「四派」の祖として妙心寺発展の礎となった四人の弟子がいました。景川宗隆(けいせんそうりゅう)(龍泉派)、悟渓宗頓(ごけいそうとん)(東海派)、特芳禅傑(とくほうぜんけつ)(霊雲派)、東陽英朝(とうようえいちょう)(聖澤派)であり、のちにそれぞれが妙心寺の発展の礎となり「四河一源(しかいちげん)}と称されました。
室中の間には、先ほど説明を受けた「四河一源」の扁額が架かっていました。
次ぎに庭の説明ですが、先に室内の案内です。ここは檀那の間(上間二の間)と言い、重要な檀家さんが来られた時に入られる部屋だそうです。
室内は撮影禁止です。写真はありませんが、真ん中には衝立があって昭和30年代に描かれたため、少し趣が違ってました。
次ぎにお庭の案内です。「四河一源」に因んで名づけた「四河一源の庭」はスギ苔が美しい枯山水庭園です。
上の写真の奥にある石組みを滝に見立てて、水の流れを白砂で表してたそうですが、いつしかスギ苔が一面に生えて、美しい庭園となりました。
中央の大きな石が雪江禅師を、その周囲に点在する石が四人の弟子を表しているそうです。
秋の紅葉も綺麗だそうで、写真が置いてありしました。残念ながら、その時期の公開は予定が無いそうです。
最後に礼の間(下間二の間)に移動します。こちらは一般の方の訪問時に通される部屋だそうです。
ここには獅子図が描かれています。ここで襖絵のおさらいです。
ここ方丈にある52枚の襖絵は、江戸初期の狩野派絵師・大岡春卜(おおおかしゅんぼく)筆によるものです。室中の間を飾る水墨障壁画「龍虎羅漢図」、礼の間の「獅子図」や檀那の間の「楼閣山水図」など見ることができます。
最後の案内は、楠の一枚皮で張られた天井が珍しい茶室「長法庵」です。
内部は撮影禁止のため写真はありません。案内が終わると内部に入って見学しました。
京都の南山城から大正時代に移設されただそうですが詳細はわかっていません。また、煎茶席や抹茶席にも使える茶室だそうで、抹茶席の場合は、外の庭を通って躙り口から入り、煎茶席は正面から入られるみたいです。
先ほど案内があった抹茶席の場合、ここを通られるんでしょう。
また、ここの窓もユニークですね。見る角度によっては文字に見えるとか
茶室の前には、お馴染みの蹲踞もありました。
そして、これで案内は終わりかと思ったら、最後の最後の下間一の間の襖絵です。
1985年(昭和60年)に加瀬藤圃(かせとうほ)画伯が雪江禅師の業績を「十六羅漢図」に見立てて描いたもので、8年の年月を費やしたものです。その時画伯85歳だったようです。
そして梵鐘が最後の案内でした。
1672年(寛文12年)に当時の住職が母親を弔うために寄進されてものです。蓮の葉の形をした珍しい梵鐘で、特別の法要のみ突かれるみたいです。
これで案内は終わりました。丁寧に説明してもらって、衡梅院を良く知ることができ満足です。
こちらには進めませんが、方丈裏と書院だと思います。
案内が終わったので、後は自由に見学は可能ですが、じっくり案内してもらったこともあって衡梅院を出ました。ここを出て妙心寺の北門から出ました。次は嵐電の「妙心寺」から北野白梅町に行き、そこから移動します。つづく。
【妙心寺塔頭 衡梅院 四河一源の庭】
場所は、以前公開された東海庵や玉鳳院の近くにあって迷うこと無く山門前に着きました。
ここの見所は、妙心寺四派の源流「四河一源」の庭です。後程、ガイドさんから詳しく話しを聴きます。
入って右手に庫裏が、左手に玄関がありました。
玄関を入って靴を袋に入れます。そして傘は傘置きに入れますが、私のは折りたたみのため手に持って入りました。
玄関を上がると正面に受付があって、そこで京都市文化観光資源保護財団からいただいた招待状を出しました。由緒書きは20円で購入し、朱印は300円で貼るタイプのものでした。スタンプラリーは3個溜まりましたが、これを使うのは、多分ずっと先になりそうです。
案内にしたがって先ず、真ん中の部屋・仏間に入ります。
方丈建築の代表的な造りとなっています。前に3部屋、裏に3部屋あって、今回は前の3部屋を見学できました。ここでガイドさんから案内がありました。最初は妙心寺創建時の話ですが、三門で聴いたので割愛します。
衡梅院は、応仁の乱で荒廃した1480年(文明12年)、妙心寺中興の祖・雪江宗深(せっこうそうしん)を開祖として創建されました。雪江禅師には、のちに「四派」の祖として妙心寺発展の礎となった四人の弟子がいました。景川宗隆(けいせんそうりゅう)(龍泉派)、悟渓宗頓(ごけいそうとん)(東海派)、特芳禅傑(とくほうぜんけつ)(霊雲派)、東陽英朝(とうようえいちょう)(聖澤派)であり、のちにそれぞれが妙心寺の発展の礎となり「四河一源(しかいちげん)}と称されました。
室中の間には、先ほど説明を受けた「四河一源」の扁額が架かっていました。
次ぎに庭の説明ですが、先に室内の案内です。ここは檀那の間(上間二の間)と言い、重要な檀家さんが来られた時に入られる部屋だそうです。
室内は撮影禁止です。写真はありませんが、真ん中には衝立があって昭和30年代に描かれたため、少し趣が違ってました。
次ぎにお庭の案内です。「四河一源」に因んで名づけた「四河一源の庭」はスギ苔が美しい枯山水庭園です。
上の写真の奥にある石組みを滝に見立てて、水の流れを白砂で表してたそうですが、いつしかスギ苔が一面に生えて、美しい庭園となりました。
中央の大きな石が雪江禅師を、その周囲に点在する石が四人の弟子を表しているそうです。
秋の紅葉も綺麗だそうで、写真が置いてありしました。残念ながら、その時期の公開は予定が無いそうです。
最後に礼の間(下間二の間)に移動します。こちらは一般の方の訪問時に通される部屋だそうです。
ここには獅子図が描かれています。ここで襖絵のおさらいです。
ここ方丈にある52枚の襖絵は、江戸初期の狩野派絵師・大岡春卜(おおおかしゅんぼく)筆によるものです。室中の間を飾る水墨障壁画「龍虎羅漢図」、礼の間の「獅子図」や檀那の間の「楼閣山水図」など見ることができます。
最後の案内は、楠の一枚皮で張られた天井が珍しい茶室「長法庵」です。
内部は撮影禁止のため写真はありません。案内が終わると内部に入って見学しました。
京都の南山城から大正時代に移設されただそうですが詳細はわかっていません。また、煎茶席や抹茶席にも使える茶室だそうで、抹茶席の場合は、外の庭を通って躙り口から入り、煎茶席は正面から入られるみたいです。
先ほど案内があった抹茶席の場合、ここを通られるんでしょう。
また、ここの窓もユニークですね。見る角度によっては文字に見えるとか
茶室の前には、お馴染みの蹲踞もありました。
そして、これで案内は終わりかと思ったら、最後の最後の下間一の間の襖絵です。
1985年(昭和60年)に加瀬藤圃(かせとうほ)画伯が雪江禅師の業績を「十六羅漢図」に見立てて描いたもので、8年の年月を費やしたものです。その時画伯85歳だったようです。
そして梵鐘が最後の案内でした。
1672年(寛文12年)に当時の住職が母親を弔うために寄進されてものです。蓮の葉の形をした珍しい梵鐘で、特別の法要のみ突かれるみたいです。
これで案内は終わりました。丁寧に説明してもらって、衡梅院を良く知ることができ満足です。
こちらには進めませんが、方丈裏と書院だと思います。
案内が終わったので、後は自由に見学は可能ですが、じっくり案内してもらったこともあって衡梅院を出ました。ここを出て妙心寺の北門から出ました。次は嵐電の「妙心寺」から北野白梅町に行き、そこから移動します。つづく。
【妙心寺塔頭 衡梅院 四河一源の庭】