油の神様として親しまれてる 離宮八幡宮へ
JR山崎駅を出て、西国街道に西進むと離宮八幡宮がありました。今日は、せっかく大山崎町までやって来たので、事前に調べて何カ所か回る計画を立てました。その中は、予約見学でしか見られないものもあります。
この離宮八幡宮も当初の予定どおり事前に調べてました。先ずは東門(大山崎町指定文化財)から入ります。
JR山崎駅から来ると、当然ここから入るでしょう。惣門は、後程紹介します。
東門をくぐって、旧社務所を見ながら奥へと進みます。
その前の庭には、葉ボタンが植わってましたね。この日は、まだ2月です
。
そんなに境内は広くないので、正面に着きました。大きな石鳥居です。
奥に拝殿、その奥に本殿があってお参りします。鳥居の左手に手水所がありました。
この日は、寒かったんです。晴れてるようですが、少し小雨が降ってるんです。予報では雨マークは出て無かったんですが゛・・・。
鳥居をくぐると次ぎに中門です。
ここが嵯峨天皇の離宮である「河陽宮」の跡地であったことを示す、石碑がありました。
予備知識なしで訪れたので、この銅像のことも分かりませんでした。油祖像と書いてありました。
HPによると神人(じにん:寺社の雑役、力仕事をする人)の像だそうです。
また、その奥にあった「本邦製油発祥地碑」です。
ここに来るまで、山崎が本邦製油発祥の地であったこは知らなかったです。
平安時代末頃より燈明用の荏胡麻油の生産が始まり鎌倉時代には油の製造販売を山崎の油商人が独占していましたが、以後、江戸時代になって菜種油にその座を譲るまで山崎の油は全国に知られていました。
いろいろ説明文を読んでたら知らない事の多さを知ることになりました。そして中門をくぐってお参りします。手前拝殿、奥が本殿です。
石清水八幡宮の元社にあたる神社で、八幡大神を祭神としています。
859年(貞観元年)国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」が建立されましたが、ここは嵯峨天皇「河陽(かや)離宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称されました。貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされいます。
ここから桂川の対岸に、旧称男山八幡宮、現称石清水八幡宮があって有名ですが、ここも石清水八幡宮を名乗っていたとは、知らなかったですね。
拝殿・本殿の西側には、多くの社がありました。
その中の一つを注目すると・・・・。
菅原道真が太宰府に流される時に立ち寄った証拠
がありました。道真の腰掛石です。
菅原道真が太宰府へと流された折に西国街道脇の石に座して休息。その時に和歌を詠んだとされています。「君が住む宿の梢をゆく 雲 かくるるまでも かへり見しかな」 いろいろ探すと何かが出てきます
。
前途したとおり境内は広くありません。ここで時間を取っても仕方ないので・・・。しかし、よくよく見るとまだまだ案内がありました。写真は神馬像です。
この神馬像は、何も書いてふりませんでしたが、右隣の石碑に注目です。
説明文を読むと神領境標石(大山崎町指定文化財)と言い、離宮八幡宮の神領を示す標識なんでしょう。
字体から室町時代に建てられたものらしいです。
次ぎにかしき石(大山崎町指定文化財)です。かつて相応寺の塔の礎石であるらしい。
かつて嵯峨天皇の河陽宮のあった頃には山崎橋がかかり河岸に相応寺があったそうです。
最後に惣門(大山崎町指定文化財)から出ました。
おそらくと言うより、こちらが正門なんでしょう。東門と比べて立派な門構えでした。
そして再び西国街道に出ました。そしたら直ぐに京都府から大阪府の県境に出ます。
ここから京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島本町に入ります。しかし島本町は、市外局番は075なんですよね。私のブログでは、三島郡も乙訓郡大山崎町で一括りします
。
上記写真の正面にこれから行く、工場見学が見えています
。まだ時間は早かったんですが、これから向かいます。つづく。
【離宮八幡宮 中門】

この離宮八幡宮も当初の予定どおり事前に調べてました。先ずは東門(大山崎町指定文化財)から入ります。
JR山崎駅から来ると、当然ここから入るでしょう。惣門は、後程紹介します。
東門をくぐって、旧社務所を見ながら奥へと進みます。
その前の庭には、葉ボタンが植わってましたね。この日は、まだ2月です

そんなに境内は広くないので、正面に着きました。大きな石鳥居です。
奥に拝殿、その奥に本殿があってお参りします。鳥居の左手に手水所がありました。
この日は、寒かったんです。晴れてるようですが、少し小雨が降ってるんです。予報では雨マークは出て無かったんですが゛・・・。
鳥居をくぐると次ぎに中門です。
ここが嵯峨天皇の離宮である「河陽宮」の跡地であったことを示す、石碑がありました。
予備知識なしで訪れたので、この銅像のことも分かりませんでした。油祖像と書いてありました。
HPによると神人(じにん:寺社の雑役、力仕事をする人)の像だそうです。
また、その奥にあった「本邦製油発祥地碑」です。
ここに来るまで、山崎が本邦製油発祥の地であったこは知らなかったです。
平安時代末頃より燈明用の荏胡麻油の生産が始まり鎌倉時代には油の製造販売を山崎の油商人が独占していましたが、以後、江戸時代になって菜種油にその座を譲るまで山崎の油は全国に知られていました。
いろいろ説明文を読んでたら知らない事の多さを知ることになりました。そして中門をくぐってお参りします。手前拝殿、奥が本殿です。
石清水八幡宮の元社にあたる神社で、八幡大神を祭神としています。
859年(貞観元年)国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」が建立されましたが、ここは嵯峨天皇「河陽(かや)離宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称されました。貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされいます。
ここから桂川の対岸に、旧称男山八幡宮、現称石清水八幡宮があって有名ですが、ここも石清水八幡宮を名乗っていたとは、知らなかったですね。
拝殿・本殿の西側には、多くの社がありました。
その中の一つを注目すると・・・・。
菅原道真が太宰府に流される時に立ち寄った証拠

菅原道真が太宰府へと流された折に西国街道脇の石に座して休息。その時に和歌を詠んだとされています。「君が住む宿の梢をゆく 雲 かくるるまでも かへり見しかな」 いろいろ探すと何かが出てきます

前途したとおり境内は広くありません。ここで時間を取っても仕方ないので・・・。しかし、よくよく見るとまだまだ案内がありました。写真は神馬像です。
この神馬像は、何も書いてふりませんでしたが、右隣の石碑に注目です。
説明文を読むと神領境標石(大山崎町指定文化財)と言い、離宮八幡宮の神領を示す標識なんでしょう。
字体から室町時代に建てられたものらしいです。
次ぎにかしき石(大山崎町指定文化財)です。かつて相応寺の塔の礎石であるらしい。
かつて嵯峨天皇の河陽宮のあった頃には山崎橋がかかり河岸に相応寺があったそうです。
最後に惣門(大山崎町指定文化財)から出ました。
おそらくと言うより、こちらが正門なんでしょう。東門と比べて立派な門構えでした。
そして再び西国街道に出ました。そしたら直ぐに京都府から大阪府の県境に出ます。
ここから京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島本町に入ります。しかし島本町は、市外局番は075なんですよね。私のブログでは、三島郡も乙訓郡大山崎町で一括りします

上記写真の正面にこれから行く、工場見学が見えています

【離宮八幡宮 中門】