名残の桜は 修学院離宮【中離宮編】へ

下離宮から美しい田園風景と松並木をガイドさんのあとについて行き、歩くこと5分で、表門に着きました。以前、この前にも綺麗な桜が咲いてたんですが、葉桜でした

画像
しかし、ここが中離宮の入口ではありません。そのためガイドさんの案内もなく、次ぎに進みます。

画像
このまま進んで階段を上がります。狭い松並木から広い砂利道を進みます。

中離宮は、後水尾上皇時代の第8皇女・朱宮光子(あけのみてるこ)内親王に賜った朱宮御所(音羽御所)でした。上皇が崩御し朱宮は出家し、御所を林丘寺に改まりますが、1885年(明治18年)。林丘寺が寺領の半分を宮内省に返還、新たに中離宮が整備されたました。

すると次ぎに中門があって、そこの左側の鍵を開けられ、参加者は入ります。

画像
最初は、鍵を掛けられる度に、次ぎにどんな風景が飛び込んで来るか楽しみでしたね。今は・・・慣れました

この中門をくぐると(参観者は通用門を入ると)目の前に綺麗な庭園が飛び込んできます。ここは紅葉が綺麗だと言われていますが、まだ紅葉の時期、抽選に当たったことがありません。

画像
画像
画像
画像
画像
画像
画像
写真下の楽只軒の前庭奥に滝の石組みがあって、鑓水に濯いでいます。その鑓水は客殿の前を西に流れ楽只軒前の池(写真・上)に濯ぎます。

こちらの灯籠は客殿前の前庭で見つけました。織部灯籠です。

画像
切支丹灯籠とも呼ばれています。この形の灯籠も覚えました

今日のガイドさんは足が速いのか、写真を撮ってると直ぐに置いてきぼりされてしまいます。そしてガイドさんが客殿前に全員揃ったところで案内が始まりました。

中離宮には、朱宮御所造営時に建てられた楽只軒(らくしけん)と、東福門院没後に、女御所の奥御対面所(おくごたいめんしょ)を移した客殿があります。

画像
画像
下写真は、霞棚と言われ、桂離宮新御殿の桂棚、醍醐三宝院の醍醐棚とともに天下の三名棚と称されます。

画像
この鯉の絵の作者は不明ですが、網の絵は円山応挙の筆だと伝わっています。

ここの鯉は、夜な夜な絵から抜け出て池で泳ぐので網が書き加えられました。その杉戸に閉じ込めたため、中離宮の池には鯉がいないという。

客殿には、世に名高い霞棚の他に、杉戸に祇園祭の船鉾・放下鉾・岩戸山が細密な極彩色で描かれています。東福門院は72歳で没したが、その臨終に招き入れたのが文智女王でした。文智女王は後水尾上皇の第一皇女で、東福門院入内後、仏門に入り修学院に圓照寺を創建します。修学院離宮造営のため寺を明け渡し、奈良に隠棲することなりました。

昨年訪れた圓照寺が修学院離宮とつながりがあったんですね。そう言えば圓照寺での説明で聞きました。すっかり忘れてました

説明が終わると次ぎに移動です。客殿の東側を通ると林丘寺に通ずる階段があります。

画像
もちろん、ここには行けませんが・・・林丘寺の拝観・・・もっとも難しいでしょうね。

次ぎの案内は、楽只軒です。1668年(寛文8年)かその前年に創建されたそうです。

画像
画像
画像
手前の6畳は一の間で吉野山の桜が描かれ、奥の間は二の間で龍田川の紅葉が描かれています。筆者はともに狩野探信(狩野探幽の子)です。また、「楽只軒」の扁額は後水尾上皇の筆によるものです。

楽只軒から客殿を見ると、「網干の欄干」と呼ばれる漁村で網を干した形を表した低い手すりが付いています。

画像
画像
ガイドさんが案内してくれて、思い出しまた。ここの写真はいつも忘れてしまいますが、今回は

本来は客殿に向かう途中の話でしたが・・・客殿に向かう途中に、傘松がありました。案内がなかったのでアップするのを忘れるところでした

画像
ここは林丘寺の書院跡だそうです。宮内省に寺領を半分返却するまであったそうで、その跡地に松が植えられました。

楽只軒から階段を降りてくると、正面に旧林丘寺の表総門がありました。

画像
特に案内はありませんでしたが(ガイドさんから離れてたので、ひょっしたらあったかも・・・分からない)、地図を見て分かりました。

そして表門を出て左にあったを撮りました。

画像
画像
下の写真は2007年4月9日の時の模様です。綺麗に咲いてたのに・・・今年は咲くのが早かった

中離宮を出たら、次が上離宮です。この修学院離宮のハイライトと言えるかと思います。

画像
また、松並木を歩いて行きます。この田園風景も素敵なんですよね。

ここは紅葉を見てみたいですね。桂離宮仙洞御所は運良く見られました。次は・・・修学院離宮です。次回は上離宮です。つづく。

【修学院離宮 中御茶屋 楽只軒】



この記事へのトラックバック