平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開 西念寺へ

5月5日(火・祝)の「こどもの日」は、朝から晴天に恵まれました。それなら混雑する前にと・・・朝一番で、平成27年度 春季京都非公開文化財特別公開西念寺(さいねんじ)に行きました。

上賀茂神社でも案内しましたが、事前に京都市文化観光資源保護財団より拝観券を2枚もらってて、上賀茂神社で1枚使いました。そして・・・西念寺で使い切りました

西念寺には初めて来ましたが、以前2013年秋に初公開されました。その時は行けませんでしたが、バスが信号待ちした時に、西念寺の場所は知りました。その時の印象は・・・これって・・・お寺でした。

バスを烏丸五条で降りると、五条通を東に進みます。その先の高倉通りに西念寺はありますが、目印は歩道橋です。バスを降りてから5分もかからず西念寺に9時10分過ぎに着きました。何故か入口には鳥居があります。

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これも知ってたので、慌てることはありません。ただ足元に案内は出てました。

ここの鳥居からは入らず、五条通をそのまま東に行くと特別拝観恒例の看板があるので、そこの玄関から入りました。

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見たとおり、看板が出てないと普通の家と間違えて、通り過ぎてしまいます。

玄関を入ると左手に学生さんが受付をしてて、そこで招待券を渡します。特に由緒書きはありませんでしたが、新聞記事のコヒーを貰いました。

堂内と言っていいのか分かりませんが、想像してたより広かったです。それと御朱印ですが、学生さんの横に住職さんが座っておられ、そこで書いてもらいました。(最初に朱印帳を預けます。西念寺のご本尊のと神社の二種類あって、私は神社用のも持ってきたので、二種類いただきました。)

入ると前の組の案内をされてたので、暫く待ちました。その間に堂内をゆっくり見学。そしたら学生さんのガイドが始まりました。だいたい5~6名でしょうか聞いてました。

西念寺は、報國山(ほうこくさん)西念寺(さいねんじ)と言って、法然上人を宗祖と仰ぎ、西山證空(せいざんしょうくう)上人を祖師と仰ぐ浄土宗西山禅林寺派に属するお寺です。創建時は不明ですが、開基の月空上人珠心(げっくうじゅしん)大和尚が亡くなれた1581年(天正9年)までには創建されたと思われます。元は左大臣・源融の六条河原院の邸宅跡に建っていましたが、その後、豊臣秀吉の政策により本願寺領を設けるため、現在の地に移りました。そして時は遡り、戦時中の1943年(昭和18年)に、京都の市街地を戦火から守るために戦時特別政策により、五条通りが50㍍に拡幅されたため、大半の寺領が接収のため、3日間で取り壊されと言い、現在は寺領も墓領も4分の1に圧縮。戦後に本堂や書院が再建され現在に至っています。ご本尊は阿弥陀如来坐像で、鎌倉時代初期の湛慶(運慶の長男・東大寺金剛力士像など)一派の作像と考えられます。特徴は、両手の印相(仏の意志や教えを示すこと)は指先を上向きでなく前方向に差し出してることです。次ぎに屏風図「松鶴図」ですが、浅井柳塘(あさいりゅうとう)によって、1897年(明治30年)に描かれました。浅井柳塘は、西念寺の檀家さんであったようです。当時は襖絵でしたが、戦後に屏風図に造り替えられました。

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写真はポスカードより。特別拝観中は、見やすいように全面に出されてて、見やすくなってました。先ほど案内で聞いた事を、間近で確認できました。

次ぎにご本尊の右側に架かっている「涅槃図」について案内がありました。

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こちらもポストカードから。実物を鑑賞する時は、「口にタオルやハンカチを当てて見て下さい」と言われました。間近で鑑賞可能です。ただ年代のためか、大変見づらいです。

2009年(平成21年)の調査により、平安時代後期の作と判明しました。現存する平安時代の作としては、国宝に指定されている高野山金剛峯寺の「涅槃図」、重要文化財に指定されている東京国立博物館の「涅槃図」があります。平安時代の「涅槃図」の特徴として、描かれてる動物の数が少ない。二つ目にお釈迦様が横たわってる寝台の右側が見える。三つ目は、お釈迦様の枕が金の蓮の形をしている。四つ目は、「涅槃図」全体の画面に対してお釈迦様が大きく描かれてる。この「涅槃図」の右側に木々に隠れて「純陀(じゅんだ)」(釈迦に最後の供養(キノコ料理)を捧げた人物)が、また古代インドの医者耆婆(きば)大臣が左の袂で目頭を押さえる構図が平安時代の「仏涅槃図の特徴と言えます。次ぎに真ん中上に羅睺羅(らごら)尊者が描かれています。お釈迦様の息子さんで、お釈迦様の顔と同じ色で描かれてるのも特徴です。西念寺の「涅槃図」には、お釈迦様の母君・摩耶夫人(まやふじん)が描かれていません。通常なら上部に描かれていますが、元々描かれて無かったか、過去の修理の際に切り取られてしまった詳細は分からないそうです。最後に、真ん中の下に黒い法衣を着た人物が描かれています。見るからに日本のお坊さんと思われ、インドのお坊さんはこのような法衣は着ないたいです。では誰かそれは「涅槃図」を描かせた発起人だと思われるそうです。

この「涅槃図」は剥落やカビで痛みが激しいそうで、修復に2000万円、修理期間は4年もかかるみたいですが、西念寺は見たとおり、小さい寺て寺力では無理だそうで、国の補助・援助が必要だと訴えられてました。文化財指定の調査員をお願いしているが、いつになるかも未定だそうです。

平安時代後期の「涅槃図」は、3作しか現存してないのて、一刻も早い援助をしてほしいですね。堂内は小さいので、他に見るものありませんので、出口で朱印帳を受取、ここを出ました。

出ると本堂の裏に回りました。墓地の前にある井戸を見るためです。

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戦時中、先代住職さんは空襲警報が発令される度に、先ほどの阿弥陀如意坐像と涅槃図を抱えて、水の入った井戸に飛び込んで命に代え守られたそうです。

このような努力があってこそ、現在も貴重なものを見られるんです。後世に貴重な文化財を残して行くのも私らの努めだと思いました。

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後に見えているのが、来る時に目標にした、歩道橋です。

西念寺は来て良かったです。いろいろ考えされられました。そこで玄関を出て、五条通り沿いに本堂書院を撮ろうとしました。

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どこまでが本堂て書院か分かりませんが、これが精一杯です。

次ぎに、西念寺の外観を上から撮ろうとして歩道橋を登りました。なお、五条通りを渡るのに歩道橋は必要ありません。五条高倉には、横断歩道があります。

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登り初めて・・・気が付きましたが・・・後戻りしませんでした。この歩道橋の壁が高くて・・・外の景気を見ることができません。よって写真も撮ることができません。

五条通りをそのまま渡ることにして・・・歩道橋の向こう側に西念寺が見えています。(看板分かるかなぁ

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拡張される前の五条通りは、北側の歩道が旧五条通りでした。現在の五条通りと南側の歩道が、強制的に解体された所にあたります。西念寺の境内もこうして見ると、結構大きなお寺だったようですね。

【報國山 西念寺】



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