豊臣秀吉の遺構が残る、廬山寺 御土居へ
廬山寺は桔梗の花で有名で、2013年7月に見に行きました。その時に予告した
廬山寺 御土居を見に行こうと思いましたが、場所が分かりません。
そこで拝観受付の学生さんに「御土居の場所知りませんか
」と尋ねてみました。そしたら快く教えてくれので、そちらに向かいました。参考までに案内は何も出てません。
先ず廬山寺境内の南側を東に進みます。「こんな所に通路があったとは・・・」と思いつつ参道を進むと突き当たりに出ます。
ここまで来ると案内が出てるのかと思いましたが・・・何もありません。そこで北側を見ると廬山寺の本堂が見えています。
そのまま北側に進むと、突き当たりは慶光天皇 廬山寺陵でした。
ここも調べましたが、御土居らしきもは見当たりません。
もう一度、元に戻り観察すると、東には墓地があり入口があります。
もう、ここしか行く所がないので、墓地の中に入ってみると・・・。
墓地の中を東の突き当たりまで行くと・・・やっと見つけました。「史蹟 御土居」の石標を
。
結構探したましたね。まさか・・・墓地の中にあったとは・・・。せっかくなんで上がってみました。
これ以上は、上がれません。こんな街の真ん中に秀吉の御土居が残ったのは・・・驚きです。
御土居は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁です。京都の都市改造の一環として1591年(天正19年)に多くの経費と労力を費やして築きました。御土居の土塁は、堀や川、池、沼を利用し、全長は22.5㎞に及び、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川、南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口(粟田口・東寺口・丹波口・鳥羽口・鞍馬口・大原口・荒神口)を設け、洛外との出入口としました。現在、鞍馬口、丹波口、荒神口などの地名はその名残です。江戸時代になるると外敵の脅威もなくなり、また市街地が拡張するのに伴い、無用のものとなり取り壊されて行きました。1930年(昭和5年)市内に残る御土居のうち8箇所が「史跡」に指定、1965年(昭和40年)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され、現在9箇所が指定地となっています。
御土居は、ほんの一部残ってましたし、ツツジも綺麗でした。洛中から御土居を見た後は、洛外に出て帰りました。
【廬山寺 史蹟「御土居」】


そこで拝観受付の学生さんに「御土居の場所知りませんか

先ず廬山寺境内の南側を東に進みます。「こんな所に通路があったとは・・・」と思いつつ参道を進むと突き当たりに出ます。
ここまで来ると案内が出てるのかと思いましたが・・・何もありません。そこで北側を見ると廬山寺の本堂が見えています。
そのまま北側に進むと、突き当たりは慶光天皇 廬山寺陵でした。
ここも調べましたが、御土居らしきもは見当たりません。
もう一度、元に戻り観察すると、東には墓地があり入口があります。
もう、ここしか行く所がないので、墓地の中に入ってみると・・・。
墓地の中を東の突き当たりまで行くと・・・やっと見つけました。「史蹟 御土居」の石標を

結構探したましたね。まさか・・・墓地の中にあったとは・・・。せっかくなんで上がってみました。
これ以上は、上がれません。こんな街の真ん中に秀吉の御土居が残ったのは・・・驚きです。
御土居は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁です。京都の都市改造の一環として1591年(天正19年)に多くの経費と労力を費やして築きました。御土居の土塁は、堀や川、池、沼を利用し、全長は22.5㎞に及び、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川、南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口(粟田口・東寺口・丹波口・鳥羽口・鞍馬口・大原口・荒神口)を設け、洛外との出入口としました。現在、鞍馬口、丹波口、荒神口などの地名はその名残です。江戸時代になるると外敵の脅威もなくなり、また市街地が拡張するのに伴い、無用のものとなり取り壊されて行きました。1930年(昭和5年)市内に残る御土居のうち8箇所が「史跡」に指定、1965年(昭和40年)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され、現在9箇所が指定地となっています。
御土居は、ほんの一部残ってましたし、ツツジも綺麗でした。洛中から御土居を見た後は、洛外に出て帰りました。
【廬山寺 史蹟「御土居」】