大山崎町散策 観音寺(山崎聖天)へ
JR山崎駅を降りると、まず東に進みます。するとJR京都線の踏切があるので渡ります。渡ってそのまま直進すると、以前訪問したアサヒビール大山崎山荘美術館がありますが、今日は右手を進みます。
右手には看板が出てるので安心です。なお、山崎駅の案内所で観光地図をもらい、これが大変助かりました。
そして線路沿いに道なりに歩くと石標があって山崎院跡と書いてありました。
奈良時代に東大寺の建立に尽力した高僧・行基は、畿内に49もの寺院を建立しました。その行基が725年(神亀2年)に大山崎に入り、淀川に山崎橋を架け、その橋を管理し行基の教えを広める道場して731年(天平3年)山崎院を建立しました。山崎院の場所は、ながらく不明でしたが、1989年(平成元年)の発掘調査により特定されました。
時間があるので、ゆっくり駒札をよんでから歩き出しました。ゆるやかな坂を歩いていくと、右手に淀川が見える眺望の良い空き地がありました。
写真真ん中に見えている大きな建物は、イオン関西NDCと読めます。要するに物流センターなんでしょう。
いよいよ、ここから急な坂で、山崎聖天参道と書いてあるので間違なく、ここを登ります。
事前に調べて、ここと次ぎに訪問する予定の寺院は、坂が急な事も知ってました。覚悟の上です
。
聞いてたほど、きつくない坂を少し登ると段々勾配がきつくなってきたところ、右手に稲荷神社が見えました。赤い鳥居をくぐると稲荷大明神が祀られてました。
しかし、駒札などの案内が何もないので、由緒なんかは不明です。
朱塗りの鳥居を出ると、山崎聖天の西口山門があります。ここが入口なんだろうと思い見上げると思わず引き返そうと思うぐらいの急な階段が待ち構えています。
まだ、登ってもいないのに引き返そうとは・・・この階段はパスさせてもらいました。
その横に緩やかな階段が見えたので、そちらを選択ましした。少し登り始めると重厚な仁王門が見えました。もちろん仁王像もありましたが・・・。
それより、ここは・・・虫が多すぎ・・・この時期・・・蚊はいないでしょうけど・・・何とかして
。
こちらが表参道にあたるそうで、西口山門の急な階段に比べと緩やかですが、それでも階段はしんどいです。JR山崎駅から歩いて20分。やっと境内に入りました。
観光寺院ではないので、境内は自由散策です。近所の子供が数名遊んでました。
観音寺(山崎聖天)は、平安時代の899年(昌泰2年)に宇多法皇が御願寺として創建されますが、その後、衰退します。江戸時代初期に勝尾寺(箕面)の僧・木食上人以空が、この地にあった聖徳太子の作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊とし、中興開山されました。それ以後、歓喜天(かんぎてん)を祀り商売繁盛家運隆昌を願う、京都、堺など商人の参詣を得て大いに発展します。こうしたことで、本尊の十一面千手観音菩薩よりも 歓喜天への信仰によって、「山崎の聖天さん」として知られるようになりました。しかし、江戸幕府末の禁門の変の際、1864年(元治元年)、長州の尊皇攘夷派の部隊が山崎の地に陣を取ったことにより、戦火に巻き込まれ、観音寺もこの時の戦火によって、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失してしまいました。
先ずは本堂から。前途したとおり観光寺院ではないので堂内には入れません。本尊は戦火を免れた十一面千手観世音菩薩です。
1880年(明治13年)西観音寺の本堂を移築したもの。
本堂の左側には、歓喜天が祀られている聖天堂です。
歓喜天(かんぎてん)を祀り、聖天さんの通称はここからです
。江戸時代から住友、鴻池、三井など大坂の豪商達が「商売繁盛」の御利益があるとして信仰しました。
ここも天王山の登山口にあたるみたいで、ハイキングの人も境内に立ち寄られてました。来てから思ったのは、結構境内は広いですね。ここが手水舎です。
最初に上がって来た時、近所の家族連れがてを洗われてたので、後になりました。
その手水舎の奥に庫裏がありました。ここまで来たのは、お寺の方を探していたんです。
実は、朱印帳を持ってきたので、御朱印が欲しかったです。それで「庫裏が開いてるかなぁ」と思ったんですが、閉まってました。
最初に階段で上がった所に社務所があって、中には電気も付いてたんですけど、誰もいなかった・・・・。
いろいろ探してみましたが・・・残念。そんなに遠方でもないけど・・・何せあの坂は・・・きついです
。
実は、鐘楼前から撮ってました。大晦日には除夜の鐘が突かれるみたいです。
釣り鐘は桂昌院の奉納で、まわりに四仏の種子があります。
本堂前にあった住友吉左衛門友信が寄進した大灯籠です。
住友吉左衛門友信・・・住友家三代目当主。以後住友家当主は、吉左衛門を名乗ったそうですね、どうでもいい事ですが
。
先ほどの聖天堂近くにあった土蔵は、禁門の変の戦火で、唯一焼け残った建物です。
その前にあるのが光明殿でした。
社務所が留守のため由緒書きを貰い損ねたため、詳細は分かりません。
先ほどから天王山へのハイキングをされてる人が、聖天堂の奥に入っていかれます。何処に行かれたのか様子を見に行くと西門がありました。
ここが天王山への登山口なんですね。
余談ですが・・・会社で、登山を趣味にされてる人がいて・・・天王山の登山について聞いてみました。標高は270㍍とそんなに高くないですが、急勾配の坂が頂上まで続いてるそうです。「3回ほど登ったけど、あそこは坂が急でしんどいよ」が感想だそうです。余談でした。
境内には、桜の木がありました。ここは桜の名所でもあるんですね。今は葉桜になってて、咲いてるイメージ湧いてきません
。
また、藤棚もあったので、そろそろ花をつけそうな感じでした。
ここには10分ほど居ました。堂内にも入れないし・・・朱印ももらい損ねたし・・・まぁ、12時の予約拝観があるので、ここを出ることにしました。行きは逃げてしまいましたが、帰りはこの階段を下ります。
上から見ても下の門が小さく見えるほど、長い石段の階段を下ります。
階段を下って元来た道を歩いて行きます。そして冒頭の看板の所まで戻ってきました。つづく。
【山崎聖天 本堂】

右手には看板が出てるので安心です。なお、山崎駅の案内所で観光地図をもらい、これが大変助かりました。
そして線路沿いに道なりに歩くと石標があって山崎院跡と書いてありました。
奈良時代に東大寺の建立に尽力した高僧・行基は、畿内に49もの寺院を建立しました。その行基が725年(神亀2年)に大山崎に入り、淀川に山崎橋を架け、その橋を管理し行基の教えを広める道場して731年(天平3年)山崎院を建立しました。山崎院の場所は、ながらく不明でしたが、1989年(平成元年)の発掘調査により特定されました。
時間があるので、ゆっくり駒札をよんでから歩き出しました。ゆるやかな坂を歩いていくと、右手に淀川が見える眺望の良い空き地がありました。
写真真ん中に見えている大きな建物は、イオン関西NDCと読めます。要するに物流センターなんでしょう。
いよいよ、ここから急な坂で、山崎聖天参道と書いてあるので間違なく、ここを登ります。
事前に調べて、ここと次ぎに訪問する予定の寺院は、坂が急な事も知ってました。覚悟の上です

聞いてたほど、きつくない坂を少し登ると段々勾配がきつくなってきたところ、右手に稲荷神社が見えました。赤い鳥居をくぐると稲荷大明神が祀られてました。
しかし、駒札などの案内が何もないので、由緒なんかは不明です。
朱塗りの鳥居を出ると、山崎聖天の西口山門があります。ここが入口なんだろうと思い見上げると思わず引き返そうと思うぐらいの急な階段が待ち構えています。
まだ、登ってもいないのに引き返そうとは・・・この階段はパスさせてもらいました。
その横に緩やかな階段が見えたので、そちらを選択ましした。少し登り始めると重厚な仁王門が見えました。もちろん仁王像もありましたが・・・。
それより、ここは・・・虫が多すぎ・・・この時期・・・蚊はいないでしょうけど・・・何とかして


こちらが表参道にあたるそうで、西口山門の急な階段に比べと緩やかですが、それでも階段はしんどいです。JR山崎駅から歩いて20分。やっと境内に入りました。
観光寺院ではないので、境内は自由散策です。近所の子供が数名遊んでました。
観音寺(山崎聖天)は、平安時代の899年(昌泰2年)に宇多法皇が御願寺として創建されますが、その後、衰退します。江戸時代初期に勝尾寺(箕面)の僧・木食上人以空が、この地にあった聖徳太子の作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊とし、中興開山されました。それ以後、歓喜天(かんぎてん)を祀り商売繁盛家運隆昌を願う、京都、堺など商人の参詣を得て大いに発展します。こうしたことで、本尊の十一面千手観音菩薩よりも 歓喜天への信仰によって、「山崎の聖天さん」として知られるようになりました。しかし、江戸幕府末の禁門の変の際、1864年(元治元年)、長州の尊皇攘夷派の部隊が山崎の地に陣を取ったことにより、戦火に巻き込まれ、観音寺もこの時の戦火によって、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失してしまいました。
先ずは本堂から。前途したとおり観光寺院ではないので堂内には入れません。本尊は戦火を免れた十一面千手観世音菩薩です。
1880年(明治13年)西観音寺の本堂を移築したもの。
本堂の左側には、歓喜天が祀られている聖天堂です。
歓喜天(かんぎてん)を祀り、聖天さんの通称はここからです

ここも天王山の登山口にあたるみたいで、ハイキングの人も境内に立ち寄られてました。来てから思ったのは、結構境内は広いですね。ここが手水舎です。
最初に上がって来た時、近所の家族連れがてを洗われてたので、後になりました。
その手水舎の奥に庫裏がありました。ここまで来たのは、お寺の方を探していたんです。
実は、朱印帳を持ってきたので、御朱印が欲しかったです。それで「庫裏が開いてるかなぁ」と思ったんですが、閉まってました。
最初に階段で上がった所に社務所があって、中には電気も付いてたんですけど、誰もいなかった・・・・。
いろいろ探してみましたが・・・残念。そんなに遠方でもないけど・・・何せあの坂は・・・きついです

実は、鐘楼前から撮ってました。大晦日には除夜の鐘が突かれるみたいです。
釣り鐘は桂昌院の奉納で、まわりに四仏の種子があります。
本堂前にあった住友吉左衛門友信が寄進した大灯籠です。
住友吉左衛門友信・・・住友家三代目当主。以後住友家当主は、吉左衛門を名乗ったそうですね、どうでもいい事ですが

先ほどの聖天堂近くにあった土蔵は、禁門の変の戦火で、唯一焼け残った建物です。
その前にあるのが光明殿でした。
社務所が留守のため由緒書きを貰い損ねたため、詳細は分かりません。
先ほどから天王山へのハイキングをされてる人が、聖天堂の奥に入っていかれます。何処に行かれたのか様子を見に行くと西門がありました。
ここが天王山への登山口なんですね。
余談ですが・・・会社で、登山を趣味にされてる人がいて・・・天王山の登山について聞いてみました。標高は270㍍とそんなに高くないですが、急勾配の坂が頂上まで続いてるそうです。「3回ほど登ったけど、あそこは坂が急でしんどいよ」が感想だそうです。余談でした。
境内には、桜の木がありました。ここは桜の名所でもあるんですね。今は葉桜になってて、咲いてるイメージ湧いてきません

また、藤棚もあったので、そろそろ花をつけそうな感じでした。
ここには10分ほど居ました。堂内にも入れないし・・・朱印ももらい損ねたし・・・まぁ、12時の予約拝観があるので、ここを出ることにしました。行きは逃げてしまいましたが、帰りはこの階段を下ります。
上から見ても下の門が小さく見えるほど、長い石段の階段を下ります。
階段を下って元来た道を歩いて行きます。そして冒頭の看板の所まで戻ってきました。つづく。
【山崎聖天 本堂】