大山崎町散策 宝積寺(宝寺) へ
山崎聖天から再び天王山登山口まで戻ってきました。そこから、またまた急な坂を登ります。以前アサヒビール大山崎山荘美術館に行く時にも登りましたが、途中で宝積寺(宝寺) の石標が出てました。
この写真を右に行けばアサヒビール大山崎山荘美術館に行けます。殆どハイキングを楽しんでる人は、そちらに向かわれます。
そして、その先が大念寺の階段ですが、今回は上がりません
。それにしても、ここの急勾配な坂は堪えます。大念寺を過ぎたら宝積寺が・・・見えません・・・まだまだ急勾配の坂を登ります。そしてようやく石段が見えて来ました。
下から登り初めて、ここまで5分もかかりました。たった5分と思われるかも知れませんが、あの坂は・・・もう二度と来たくなくなる坂でした。
階段を登るとやっと山門が見えました。この階段が最後でしょう。もう汗だく・・・上着を脱いで、半袖になってました
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門前には、聖武天皇勅願所であるこを示す石標が立ってました。この写真を右に行けばアサヒビール大山崎山荘美術館に行けます。殆どハイキングを楽しんでる人は、そちらに向かわれます。
そして、その先が大念寺の階段ですが、今回は上がりません

下から登り初めて、ここまで5分もかかりました。たった5分と思われるかも知れませんが、あの坂は・・・もう二度と来たくなくなる坂でした。
階段を登るとやっと山門が見えました。この階段が最後でしょう。もう汗だく・・・上着を脱いで、半袖になってました

門には迫力ある、仁王像がありました。この金剛力士立像は重要文化財に指定されています。
宝積寺(宝寺)は寺伝では724年(神亀元年)聖武天皇の勅命を受けたに行基(奈良時代に東大寺の建立に尽力した高僧)が建てたと伝えられる真言宗の寺院お寺で、行基が山崎橋という対岸八幡への往来の橋を建てた際に、橋寺として創建した「山崎院」の後身と考える説があります。
山門をくぐると正面に本堂かどうか分かりませんが見えました。このまま石畳みを進みます。
晴天に恵まれた土曜日ですが・・・こんな坂の急なお寺の割りには(失礼


暫く歩くと、右手に秀吉が一日で建てたと伝えられる三重塔(重要文化財)がありました。
この三重塔を撮りたかったんですが、この前に車が一杯止まってて・・・この時・・・来る日を間違えたと思いましたね。
1582年(天正10年)「本能寺の変」で主君・織田信長の自刀を知った羽柴秀吉は、備中高松城から”中国大返し”と言われる常識を越えた速度の行軍で山崎に進軍しました。秀吉は、この宝寺を本陣とし入り、その翌日に「山崎の合戦」で勝利を治めます。その勝利を記念し、一夜にして建立したと伝わっています。
境内に入ると、お坊さんや信徒の方でしょうか、たくさん来られています。益々今日は・・・何があるのが分かりましたが・・・。さて、境内には秀吉の「出世石」なるものがありました。
「山崎の合戦」で、宝寺が一時、羽柴秀吉の本陣となりました。その時、秀吉が腰掛けたと伝わる石です。信じるかどうか・・・歴史好きには感慨深いですね。
本堂の前に拝観受付がありましたが、この人出のため先に朱印をいただくことにしました。
拝観料は400円と書いてありました。もちろん当初の予定では入る予定です。
拝観受付で、朱印の場所は聞きました。朱印は寺務所内でいただけました。
ここで靴を脱いで上がり、御朱印をいただけますが、その間に僧侶の方に聞いてみました。
「今日は人が多いですね、普段もこんな感じですか

宝積寺(宝寺)年中行事の4月18日は、『大厄除追儺式(鬼くすべ)日本最初の追儺式』とありました。本堂の鴨居に75個の鏡餅を掛け、檜葉をくすべ蓬の矢・桃の弓で悪鬼を追い出し、厄除け祈祷をする行事のようです。1260余年間続いてる儀式だそうです。
御朱印をいただいたあと、その僧侶の方に本堂を案内してもらいました。ただ堂内には入れませんが・・・。
堂内には数名の僧侶の方が忙しく動き回られてました。その堂内の中央にご本尊の十一面観世音菩薩(鎌倉時代・重要文化財)があって、お参りできました。
その本堂の横にあるのが、小槌宮と言います。ここも本堂と同じく閻魔堂と小槌宮を合わせて、内部は拝観料を納めると入れます。
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺として商売繁盛のお寺として知られています。
最後に閻魔堂です。外観だけ見たらと言うより、多分・・・宝物館みたいな建物でしょう。
閻魔大王坐像(重要文化財)・司録菩薩・倶生神坐像(重要文化財)・闇黒童子坐像(重要文化財)・司命菩薩が祀られています。
これらは、次ぎの機会の楽しみに取っておきます。枝垂れ桜も少しだけ残ってましたね。しかし、この坂を再び登る勇気を出さなければ行けませんが

この閻魔堂の前には、天王山山頂への立て札がありました。ここも天王山登山のハイキングコースになってるんですね。
せっかくなんで、奥に行ってみました。すると十七烈士の墓の矢印が出てました。
ここから歩いて20分と書いてあって・・・即、断念しました。体力云々より、12時の予約拝観が間に合いません

幕末の1864年(元治元年)禁門の変の時、戦いに敗れ天王山中で自刃した尊皇攘夷派の隊長真木和泉守以下十七名の眠る墓です。
その先は諦めましたので、手前の辨財天(案内が無いので多分ですが)をお参りしました。
奥に見えている山が、天王山です。秀吉は、明智軍が来るまでに天王山に陣を敷いたんですね。そこで勝負があった


その奥に鎮守社(これも案内がないので多分ですが)ありました。
境内は、そんなに広くありません。もう一通り見て回ったので、ここを出ようとしました。しかし時間があるので、本堂の横に入ってみると、そこには賓頭盧尊者坐像がありました。
多分、普段なら拝観料を納めると行けるんでしょうけど、来る日を間違えました

その奥にあるのが九重石塔でした。危ないのか近寄れなくなってました。
大山崎町文化財で、鎌倉時代の作。五重塔として建てられ、その後九重に積み上げられた聖武天皇の供養塔らしい。ちょっと傾いて、地震でもあれば倒れそうな・・・そんな気がしました。
最後に、水掛地蔵です。新緑が気持ち良かったので、ゆっくり見て回りました。
ここから三重塔を撮って、境内を出ました。この時、時計の針は11前になってました。予約拝観まで、あと1時間もあります。
ここからJR山崎駅には10分足らずでしょう。「次ぎに何処で時間をつぶそうかなぁ」と思いつつ、山門に向かって歩いて行きました。
帰ってから、「鬼くすべ」のこと調べました。前途したとおり14時には見物客で、境内に人一杯賑わうみたいと言うより、賑わったみたいです。この時の模様が京都新聞に掲載されました。知ってたら、予定を組んで見に行ったのに・・・仮に、この時分かってても、最後の妙喜庵を終わってから、再びあの坂を登る選択肢は無かったですね。

【宝積寺(宝寺) 閻魔堂】