千利休が作った現存する唯一の茶室「待庵」のある妙喜庵へ

離宮八幡宮を出たら、今日のメインイベントである妙喜庵です。妙喜庵には、千利休が作ったと信じうる唯一の現存している茶室・国宝待庵」があります。

妙喜庵前に11時50分に着きました。すると一組が入って行かれました。普段は拝観を拒絶されてるので要領が分からず不安でしたが、私らも後に続いて入って行きました。

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場所は、JR山崎駅の向かい。マジで徒歩0分です。ですからバスやタクシーが行き来し賑やかです。

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通常は、一ヶ月前に往復はがきで予約が必要です。月日は決められますが、時間は先方の都合で・・・こちらで決められません。

入ると、中から人が出て来られて、日時が書いてある返信葉書を渡します。それを確認されると、1000円を納め部屋の奥に案内されます。

そこで、荷物を片隅に置きます。それと・・・以前は茶室内部のみ撮影禁止だったようですが、全面撮影禁止になってました。鞄やカメラで壁を傷つけないようにするためでしょうけど、これは少々ショックでした。

11時55分になると、前の組の説明が終わったので住職さんが来られて、書院(対月庵)(重要文化財)で案内が始まりました。(ここからの写真はポストカード及び他のサイトから転載です)

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この時間の参加者は、私らを含めて3組6人でした。住職さんも少人数だったため、リラックスして聞いて下さい・・・と

妙喜庵(みょうきあん)は、臨済宗東福寺派に属し、山号は豊興山。室町時代後期4(1500年前後)に建立され、開山は東福寺春嶽士紡禅師。連歌の祖であった山崎宗鑑の旧居を寺にしたと伝わっています。対月庵内の仏壇中央には、聖観音像、その左横には千利休像を安置されています。この書院の柱や長押に使われる柱の細さや、猿頬天井や竹節欄間など室町時代の書院造りの特徴が色濃く出てて重要文化財に指定されています

説明を聞いてても、前の組の人がウロウロされるので、少し気になりました。それに大きな声で話されるので、住職さんの声が聞こえないし・・・。春の観光シーズンだし、たくさんの方が来られてるみたいでした。

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書院から見た庭も綺麗だったんですが、画像探しても・・・無かったので・・・やっぱり自分で撮りたかったなぁ・・・。話を聞いてもも、やっはり待庵のこと・・気になります。話は待庵にうつりました。

山崎の合戦の頃、羽柴秀吉は各地の文化人を、この地を呼び寄せました。その中に千利休もいたらしく、この妙喜庵の近くにある離宮八幡宮の近くに屋敷を建て、その屋敷に秀吉に命じられ茶室を造られたそうです。その茶室にて秀吉・今井宗久・津田宗及らとお茶会を催されたりしました。その後、秀吉は拠点を大坂に移します。それに伴い千利休も大坂へ移住し、その茶室も解体されました。その解体された材木などを妙喜庵が預かってたところ、妙喜庵3代目住職・功叔禅師は利休の弟子でもあった縁から、妙喜庵4代目・芳室の時代1600年前後に、千家2代目・少庵の協力もあって再建され、約400年間当時の姿のまま現存している貴重な茶室で、国宝に指定されています。

このあと、スリッパに履き替えて、いよいよ待庵の見学です。拝観料1000円と、ちょっと高めの拝観料は、これを見るためものでした。

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住職さんの案内で、待庵の説明を受けます。写真は待庵の外観です。以前は待庵内部のみ撮影禁止でしたが、前途のとおり全て撮影禁止となりました。

待庵内部は二畳敷で、これまでの最小の四畳敷きよりさらに狭くされています。また、壁の塗り方は、隅を丸く壁土を塗り廻した塗り方で、駆込天井と共に狭い室内を広く見せる工夫がされています。躙口は、現在の茶室より一回り大きいです。以前の茶室は躙口がなかったので、この待庵で、初めて造られました。また窓が茶室に造られたのも待庵が初めてです。南側の下地窓には、淀川のヨシを使ってて、この下地も創建当時のままと言われています。

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この茶室で、千利休・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・今井宗久らが実際にお茶会をしてかと思うと、感動しました。歴史好きにはたまらないです。涙出ました。(冗談。私は涙腺が固いので)

少人数だったので、右から左から上から下から覗いてゆっくり見せて貰いました。あと国宝の茶室は残り2つあります。愛知県犬山市にある「如庵(じょあん)」と大徳寺塔頭龍光院にある「密庵(みったん)」です。

以前、知り合いに聞いた話では、最初の説明のあとは「好きにどうぞ」と・・・ほったらかし状態で、好きに見て回ったように聞いてたので、こうして付いてて説明をしてくれるとは・・・思ってもみなかったです。

住職さん待庵の説明の中で何気なく案内されたのは、待庵の東側にある豊公袖摺松でした。

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この松は、秀吉が通った時に衣の袖が触れたことから名付けられたそうです。今の松は三代目だそうで、二代目は1969年(昭和44年)頃に枯れてしまったそうです。

案内はありませんでしたが、待庵の前には蹲踞があってと思ったら手水鉢だそうで、芝山の手水鉢と言います。

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利休の弟子・芝山監物の寄進によるものだそうです。

次ぎに書院「明月堂」に移動です。この書院の正面に、淀川を挟んで対岸にある男山の端から月が上がるのを眺められるので明月堂と名付けられました。

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桃山時代からあった書院ですが、後世に建て替えられたようです。

この明月堂に入ると待庵の裏にある水屋を見ることができます。待庵内部には入れませんが、こうして隅々見ることが出来ました。また、杉戸の絵は狩野山雪によるものと案内されました。

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まだアップしてませんが、前日に京都国利博物館で『狩野永徳の後継者たち』を見て来たばかりで・・・2日続きで狩野派の絵を見たことになりました

これで住職さんの案内は終わりました。後はゆっくり見て回れますけど・・・でも写真も撮れないし・・・と言うことで最後に朱印帳を受け取って出ることにしました。出る時に、次の組の方らが入って来られました。今日は・・・ひょっとして・・・30分毎・・・宝積寺でも来るときを間違ったと思いましたが、この妙喜庵もですね。

当初に予定では、この山崎でお昼を食べて帰る予定にしてましたが、宝積寺でいただいた和菓子が以外にも腹持ちが良かったので、徒歩0分の向かいにあるJR山崎駅から帰りました。ホームに入ると直ぐに電車が来たので、時計を見ると12時27分発でした。妙喜庵には30分弱しか居なかったんですね・・・でも来て良かったです。

【妙喜庵 待庵(国宝)】



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