三柱鳥居で有名な木嶋神社(蚕の社)へ

御所西 京都平安ホテル日本庭園旧京都府庁旧議場を見た帰りに、珍しい、三柱鳥居がある木嶋神社に寄りました。

木嶋神社(このしまじんじゃ)は通称で、本殿東側に織物の始祖を祀る養蚕神社があることから「蚕の社(かいこのやしろ)」として広く知られており、正式名を木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)と言います。

嵐電の駅名も「蚕ノ社」駅と言うので、私も通称の蚕の社たと思ってしまた。この神社に寄ってみようと思ったのは、3月8日に訪れた北野天満宮で七つの不思議な史蹟を巡ったからです。その時に七つの不思議な史蹟ではありませんが、特別に「京都三珍鳥居」の一つ、伴氏社(ともうじしゃ)を紹介され、私も台座に蓮弁が刻まれてる珍しい鳥居のことを知りました。

「京都三珍鳥居」の中で訪問したのは、伴氏社嚴島神社でした。そして・・・今日は三柱鳥居を見に来たと言うわけで・・・先ずは、嵐電「蚕ノ社駅」前にある大鳥居から。

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毎日、嵐電から見ていた鳥居・・・蚕の社に来るのは・・・多分・・・2度目です。扁額には「蚕養(こかい)神社」と標されています。

三条通りから石造りの大鳥居をくぐり北上します。ほどなく歩くと太子道(旧街道で、かつて広隆寺に向かう参道でした)の交差点に出会うと、左手に木嶋坐天照御魂神社(木嶋神社)が見えました。

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京都でも最古に属する神社で、創建は定かではありませんが『続日本書紀』701年(大宝元年)4月3日の条りに、神社名が記載されてることから、それ以前に祭祀されていたことが推定され、推古天皇時代の創建とも伝わっています。

古神社らしい丸木の鳥居をくぐり境内に入ります。前途したとおり、前に来たのが記憶がないくらいで、本当に久し振りに来ました。

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ここ太秦や 嵯峨野一帯は、かつて朝鮮半島から渡来した秦氏が製陶、養蚕、織物など先端技術を持ち込んだ地域で、それが「蚕」が祀られている由縁です。「太秦(うずまさ)」の地名も秦氏にちなみます。

石畳みの参道を奥に進みます。木嶋神社は市街地にありますが、鬱蒼として樹木が覆い茂っています。「元糺の森(もとただすのもり)」と言います。世界文化遺産の下鴨神社にある「糺の森」が有名ですね。

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「糺の森」は下鴨神社ですが、もともとの「糺の森」は当地にありました。嵯峨天皇の時代に、潔斎の場を下鴨神社に遷したのて、この地を「元糺の森」と呼ばれるようになりました。

暫くすると、右手に社務所がありましたが、どうやら常に不在みたいな雰囲気がありました。と言うことはお守りや朱印、由緒書きも・・・無いと言うことです。

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今日は朱印帳は持ってこなかったので、後日でも思いましたが、多分・・・無いみたいです。

そのまま参道を進むと舞殿がありました。ここまで来ても三柱鳥居が何処にあるのか分かりませんが・・・どうやら左手にありそうです。

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昼間でも鬱蒼とした森に囲まれており、奥に拝殿が見えています。

今日の目的が三柱鳥居でしたので、拝殿に行かず左手に進みます。

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これは三柱鳥居ではありません。その奥です。

森に囲まれた奥に・・・ありました。三柱鳥居です

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と言っても、囲いがあって・・・奥に進めません。柵の手前からしか見られません。

肉眼では、もう少し近く見えます。近くに池なのは残念ですが、仕方ないです。これが三柱鳥居で、以前南禅寺 大寧軒で見た事はありました。

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南禅寺大寧軒のは、木嶋神社のを模して作られたので、こちらが本家です

何年か前まで、「元糺の池」の中に三柱鳥居がありましたが、何故か枯渇したみいで、池の水はありません。周辺の開発が原因かと・・・本当なら、残念な事です。

三柱鳥居を見て、これで「京都三珍鳥居」を制覇しました。順序は逆になりましたが、次ぎに拝殿です。

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その奥か本殿があり、その東側に蚕の社の名の由来となった「東本殿」([養蚕神社)があります。

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養蚕神社だけは上手に撮れなかったです。撮る位置が悪かったかも知れませんね。

境内には誰もいませんでした。確かに見所は三柱鳥居ぐらいでしょう。結局、来てから帰るまで誰にも出会いませんでした。

それと、何故か境内には稲荷社がありました。

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何故、稲荷社が・・・分かりません

この石標には「かいこのやしろ」と書いてありました。

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木々覆い茂ってて、夏場なら蚊が多そうな・・・そんな気がしました。そんなに長居できるほど広くないので、早々と出ました。ここから太子道を通って、太秦まで行き嵐電「太秦駅」から帰路に着きました。

【木嶋神社 三柱鳥居】



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