宇治の氏神 宇治神社へ
福寿園宇治茶工房を出て朝霧橋まで戻ると、右手に朱塗りの鳥居が見えます。ここが宇治神社の入口にあたります。このツアーでは世界文化遺産の宇治上神社を巡ります。その前にバスガイドさんは宇治神社に寄られました。
初めて、宇治上神社を訪問したときも、ここを通りました。最初同じかと思ったんですが・・・。
鳥居の両側にある狛犬から見た朝霧橋です。この橋を渡ると目の前が宇治神社の鳥居が有るわけです。
ちなみに木造狛犬(宇治市指定重要文化財)もあるそうですが、こちらは宇治市歴史資料館に寄託されてるそうです。
そのままバスガイドさんについて参道を進むと右手に手水舎がありました。よくよく見ると桐原水と書いてあります。
ここでバスガイドさんが立ち止まって、桐原水のこと教えてくれました。
桐原水は宇治七名水の一つですが、宇治七名水の残りの6つは残念ながら失われてしまい、この桐原水だけがまだ涌き出しています。残りは、公文水(くもんすい)・法華水(ほっけすい)・阿弥陀水(あみだすい)・百夜月井(ももよづきい)・泉殿(いずみどの)・高浄水(こうじょうすい)でした。
手水舎から参道は階段に変わります。上で見えているのが拝殿(桐原殿)です。
そんなにきつい階段では無いので、一気に上がり拝殿(桐原殿)を見学です。
鎌倉時代の1215年(建保3年)頃建立。見学と言ってもほぼ素通りで、本殿のお参りです。
拝殿、別名桐原殿の奥に鳥居があって、その階段を登ります。
前回の訪問時そうでしたが、ここも参拝者が多いです。世界文化遺産に登録された宇治上神社の途中に寄られるんでしょう。
階段を上がり、中門の前で二礼二拍手一拝の作法で、お参りさせてもらいました。
この中門の奥に本殿があるわけで、横から見てみました。ところで、ここは宇治上神社の途中に寄られただけで、由緒なんかの説明はありませんでした。
重要文化財に指定されてる本殿です。檜皮葺の社殿が見えました。
先ほどの桐原殿と同じく、鎌倉時代の建物だそうです。殿内中央には平安中期の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)木造神像が安置されてるそうです。御祭神は菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)で、第15代応神天皇の皇子。
この辺りは応神天皇の離宮跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の宮居の跡とも伝えられています。310年に応神天皇崩御のあと、皇兄(のちの仁徳天皇)と皇位の譲りあいが3年にも及びましたが、儒教思想を学んでいた菟道稚郎子命は、天位を譲るとして自害しました。仁徳天皇は菟道稚郎子宮跡に祠を建て神霊として祀ったのが宇治神社の始まりです。
お参りのあと、次ぎに宇治上神社に向かわれますが、バスガイドさんに「朱印ありますか」と尋ねました。そしたら参集殿を案内されたので、急ぎ朱印帳を持って行きました。
今日は家から、2冊の朱印帳を持ってきました。お寺用と神社用です。荷物になりましたが、せっかく来たのに貼るより書いて貰うほうが良いでしょう。
この社務所の入口でボタンを押すと、中から神職さんが出てこられます。私は、そのボタン(呼び鈴)に気が付かなくて・・・扉を開けると、外まで追い返されてしまいました。椅子の上に小さな呼び鈴一つ置いてあるだけです。そんなの誰も気が付かないよ。
御朱印をいただけたので、由緒書きも入ってました。ツアーの人は、この時間自由散策だったので特に待って貰ってた訳でもありません。
境内には歌碑がありましたが、時間もなかったので・・・何もわかりません。ここから宇治上神社に向かうので、この階段は降りません。
ここも次から次から来られます。宇治神社より・・・やっぱり宇治上神社でしょうね。
明治維新までは、宇治神社が下社、若宮社と呼ばれたのに対して、宇治上神社は上社、本社と呼ばれて一対の関係でしたが、維新後は分離独立しました。
ところで宇治は、かつて菟道という字を「うぢ」と呼ばれてたようです。バスガイドさんからチラッと聞いた話で忘れてしまいそうでしたが・・・。
宇治神社の御祭神・菟道稚郎子命が、この地に住まいを定められて、河内の国より向かわれる途中、道に迷われた時に、一羽の兎が現れ、後からついて来られる御祭神を振り返り振り返り先導申し上げたという伝説が残っています。
宇治神社も宇治上神社もウサギのおみくじが置いてありました。説明を聞いてて、ウサギと宇治は縁があるんだなぁ・・・と思った次第です。宇治神社には10分も居なかったと思います。次がこのツアーに組み込まれている世界文化遺産 宇治上神社です。私にとって、久し振りの訪問になり楽しみです。つづく。
【宇治神社 本殿】
初めて、宇治上神社を訪問したときも、ここを通りました。最初同じかと思ったんですが・・・。
鳥居の両側にある狛犬から見た朝霧橋です。この橋を渡ると目の前が宇治神社の鳥居が有るわけです。
ちなみに木造狛犬(宇治市指定重要文化財)もあるそうですが、こちらは宇治市歴史資料館に寄託されてるそうです。
そのままバスガイドさんについて参道を進むと右手に手水舎がありました。よくよく見ると桐原水と書いてあります。
ここでバスガイドさんが立ち止まって、桐原水のこと教えてくれました。
桐原水は宇治七名水の一つですが、宇治七名水の残りの6つは残念ながら失われてしまい、この桐原水だけがまだ涌き出しています。残りは、公文水(くもんすい)・法華水(ほっけすい)・阿弥陀水(あみだすい)・百夜月井(ももよづきい)・泉殿(いずみどの)・高浄水(こうじょうすい)でした。
手水舎から参道は階段に変わります。上で見えているのが拝殿(桐原殿)です。
そんなにきつい階段では無いので、一気に上がり拝殿(桐原殿)を見学です。
鎌倉時代の1215年(建保3年)頃建立。見学と言ってもほぼ素通りで、本殿のお参りです。
拝殿、別名桐原殿の奥に鳥居があって、その階段を登ります。
前回の訪問時そうでしたが、ここも参拝者が多いです。世界文化遺産に登録された宇治上神社の途中に寄られるんでしょう。
階段を上がり、中門の前で二礼二拍手一拝の作法で、お参りさせてもらいました。
この中門の奥に本殿があるわけで、横から見てみました。ところで、ここは宇治上神社の途中に寄られただけで、由緒なんかの説明はありませんでした。
重要文化財に指定されてる本殿です。檜皮葺の社殿が見えました。
先ほどの桐原殿と同じく、鎌倉時代の建物だそうです。殿内中央には平安中期の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)木造神像が安置されてるそうです。御祭神は菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)で、第15代応神天皇の皇子。
この辺りは応神天皇の離宮跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の宮居の跡とも伝えられています。310年に応神天皇崩御のあと、皇兄(のちの仁徳天皇)と皇位の譲りあいが3年にも及びましたが、儒教思想を学んでいた菟道稚郎子命は、天位を譲るとして自害しました。仁徳天皇は菟道稚郎子宮跡に祠を建て神霊として祀ったのが宇治神社の始まりです。
お参りのあと、次ぎに宇治上神社に向かわれますが、バスガイドさんに「朱印ありますか」と尋ねました。そしたら参集殿を案内されたので、急ぎ朱印帳を持って行きました。
今日は家から、2冊の朱印帳を持ってきました。お寺用と神社用です。荷物になりましたが、せっかく来たのに貼るより書いて貰うほうが良いでしょう。
この社務所の入口でボタンを押すと、中から神職さんが出てこられます。私は、そのボタン(呼び鈴)に気が付かなくて・・・扉を開けると、外まで追い返されてしまいました。椅子の上に小さな呼び鈴一つ置いてあるだけです。そんなの誰も気が付かないよ。
御朱印をいただけたので、由緒書きも入ってました。ツアーの人は、この時間自由散策だったので特に待って貰ってた訳でもありません。
境内には歌碑がありましたが、時間もなかったので・・・何もわかりません。ここから宇治上神社に向かうので、この階段は降りません。
ここも次から次から来られます。宇治神社より・・・やっぱり宇治上神社でしょうね。
明治維新までは、宇治神社が下社、若宮社と呼ばれたのに対して、宇治上神社は上社、本社と呼ばれて一対の関係でしたが、維新後は分離独立しました。
ところで宇治は、かつて菟道という字を「うぢ」と呼ばれてたようです。バスガイドさんからチラッと聞いた話で忘れてしまいそうでしたが・・・。
宇治神社の御祭神・菟道稚郎子命が、この地に住まいを定められて、河内の国より向かわれる途中、道に迷われた時に、一羽の兎が現れ、後からついて来られる御祭神を振り返り振り返り先導申し上げたという伝説が残っています。
宇治神社も宇治上神社もウサギのおみくじが置いてありました。説明を聞いてて、ウサギと宇治は縁があるんだなぁ・・・と思った次第です。宇治神社には10分も居なかったと思います。次がこのツアーに組み込まれている世界文化遺産 宇治上神社です。私にとって、久し振りの訪問になり楽しみです。つづく。
【宇治神社 本殿】