良忍上人が魚山声明を大成した来迎院へ
魚山園を出て真っ直ぐ行くと、三千院ですが、その三千院境内の南側の参道、呂川沿いの緩やかな坂道を登って行きます。大原で最初の訪問を来迎院(らいごういん)に行くことに決めました。
事前に地図を見てても、ここが坂道かどうかは分かりませんでした。ただシュミレーションでは4分ぐらいで着く予定でしたが、この坂道は堪えました。(ゆっくり上がるには何も問題はありません。急いでたから・・・です。)
呂川沿いの坂道を登って行きますが、気温も上がって来て・・・もう汗だく
。来迎院の看板も出てるので、もう着くかと思いきや参道は、まだまだ続きます。
三千院前の参道は、多くの人が歩いていますが、ここは・・・全然じゃないです。この先に音無滝があるので、ハイキングの団体が結構歩いていました。
歩き始めて約6分。こんなにしんどかったら・・・やめたら良かったと思いましたが、ようやく来迎院の山門前に着きました。
汗を拭き拭き、山門をくぐると正面に拝観受付がありました。
そこで、拝観料400円のところ、京都定期観光バスから貰った『プレミアムチケット』を使って360円を納めます。そして朱印も書いていただけるので、同じく300円を納めました。そしたら、本堂拝観の要領を説明してもらい、中に入りました。どうやら先客は一人だけのようで、空いてました。
拝観受付を済ませると、最後に階段を上がります。
階段を上がってから拝観受付を撮りました。拝観受付の奥は会館で、毎日写経をされてるそうです。
そして正面を見ると・・・わずかな山間の敷地に本堂が建てられてました。
室町時代末期・天文年間の再建で、入母屋造りで周囲に吹き放しの庇を設けているのが特徴です。
大原の里は、平安時代声明の里として名高く良く知られていました。声明は飛鳥時代に仏教とともに日本に伝来され、平安時代に空海や最澄によって真言系と天台系に分かれて発展していきます。現在に受け継がれる天台声明は、最澄の弟子であった慈覚大師円仁によって確率されました。声明は時代が下がるにつれ、いくつかの流派に分かれましたが、それを大系的に整理・構築し『魚山声明』として集大成されたのが、融通念仏宗の開祖・良忍です。比叡山を降り大原に隠棲し声明の研鑽に努め、衰退してた声明を中興させました。来迎院は、仁寿年間(851~854)に唐から帰国した、慈覚大師円仁が声明の修練道場を開いたのが始まりだと言われていますが、その後衰退しましたが、良忍によって1109年(天仁2年)に再興し来迎院と称しました。
大原の山間に佇む本堂を見ると、汗を拭き登って来たかいがありました。このあと本堂内に入ってお参りします。
受付で、「本堂を上がって右から入ってお参り下さい」と言われたので、靴を脱いで右から堂内に入りました。
堂内は、天然の扇風機が回ってました
。本当に涼しかったです。ここで少し座って汗を拭きました。
内陣中央に、平安時代後期に作られた、薬師如来座像(重要文化財)、右に釈迦如来座像(重要文化財)、左に阿弥陀如来座像(重要文化財)を安置。須弥壇の右隅に脇侍の毘沙門天立像、左隅には不動明王立像を安置。そして本堂奥には、慈覚大師坐像(比叡山に声明を伝えた高僧で来迎院の開祖)、聖応大師坐像(良忍上人・来迎院を再興)゛が祀られてました。
本堂で、右奥を進むと御廟入口の大きな看板があったので、せっかくやし行って見ようと階段を上がると・・・。
この先に良忍上人御廟があって、三重の石塔が立ってるそうで、ここに眠られているそうです。先が見えないので不安になり、これ以上は行きませんでした。
いつものように、じっくりゆっくり見て行く訳にはいきません。階段を上がっただけで引き返しました。こちらの上には鎮守堂がありますが、ここも上リません。
本堂前の前庭を見ると鐘楼が見えてたので、最後に見て行きました。
最後に鐘楼を撮って、来迎院を出ました。入ると時に一人。帰る時に二組が入ってこられただけでした。徒歩5分程度ですが、少し登りですし、地図を見ると相当離れているように見えるためでしょうね。
来迎院を出て、今度は三千院に向かって呂川沿いにの参道を下って行きます。その途中、右手にあったのが浄蓮華院の山門です。
ここは通常非公開ですが、不定期で7月~9月の土日に開催されるミニコンサートの『香雲』が開かれ、入ることができます。
来迎院を大原魚山流の本山として、たくさんの子院が開かれました。最盛期には49もの僧坊が建てられた中の一つです。
そこから少し下がると三千院の朱雀門がありました。
三千院の中に往生極楽院がありますが、それは三千院拝観時に紹介します。その往生極楽院の、かつての正門にあたりますが、現在は開かれることはありません。
再び三千院の土産物店だ立ち並ぶ桜馬場に戻ってきたのが、13時30分でした。往復15分かかるので、来迎院の滞在時間は、15分程度でした。もちろん帰りに拝観受付で、朱印帳は受け取っています。そしてこれから三千院に入ります。つづく。
【来迎院 本堂】

事前に地図を見てても、ここが坂道かどうかは分かりませんでした。ただシュミレーションでは4分ぐらいで着く予定でしたが、この坂道は堪えました。(ゆっくり上がるには何も問題はありません。急いでたから・・・です。)
呂川沿いの坂道を登って行きますが、気温も上がって来て・・・もう汗だく

三千院前の参道は、多くの人が歩いていますが、ここは・・・全然じゃないです。この先に音無滝があるので、ハイキングの団体が結構歩いていました。
歩き始めて約6分。こんなにしんどかったら・・・やめたら良かったと思いましたが、ようやく来迎院の山門前に着きました。
汗を拭き拭き、山門をくぐると正面に拝観受付がありました。
そこで、拝観料400円のところ、京都定期観光バスから貰った『プレミアムチケット』を使って360円を納めます。そして朱印も書いていただけるので、同じく300円を納めました。そしたら、本堂拝観の要領を説明してもらい、中に入りました。どうやら先客は一人だけのようで、空いてました。
拝観受付を済ませると、最後に階段を上がります。
階段を上がってから拝観受付を撮りました。拝観受付の奥は会館で、毎日写経をされてるそうです。
そして正面を見ると・・・わずかな山間の敷地に本堂が建てられてました。
室町時代末期・天文年間の再建で、入母屋造りで周囲に吹き放しの庇を設けているのが特徴です。
大原の里は、平安時代声明の里として名高く良く知られていました。声明は飛鳥時代に仏教とともに日本に伝来され、平安時代に空海や最澄によって真言系と天台系に分かれて発展していきます。現在に受け継がれる天台声明は、最澄の弟子であった慈覚大師円仁によって確率されました。声明は時代が下がるにつれ、いくつかの流派に分かれましたが、それを大系的に整理・構築し『魚山声明』として集大成されたのが、融通念仏宗の開祖・良忍です。比叡山を降り大原に隠棲し声明の研鑽に努め、衰退してた声明を中興させました。来迎院は、仁寿年間(851~854)に唐から帰国した、慈覚大師円仁が声明の修練道場を開いたのが始まりだと言われていますが、その後衰退しましたが、良忍によって1109年(天仁2年)に再興し来迎院と称しました。
大原の山間に佇む本堂を見ると、汗を拭き登って来たかいがありました。このあと本堂内に入ってお参りします。
受付で、「本堂を上がって右から入ってお参り下さい」と言われたので、靴を脱いで右から堂内に入りました。
堂内は、天然の扇風機が回ってました


内陣中央に、平安時代後期に作られた、薬師如来座像(重要文化財)、右に釈迦如来座像(重要文化財)、左に阿弥陀如来座像(重要文化財)を安置。須弥壇の右隅に脇侍の毘沙門天立像、左隅には不動明王立像を安置。そして本堂奥には、慈覚大師坐像(比叡山に声明を伝えた高僧で来迎院の開祖)、聖応大師坐像(良忍上人・来迎院を再興)゛が祀られてました。
本堂で、右奥を進むと御廟入口の大きな看板があったので、せっかくやし行って見ようと階段を上がると・・・。
この先に良忍上人御廟があって、三重の石塔が立ってるそうで、ここに眠られているそうです。先が見えないので不安になり、これ以上は行きませんでした。
いつものように、じっくりゆっくり見て行く訳にはいきません。階段を上がっただけで引き返しました。こちらの上には鎮守堂がありますが、ここも上リません。
本堂前の前庭を見ると鐘楼が見えてたので、最後に見て行きました。
最後に鐘楼を撮って、来迎院を出ました。入ると時に一人。帰る時に二組が入ってこられただけでした。徒歩5分程度ですが、少し登りですし、地図を見ると相当離れているように見えるためでしょうね。
来迎院を出て、今度は三千院に向かって呂川沿いにの参道を下って行きます。その途中、右手にあったのが浄蓮華院の山門です。
ここは通常非公開ですが、不定期で7月~9月の土日に開催されるミニコンサートの『香雲』が開かれ、入ることができます。
来迎院を大原魚山流の本山として、たくさんの子院が開かれました。最盛期には49もの僧坊が建てられた中の一つです。
そこから少し下がると三千院の朱雀門がありました。
三千院の中に往生極楽院がありますが、それは三千院拝観時に紹介します。その往生極楽院の、かつての正門にあたりますが、現在は開かれることはありません。
再び三千院の土産物店だ立ち並ぶ桜馬場に戻ってきたのが、13時30分でした。往復15分かかるので、来迎院の滞在時間は、15分程度でした。もちろん帰りに拝観受付で、朱印帳は受け取っています。そしてこれから三千院に入ります。つづく。
【来迎院 本堂】