非業の御霊を供養した御霊神社(上御霊神社)へ
を護王神社から地下鉄烏丸線に乗り、「鞍馬口駅」で降り、上御霊前通りを東に進むと突き当たりにあるのが御霊神社(上御霊神社)です。
この次が今日の目的地です。ただせっかく鞍馬口まで来るので、どこか行く所を探してたら見つけた次第です
。烏丸通りから来たので、最初に見るのが西門でした。
寛政年間(1789~1801)に再建された楼門です。ここも空いてたら良いのに・・・と思ってたら一人の方が出て来られました。そのため少し写真を撮るのを待ちました
。
この楼門を通り過ぎようとしたら仁王像と思いきや、武士の姿・・・多分警護の武士かも・・・しかも・・・口が・・・阿吽・・・驚きです
。
楼門から境内を見てみました。数名が散歩に来られてる程度で、特に拝観料も要らなかったです。左手に手水舎、この先が舞殿だとおもいますが・・・散策する前に社務所を探しました。
楼門を入ってすぐの左手に社務所がありました。特に案内が出てないので、間違い無いかと思いながら近づくと・・・誰もいません・・・留守かも・・・。
よくよく見ると、「留守の場合は呼び鈴を押して下さい」と書いてあったので、何度か押しても出てこられません。諦めかけた時・・・出て来られました。ホッ
。
御朱印をいただけて良かったです。私の神社用朱印帳も一杯になってきたので、また、どこかて買う必要が
。先ずは手水舎で手を清めます。
このまま参道を東に進むと、狛犬と奥に拝殿が見えてきます。ここには予備知識無しできました。由緒書は欲しかったんてすが、朱印の時に簡単なものは、貰いました。
その拝殿を回り込むように本殿に出ました。近所の人だと思いますが、お参りに来られてたので少し待ちました。そして、ここでもお決まりの二礼二拍一礼でお参りを済ませました。
帰ってから分かったことですが、1733年(享保18年)御寄進の内裏賢所御殿の由緒ある遺構を1970年(昭和45年)に復元されたものです。
奈良時代・平安時代に京の都では、災害や疫病が相次いでました。その事態を重く見た桓武天皇が、平安遷都を期に非業の御霊を供養したのが御霊神社の発祥で、794年(延暦13年)とされています。最初の祭神は、桓武天皇の実弟・早良親王で、長岡京造営責任者・藤原種継を暗殺したとされ、断食で無実を訴えるなかで没しました。以来、非業の死を遂げた人が祭神に加えられ863年(貞観5年)には6柱に。さらに後年、吉備真備も合祀され、現在は8柱を静かに祀られています。
本殿でお参りを済ませても直ぐに出ません
。今日の目的地は10時からの拝観開始で、既に時計の針は回ってしまいました。次ぎに南門を見に行きますが、その南門から見た拝殿です。
この南門は四脚門で、伏見城の四脚門を移築されたものとか。それなら正面からしっかり撮れば良かったと・・・
。帰ってから知った次第です
。
南門を出ても手水舎がありました。南門から入って西門から出て行かれる散歩コースになってるようです。
その拝殿前に絵馬所(写真左端)があって、中で休憩されてる人も数名見受けられました。その掲げられてる絵馬を数枚撮りました。
内裏賢所権殿を絵馬所につくり改められたそうで、皆川淇園(みながわきえん)・小林雪山などの作品が掲げられてるかかげられてるそうですが・・・どれがどれだか分からない
。
次ぎに境内社を見て行きますが、もう時間が無くなってきので、全部は無理です
。南門近くにあった福寿稲神社です。
次ぎに本殿近くにあった、花御所八幡宮です。花御所・・・足利義満が造営した花の御所がこの辺りにあったんですね。
境内をウロウロしてたら、こんなもの見つけました。清明心の像です。神社の境内に何だろう・・・と誰もが思うでしょう。
1979年(昭和54年)国際児童年にあたり作成された像だとか、中国宋代の学者司馬温公の故事に拠って建立されました。
最後は、境内にあった句碑です。先ずは松尾芭蕉から。1690年(元禄3年)に参詣された時に詠まれたとか。
「半日は神を友にや年忘」と書いてあるらしいです。当然・・・読めません
。
次が、富士谷御杖(ふじたに みつえ)の句碑です。私は知りませんでしたが、江戸時代中期から後期にかけての著名な国学者だそうです。
駒札はありましたが、これも・・・わかりません。1733年(享保18年)の本殿造営時に詠まれたとか。
最後は、日本の言語学者で新村 出(しんむら いずるの歌碑です。
「上御霊のみやしろに 詣でてよめる 千早振神のみぐみ深くして 八十ぢに満つる幸を得にけり」1956年(昭和31年)に詠まれました。
これで、上御霊神社を出ました。すると女房が「こんな所に石碑があるで」と教えてくれました。応仁の乱勃発の地と書かれた石碑です。
御霊神社(上御霊神社)は、かつて御霊の森と呼ばれてました。その御霊の森・・・すなわち上御霊神社の境内で、1467年(文正2年)1月18日の早朝、合戦が始まりました。この合戦を「応仁の乱」と呼ばれています。
それを示す石標が上御霊神社西門横にありました。京の都が灰燼となった戦乱が、ここから始まったんですね。ここに来るまでまったく知らなかったことです。
結構暑かったけど朱印を貰えて良かったです。そけでは今日の目的地を向かいます。
【御霊神社(上御霊神社) 四脚門】

この次が今日の目的地です。ただせっかく鞍馬口まで来るので、どこか行く所を探してたら見つけた次第です

寛政年間(1789~1801)に再建された楼門です。ここも空いてたら良いのに・・・と思ってたら一人の方が出て来られました。そのため少し写真を撮るのを待ちました

この楼門を通り過ぎようとしたら仁王像と思いきや、武士の姿・・・多分警護の武士かも・・・しかも・・・口が・・・阿吽・・・驚きです


楼門から境内を見てみました。数名が散歩に来られてる程度で、特に拝観料も要らなかったです。左手に手水舎、この先が舞殿だとおもいますが・・・散策する前に社務所を探しました。
楼門を入ってすぐの左手に社務所がありました。特に案内が出てないので、間違い無いかと思いながら近づくと・・・誰もいません・・・留守かも・・・。
よくよく見ると、「留守の場合は呼び鈴を押して下さい」と書いてあったので、何度か押しても出てこられません。諦めかけた時・・・出て来られました。ホッ

御朱印をいただけて良かったです。私の神社用朱印帳も一杯になってきたので、また、どこかて買う必要が

このまま参道を東に進むと、狛犬と奥に拝殿が見えてきます。ここには予備知識無しできました。由緒書は欲しかったんてすが、朱印の時に簡単なものは、貰いました。
その拝殿を回り込むように本殿に出ました。近所の人だと思いますが、お参りに来られてたので少し待ちました。そして、ここでもお決まりの二礼二拍一礼でお参りを済ませました。
帰ってから分かったことですが、1733年(享保18年)御寄進の内裏賢所御殿の由緒ある遺構を1970年(昭和45年)に復元されたものです。
奈良時代・平安時代に京の都では、災害や疫病が相次いでました。その事態を重く見た桓武天皇が、平安遷都を期に非業の御霊を供養したのが御霊神社の発祥で、794年(延暦13年)とされています。最初の祭神は、桓武天皇の実弟・早良親王で、長岡京造営責任者・藤原種継を暗殺したとされ、断食で無実を訴えるなかで没しました。以来、非業の死を遂げた人が祭神に加えられ863年(貞観5年)には6柱に。さらに後年、吉備真備も合祀され、現在は8柱を静かに祀られています。
本殿でお参りを済ませても直ぐに出ません

この南門は四脚門で、伏見城の四脚門を移築されたものとか。それなら正面からしっかり撮れば良かったと・・・


南門を出ても手水舎がありました。南門から入って西門から出て行かれる散歩コースになってるようです。
その拝殿前に絵馬所(写真左端)があって、中で休憩されてる人も数名見受けられました。その掲げられてる絵馬を数枚撮りました。
内裏賢所権殿を絵馬所につくり改められたそうで、皆川淇園(みながわきえん)・小林雪山などの作品が掲げられてるかかげられてるそうですが・・・どれがどれだか分からない

次ぎに境内社を見て行きますが、もう時間が無くなってきので、全部は無理です

次ぎに本殿近くにあった、花御所八幡宮です。花御所・・・足利義満が造営した花の御所がこの辺りにあったんですね。
境内をウロウロしてたら、こんなもの見つけました。清明心の像です。神社の境内に何だろう・・・と誰もが思うでしょう。
1979年(昭和54年)国際児童年にあたり作成された像だとか、中国宋代の学者司馬温公の故事に拠って建立されました。
最後は、境内にあった句碑です。先ずは松尾芭蕉から。1690年(元禄3年)に参詣された時に詠まれたとか。
「半日は神を友にや年忘」と書いてあるらしいです。当然・・・読めません

次が、富士谷御杖(ふじたに みつえ)の句碑です。私は知りませんでしたが、江戸時代中期から後期にかけての著名な国学者だそうです。
駒札はありましたが、これも・・・わかりません。1733年(享保18年)の本殿造営時に詠まれたとか。
最後は、日本の言語学者で新村 出(しんむら いずるの歌碑です。
「上御霊のみやしろに 詣でてよめる 千早振神のみぐみ深くして 八十ぢに満つる幸を得にけり」1956年(昭和31年)に詠まれました。
これで、上御霊神社を出ました。すると女房が「こんな所に石碑があるで」と教えてくれました。応仁の乱勃発の地と書かれた石碑です。
御霊神社(上御霊神社)は、かつて御霊の森と呼ばれてました。その御霊の森・・・すなわち上御霊神社の境内で、1467年(文正2年)1月18日の早朝、合戦が始まりました。この合戦を「応仁の乱」と呼ばれています。
それを示す石標が上御霊神社西門横にありました。京の都が灰燼となった戦乱が、ここから始まったんですね。ここに来るまでまったく知らなかったことです。
結構暑かったけど朱印を貰えて良かったです。そけでは今日の目的地を向かいます。
【御霊神社(上御霊神社) 四脚門】