徳川家康の次男 結城秀康が築城した福井城へ

福井城に入るには、橋が3ケ所しかありません。福井市立郷土歴史博物館からは内堀の北側に架かる土橋を渡りますすが、その土橋には5分程度で着きました。

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福井城の内堀ぱ、結構広いですね、北側の城壁を見てますが、やっばりバックの景色が・・・残念です。ここ福井城内は、今は県庁舎と県警本部・議事堂が建っているので、風情はありません。

関ヶ原の戦いのあと、越前に封られた徳川家康の次男である結城秀康が天下普請による築城を開始。約66年の歳月をかけて完成した福井城は、4重5階の天守閣をはじめ、巽櫓など3つの櫓がそびえていたが、1669年(寛文9年)4月の大火により、焼失しました。藩では、直ちに再建に着手し、3年後に復旧したが、天守閣だけは、幕府の禁令により再建を許されなかったといいます。

事前に北西角に天守閣跡があることを調べてました。そこで県庁舎の北側に向かいますが、橋を渡って直ぐに西側に行ける道があったので、そちらを通りました。

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県庁舎ということもあって、車を通るし、人の行き来も多いです。この道・・・通っても良いのかなぁ・・・と思いながら進むと。

ここを通って突き当たりに・・・ありました、天守閣に通じる階段が見えた時は、ホッ。ここまで歩いて来て、違ってたら・・・。

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「滑りやすいので注意」と書いてあったように記憶してますが、福井の冬は大雪が降るんでしょうし、積もったら確かに恐いですね。

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またまた階段かと思いましたが、登る途中に案内が出てて「石垣に残る塀の痕跡と刻印」書いてありました。下から3段目の石に印刻があるようでが、見過ごしました

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登ったら上から石垣を撮りました。今は内堀と数少ない石垣の遺構です。高さはそんなに無いように思いました。

特に案内はありませんでしたが、本丸跡まで行こうと思い歩いていると、「福の井」と書いてある井戸がありました。

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福井の名の由来となった井戸だそうで、怖々覗いてみましたが、深すぎて見えない・・・ 北ノ庄城から福井城に変わって、現在の福井県・・・それが、この井戸でしたか

北ノ庄藩初代は結城秀康ですが、2代藩主・忠直から松平姓に復姓し、3代藩主・忠昌の時、「北」は敗北に通じるということで「北ノ庄」から「福居」そして「福井」へ。明治維新まで17代続きました。

やっと、ここまで来たら案内が出てました。ここで案内を読んでから・・・。

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最初、向かって右側の控天守から見学です。「あれ、天守台が2つある」と思ってしまったのが正直な所です。中の石垣が崩れているのは1948年(昭和23年)6月28日の福井地震によるものと書いてありました。

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こちらには何も建てられてないかと思います。先程行った、福井市立郷土歴史博物館の模型を見て来たからです。

向かって左が天守閣が建ってた石垣です。ここに4層5階の大天守が建てられてたと思うと想像が広がります。先程、福井市立郷土歴史博物館で模型も見たしね

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1669年(寛文9年)の大火で焼失したあとは、幕府の許可がでなかったとかで、再建されなかったようですね。

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少しだけ上がると天守閣の礎石が見えています。ここでは芝生が敷き詰められ緑が綺麗ですね。それに誰も居ないし・・・

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向かって右が福井県警本部 左が福井県庁です。平日のお昼過ぎで、皆さん忙しそう。車の行き来は半端じゃなく、多いです。

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上から見た控天守跡です。福井地震で崩れた石垣を見ると自然の猛威には敵わないと思ってしまいます。

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今は本丸跡にビルが建ち並んでいるので、かつて面影は、ここしかありません。それにしても天守台の上は広いですし、ベンチもありました。

こちらが次ぎに向かう予定の御廊下橋ですが、何だか工事をされてるようで・・・山里口御門復元工事のようです。橋・・・渡れるのかなぁ

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来た道の反対側に階段があったので、帰りはそちらから降りました。メインの御本城橋から入ると、こちらが正面に当たる訳です。

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で、降りてから気になったので、御廊下橋を見ると・・・やっぱり・・・通行止めでした。ここの通行止めは痛かったです。次ぎに行く所が、この橋を渡って直ぐの所だったので。

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山里口御門の石垣修復工事のため通行止めです。2015年(平成27年)8月7日~2017(平成29年)年3月31日まで。

御廊下橋が通行止めのため、仕方なく御本城橋に回りました。福井県庁舎と県警本部の前を通ります。(写真は県警本部)

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そこで掘出しものを見つけました。越前福井初代藩主 結城秀康像です。私は戦国歴史ファンで、特に徳川家康が好きです。家康の長男・信康が切腹させられて、次は次男の秀康かと誰もが思うでしょう。

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そこで、いろんな歴史小説を読んだりしたんです。秀吉・家康に翻弄された悲運の武将でしょう。それより御廊下橋が通行止めじゃなかったら、この像の存在も知らずに京都に帰ってたと思うとラッキーでした。

結城秀康 徳川家康の次男で、1574年(天正2年)生まれ 幼名を於儀丸 1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いのあと、豊臣秀吉の養子となりまにすが、実際は人質でした。しかし豊臣秀吉には厚遇され、豊臣家には終生好意をいだいてたといいます。1589年(天正17年)秀吉に実子・鶴松が生まれると、1590年(天正18年)秀吉の命により、下総の結城家の養子となり、結城10万石を領有しました。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの戦功により、越前68万石を与えられます。1601年(慶長6年)越前に入国した秀康は、北ノ庄城の大改修に着手し、約6年の歳月をかけて4層5階の大天守閣と城下町を完成させました。1607年(慶長12年)病死(一説には梅毒とか)し34歳の若さで亡くなります。幼少期から家康に嫌われ、秀吉の養子となり、二人の権力者に翻弄された波乱の数奇な一生でした。

ここで予定外の御本城橋から福井城の東と西を撮りました。何回も言いますが、この橋を行き来する車の多いこと。

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この橋を渡って西へ進み南西角までやってきました。かつては隅櫓が聳えてたようですね。残念ながら今は何もありませんが。遠くに御本城橋が見えています。

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そして先程城内から渡れなかった御廊下橋までやって来ました。随分遠回りしましたが、結城秀康像など見られて、かえって良かったです。

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ここだけ屋根が付いた橋なんですが訳はちゃんとあります。明治期に撮られた古写真を元に復元工事をされています。完成時に見てみたいです

福井城内には、床面積1千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主の内、5代・昌親(後、7代・吉品)、12代・重富、13代・治好、16代・慶永(春嶽)、17代・茂昭の五人は現在の中央公園にあった西三の丸御座所に居住していたとさています。藩主が政庁であった本丸と西三の丸とを往復するための橋が、御廊下橋でした。

ここで空模様が曇ってきました。時々晴れ間はあったんですが、何だか空が黒くなってきて・・・やっぱり北陸の天候は分かりません。次は予定なら西三の丸があった中央公園に行こうと思ってました。しかし、ここも工事中のため、予備で考えてた所に行きました。

【福井城址 結城秀康像】



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