松平春嶽を祀る福井神社へ
福井城の御廊下橋の頃から雨が降り始めました。南西の隅櫓跡に来た時は晴れてたのに、北陸の天気は分かりません。
福井城跡の西側は現在工事中のため、福井神社の鳥居がなかなか見えてきません。少し不安になってきたところ、工事用の覆いが取れた所まで行くと、やっと一の鳥居が見えました。木製のこの鳥居は、創建当初のものです。福井神社には14時18分に着きました。
今日は雨で始まって雨で終わる・・・そんなふうに思いながら鳥居の前で一礼し、入りました。福井城廻りの歩道では数名が歩かれてましたが、福井神社には・・・皆さん素通りです。
鳥居をくぐって今度は、向きを西に変えますが、その先に福井神社と書かれた大きな石標が西向きにありました。
この石標の横にあるのが、福井市指定の天然記念物 大銀杏の大木です。1945年(昭和20年)7月19日の福井大空襲で、社殿の殆どが焼失しましまたが、このイチョウの木は生き残ったんですね。
そして、体を西に向けると、コンクリート製の普段見慣れない二の鳥居がありました。それにしても幅が広いと言うか長いし、何より貫の無い・・・こんなの初めて見ました。
正面に拝殿が右手に絵馬殿が見えています。前途したとおり、こちらは空襲で焼けたため、コンクリート製で復興されたようです。
入って右手に、いつものように手水舎があって、手を清めるようになっています。雨が降っているので、こちらに入って、濡れたレンズを拭きました。
ほんしの10分前まで晴れてたのに・・・とぼやいても・・・こちらは、二の鳥居前にあった狛犬です。向かって右側に獅子像があるので「阿形(あぎょう)」でしょう。
向かって、、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じてました。雨が降ってるので、写真は撮らなかったです。
こちらが福井神社境内の全景です。そんなに広くはありませんし、参拝者は・・・今のところ私らだけです。
1943年(昭和18年)9月4日に福井神社は創建されました。祭神は、16代越前福井藩主・松平慶永(春嶽)公で、幕末・維新の日本歴史に大きく貢献しました。これが日本最後の別格官幣社の指定となりました。しかし、創建から2年、総檜造りの壮麗な社殿を誇ってましたが、1945年(昭和20年)7月19日の福井大空襲で、社殿の殆どが焼失しましまた。1957年(昭和32年)福井大学工学部の設計により、本殿・社殿・摂社・資料館・鳥居など総コンクリート造りで再建されました。
先ずは、手前の拝殿で、奥の本殿に向かって、お賽銭をし、二礼二拍一礼でお参りしました。本殿もコンクリート製で驚きの連続でしたね。
御祭神は、前途しましたが松平慶永(春嶽)で、銅像が拝殿横にありました。これで福井市立郷土歴史博物館前で見たのと合わせて2つ目です。
御三卿の田安家・徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)の八男として1828年(文政11年)生まれ、11歳の時1838年(天保9年)に越前松平家の養子となり、越前松平家 第16代越前福井藩主となりました。当時、福井藩の財政事情は非常に厳しく、1843年(天保14年)に藩主として入国した春嶽は、早々に藩政改革に着手し、厳しい倹約を奨励するとともに、大商人にも協力を求めて財政整理を推し進めました。1853年(嘉永6年)黒船来航以降、春嶽は開国貿易などの幕政の改革を主張したが、将軍継承問題で井伊直政らと激しく対立。井伊直弼が大老に就任すると、春嶽は蟄居・謹慎となりましたが、井伊直弼の死後、政界に復帰し政事総裁職に就任。しかし尊王攘夷派の台頭もあって1年足らずで辞任しました。その後、15代将軍徳川慶喜の補佐をし、尊皇・敬幕・開国の立場を守りながら、公武合体の推進など、国政の中心で重要な役割を担いましたが、明治政府でも要職に就任しましたが、1870年(明治3年)に全ての公職を退きました。
こちらは摂社・恒道神社です。摂社もコンクリート製で、ここまで来たら驚きません。
祭神は、中根靱負(なかねゆきえ)・鈴木主税(すずきちから)・橋本左内(はしもとさない)が祀られています。
拝殿から二の鳥居を見ています。写真右側が福井城です。こうして私らが訪問中に誰も来られませんでした。雨は降り続いています。
こちらは、資料館と書いてありました。宝物殿のようなものでしょうかでも、ここの歴史は新しいですよね。
最後に絵馬殿です。御祭神の松平春嶽公の肖像画などありました。雨が降っているので、ここに椅子があれば良かったです。荷物の整理なんかできから。
今日は、朱印帳を2冊用意してきました。そのためリュックサックは重たくて仕方なかったんですけど、この福井神社でも御朱印をいただこうと思ってたら、社務所が分かりません。これかなぁと思う所で、中を覗き込むと書き置きの朱印がありました。こうなると呼ぶしかありません。しかし、呼んでも出て来られません。今度は女房が呼んでくれました。自慢じゃないが、女房の声は親譲りの大声なんです。そしたら以外な所から人が来られました。先程まで社殿の前で清掃されてた方でした。それにしても、そこまで声が届いたなぁと感心です。書き置きの朱印に日付を入れてもらったら絵葉書と由緒書もいただきました。雨の中来て良かったです。最後にお礼を言って14時35分に福井神社を出ました。予定の特急の時間の1時間前ですが、雨も降ってることもあって、福井駅に戻ることにしました。福井駅には、他の駅にないものがありました。つづく。
【福井神社 二の鳥居】
福井城跡の西側は現在工事中のため、福井神社の鳥居がなかなか見えてきません。少し不安になってきたところ、工事用の覆いが取れた所まで行くと、やっと一の鳥居が見えました。木製のこの鳥居は、創建当初のものです。福井神社には14時18分に着きました。
今日は雨で始まって雨で終わる・・・そんなふうに思いながら鳥居の前で一礼し、入りました。福井城廻りの歩道では数名が歩かれてましたが、福井神社には・・・皆さん素通りです。
鳥居をくぐって今度は、向きを西に変えますが、その先に福井神社と書かれた大きな石標が西向きにありました。
この石標の横にあるのが、福井市指定の天然記念物 大銀杏の大木です。1945年(昭和20年)7月19日の福井大空襲で、社殿の殆どが焼失しましまたが、このイチョウの木は生き残ったんですね。
そして、体を西に向けると、コンクリート製の普段見慣れない二の鳥居がありました。それにしても幅が広いと言うか長いし、何より貫の無い・・・こんなの初めて見ました。
正面に拝殿が右手に絵馬殿が見えています。前途したとおり、こちらは空襲で焼けたため、コンクリート製で復興されたようです。
入って右手に、いつものように手水舎があって、手を清めるようになっています。雨が降っているので、こちらに入って、濡れたレンズを拭きました。
ほんしの10分前まで晴れてたのに・・・とぼやいても・・・こちらは、二の鳥居前にあった狛犬です。向かって右側に獅子像があるので「阿形(あぎょう)」でしょう。
向かって、、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じてました。雨が降ってるので、写真は撮らなかったです。
こちらが福井神社境内の全景です。そんなに広くはありませんし、参拝者は・・・今のところ私らだけです。
1943年(昭和18年)9月4日に福井神社は創建されました。祭神は、16代越前福井藩主・松平慶永(春嶽)公で、幕末・維新の日本歴史に大きく貢献しました。これが日本最後の別格官幣社の指定となりました。しかし、創建から2年、総檜造りの壮麗な社殿を誇ってましたが、1945年(昭和20年)7月19日の福井大空襲で、社殿の殆どが焼失しましまた。1957年(昭和32年)福井大学工学部の設計により、本殿・社殿・摂社・資料館・鳥居など総コンクリート造りで再建されました。
先ずは、手前の拝殿で、奥の本殿に向かって、お賽銭をし、二礼二拍一礼でお参りしました。本殿もコンクリート製で驚きの連続でしたね。
御祭神は、前途しましたが松平慶永(春嶽)で、銅像が拝殿横にありました。これで福井市立郷土歴史博物館前で見たのと合わせて2つ目です。
御三卿の田安家・徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)の八男として1828年(文政11年)生まれ、11歳の時1838年(天保9年)に越前松平家の養子となり、越前松平家 第16代越前福井藩主となりました。当時、福井藩の財政事情は非常に厳しく、1843年(天保14年)に藩主として入国した春嶽は、早々に藩政改革に着手し、厳しい倹約を奨励するとともに、大商人にも協力を求めて財政整理を推し進めました。1853年(嘉永6年)黒船来航以降、春嶽は開国貿易などの幕政の改革を主張したが、将軍継承問題で井伊直政らと激しく対立。井伊直弼が大老に就任すると、春嶽は蟄居・謹慎となりましたが、井伊直弼の死後、政界に復帰し政事総裁職に就任。しかし尊王攘夷派の台頭もあって1年足らずで辞任しました。その後、15代将軍徳川慶喜の補佐をし、尊皇・敬幕・開国の立場を守りながら、公武合体の推進など、国政の中心で重要な役割を担いましたが、明治政府でも要職に就任しましたが、1870年(明治3年)に全ての公職を退きました。
こちらは摂社・恒道神社です。摂社もコンクリート製で、ここまで来たら驚きません。
祭神は、中根靱負(なかねゆきえ)・鈴木主税(すずきちから)・橋本左内(はしもとさない)が祀られています。
拝殿から二の鳥居を見ています。写真右側が福井城です。こうして私らが訪問中に誰も来られませんでした。雨は降り続いています。
こちらは、資料館と書いてありました。宝物殿のようなものでしょうかでも、ここの歴史は新しいですよね。
最後に絵馬殿です。御祭神の松平春嶽公の肖像画などありました。雨が降っているので、ここに椅子があれば良かったです。荷物の整理なんかできから。
今日は、朱印帳を2冊用意してきました。そのためリュックサックは重たくて仕方なかったんですけど、この福井神社でも御朱印をいただこうと思ってたら、社務所が分かりません。これかなぁと思う所で、中を覗き込むと書き置きの朱印がありました。こうなると呼ぶしかありません。しかし、呼んでも出て来られません。今度は女房が呼んでくれました。自慢じゃないが、女房の声は親譲りの大声なんです。そしたら以外な所から人が来られました。先程まで社殿の前で清掃されてた方でした。それにしても、そこまで声が届いたなぁと感心です。書き置きの朱印に日付を入れてもらったら絵葉書と由緒書もいただきました。雨の中来て良かったです。最後にお礼を言って14時35分に福井神社を出ました。予定の特急の時間の1時間前ですが、雨も降ってることもあって、福井駅に戻ることにしました。福井駅には、他の駅にないものがありました。つづく。
【福井神社 二の鳥居】