松尾大社の境外摂社 月読神社へ

松尾大社から歩いて5分程度で、2010年5月以来の月読神社(つきよみじんじゃ)に着きました。

松尾大社から山側の道を進むと、その先には京都では超人気スポットである鈴虫寺があって、私も鈴虫寺に向かう途中にみつけた次第です。そして今日も、多くの人が松尾大社から月読神社の方向に歩いて行かれます。まさか・・・月読神社へ・・・と思いましたが、皆さん素通りです

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山側の道を進むと右手に朱塗りの鳥居が現れるので、前回も足を止めて入りました。今日の目的は、朱印ですが社務所が開いてるかどうかだけ・・・です。

鳥居をくぐると石段を上がると中門があります。見た所・・・境内には誰も居ないようです。(前回も誰にも出会いませんでした)

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前回の記憶が殆どないので、どこに社務所があるのか・・・ドキドキでここをくぐると・・・

入って右手に社務所がありました。見た所開いてません。しかし、よくよく見ると「ご用の時はベルを押して下さい」と書いてあります。そこで恐る恐るベルを押すと・・・中から出て来られました。

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最初にベルを押す前に、朱印について、「書き置きの物」しか無いことが書いてありました。300円を納めて書き置きの朱印に日付を入れてもらいました。由緒書きは100円だそうで・・・しかし、朱印代を納めたので無料でいただきました。

月読神社は延喜式では名神大社の一つに数 えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島 において海上の神として奉斎されたものです。文献によれば、487年(顕宗3年)阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊(つきよみのみこと)がよりついて託宣をしたので、これを天 皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)の地に社 を創建したとされ、856年(斎衡3年)に松 尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿 を中心に、御船社、聖徳太子社などから構成 されています。月読神社が京都へもたらされるにあたって は渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の 神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な 意味をもつ神社であるといえます。 (平成5年4月1日 京都市指定史跡)

広くない境内の奥にひっそりと本殿があって、ここでお参りしました。松尾大社の次ぎに来たので、これが本殿と思ってしまいますよね。

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祭神は、京都市の案内板にあったように、月読尊です。案内板や由緒書きを読んでも、やっぱり神社は・・・読み方が難しいですね。

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本殿から境内を見ています。夜は恐いでしょうね、猿がでるとか・・・。あのテントが日頃からあるのか、正月の参拝者用か分かりません。

本殿の前にあるのが拝殿です。下の案内板を見ないと約1500年前も前から建つ、由緒ある神社とは気付かないでしょう。

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後は、月読神社の境内末社を巡ります。御船社(みふねしゃ)からです。

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祭神は天鳥船命(あまのとりふねのみこと)。航海安全・交通安全の守護紳で、松尾大社の神幸祭(しんこうさい)の際、御旅所へ渡御するにあたり、道中の安全を祈願する祭祀が行われます。

次ぎも月読神社の境内末社の、聖徳太子社(しょうとくたいししゃ)です。

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学問の神様として聖徳太子を祀られています。月読命を尊崇した聖徳太子の徳を称えて祀られたと伝わっています。

その隣に立つのがむすびの木と呼ばれる古木かどうか知りませんが、次のスポットと関係があるようで。縁結びや恋愛成就に御利益があるそうです

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それが「月延石(つきのべいし)」と呼ばれる石で「安産石」とも呼ばれています。

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神功皇后が安産を願って腹を撫でた石だとか。現在は戌の日に安産の特別祈祷をを行っており、祈祷後に安産祈願石に名前を書き、月延石の前に供える信仰があるそうです。

さすがに大晦日のこの日は、境内には誰も居ません。そこで残るスポットを見て行きます。それが願掛け陰陽石です。

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左右の石を撫でて祈願するようで、痛めている膝の事を祈りましたが、さて・・・どうでしょう

昼間でも、この辺りを撮るとフラッシュが焚かれます。次が穢解(かいわい)の池です。

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そして次が、穢解(かいわい)の水で、自己の罪、穢れを除くのに御利益が。24時間山から湧き出てる霊水だそうです。

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ここには10分ぐらいで、出ました。前途のとおり境内は狭いので、これで充分です。ここから再び松尾大社に戻って阪急で帰るつもりが、嵐山行きのバスが来たので飛び乗りました。大晦日のこの日でも、バスの中は外国人観光客が多かったです。昼から細々した掃除を済ませて、正月の準備を整えました。

【月読神社 本殿】



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