洛陽三十三ヶ所 第31番札所 東向観音寺へ

洛陽三十三ヶ所 第31番札所 東向観音寺は、北野天満宮の大鳥居をくぐった西側にあり、過去に洛陽三十三箇所の札所巡りをした時に何度か訪れたことがありました。

この日は、2015年11月『北野天満宮 もみじ苑早朝貸切拝観』に行った際の帰りに久し振りに寄ってみました。早朝イベントを終えて、嵐電「北野白梅町」駅まで歩いて行こうと石畳の参道を歩いていると。ふっと思いついて立ち寄りました。

北野天満宮の楼門を出て参道を南側に向かって歩いてると右手に表門が見えてきます。見えたら参道を外れて、門に向かって進みます。

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門前には洛陽三十三ケ所の第31番札所であることを示す石標が立っています。私は2006年6月に、ここで朱印をいただきました。

門を入って正面が本堂です。この時、8時20分頃てしたが、本堂は閉まっています。(ここの本堂には入れません)

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豊臣秀頼が再建したと伝わる本堂は、東に向いて建てられています。菅原道真公が自作と伝わる本尊・十一面観音像は秘仏で、25年毎に開扉され、次回は2027年(平成39年)だそうです。

東向観音寺は、真言宗泉涌寺派の寺で、創建は平安時代初期、桓武天皇の勅願によって創建された朝日寺を前身とし、現在の本堂は、豊臣秀頼によって再建されたもです。明治時代に入って、神仏分離政策によって北野天満宮境内の仏教寺院は移転・廃寺の憂き目をみましたが、この東向観音寺は北野天満宮の神宮寺から離れたてたため当地の残りました。一説には皇室とのゆかりが深い泉涌寺の末寺であったため、特別な配慮があったのかも。鎌倉末期、無人如導宗師が中興し、南北両朝の天皇や足利尊氏公の帰依をうけ、北野天満宮の神宮寺として栄えました。

門を入った右手には白衣観音堂があって、中には高王白衣観世音菩薩像が祀られています。その西側にあるのが寺務所で、札所巡りの朱印は、ここでいただけます。

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朱印は9時からでしょうね。この時間では閉まってました。私も10年前のことだし、覚えていませんが、多分間違いないでしょう。

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その白衣観音堂前には、延命地蔵大菩薩も祀られていました。北野天満宮には何度も来ているで、ここの前も通ってますが、不思議と入らなかったです。こんな隅々まで見た事は・・・初めてです。

門を入った左手には手水舎があって、その奥にあるのが東向観音寺の鎮守社である岩雲弁天堂で、中には岩雲弁財天像がお祀りされています。

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毎年12月1日の14時に開扉されるそうですが、来年行くかどうか・・・多分・・・行かないでしょうね

その左奥にあるのが行者堂です。ここは案内も何も無いので・・・さっぱり・・・分かりません

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それより、その左手奥にあるのが、伴氏廟で、巨大な石造五輪塔に驚きですが、柵があって近づけないのが残念です。

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四十九日の喪が明けた五十日目に詣でる「忌明塔」として知られ、菅原道真公の母の墓所と伝わっています。

また、その隣には、土蜘蛛塚がありました。こんな奥だし、よくよく見てないと見逃してしまいそうでした。

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土蜘蛛と聞いて、嵯峨狂言を思い浮かべました。毎年・・・演じられるので覚えてました。一説には、源頼光は、平安時代中期の清和源氏(せいわげんじ)の棟梁で、鬼退治で有名ですね。

ほぼ10年振りに訪れて、くまなく散策しました。当時の写真を見ると10枚程度しか撮ってません。その時は、あくまで朱印がメインでした。特に掛け軸でしたし、荷物も半端なく重たかったためでしょうね。このあと帰路に着いたわけです。

【東向観音寺 本堂】



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