坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡
12月4日(金)青蓮院門跡の紅葉のライトアップを見た帰り、地下鉄「東山」駅に向かって歩いてました。そしたら、なにやら石標かあって、暗がり読むと『坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡』と書いてあります。
場所は、東山区三条通白川橋東入南側で、東山ユースホステル前です。隣に解説が書いてあるので、下記に載せました。
当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。1864年(元治元年)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32年)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年(明治39年)まで生きていました。一般には、1866年(慶応2年)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。 歴史地理研究者 中村武生
ここには青蓮院門跡の塔頭があったんですね。青蓮院門跡を出て、ここまで歩いて7分もかかりましたが、どれだけ広かったのか分かります。その塔頭寺院の金蔵寺で龍馬とお龍は祝言をあげたんですね、細々書いてありました。
場所は、東山区三条通白川橋東入南側で、東山ユースホステル前です。隣に解説が書いてあるので、下記に載せました。
当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。1864年(元治元年)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32年)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年(明治39年)まで生きていました。一般には、1866年(慶応2年)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。 歴史地理研究者 中村武生
ここには青蓮院門跡の塔頭があったんですね。青蓮院門跡を出て、ここまで歩いて7分もかかりましたが、どれだけ広かったのか分かります。その塔頭寺院の金蔵寺で龍馬とお龍は祝言をあげたんですね、細々書いてありました。