泉涌寺 七福神めぐり 寿老人お参り(第7番 法音院 寿老人堂)へ

本日最後の訪問地は、泉涌寺 七福神めぐりの最後 泉涌寺塔頭 法音院で、寿老人をお参りします。

私は、洛陽三十三ヶ所観音巡礼で、二度ばかり訪れたことがありました。ここは第25番札所でしたが、本堂は非公開のため入ったことがありませんでした。しかし・・・本日は、法音院の本堂に上がれると聞いてたので、期待大です。以前訪問した時よりも綺麗になってる山門を15時55分に入りました。

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ここも戒光寺の時と同じく、事前に撮影しておきました。即成院・戒光寺・法音院は、しごく近いです。無理に撮りに行ったほどでもありません。

山門を入って正面に書院の玄関があって、そこで朱印はいただけます。

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調べると2006年7月に訪問してました。ここで洛陽の朱印帳と掛け軸の朱印をいただいたんですね。覚えてないです

その手前に今日の主役、寿老人堂で、中に寿老人が祀られています。

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事前撮影の時は、お堂は閉まってました。しかし、夕方再訪問すると・・・閉まってました。スタッフの方が住職さんを呼びに行かれて・・・お堂を開けていただきました。

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寒いので、ほんの一時でしたが長く感じました。開けて貰って、お堂の中にも入れてもらいました。近くでお参りできて良かったです。

そして、いよいよ次が本堂です。住職さんの案内のもと靴を脱いで皆さん入られ扉を閉められました。(猛烈に寒いので助かりました。)

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本尊はあらゆる人を救う羂索[投げ縄]をもつ不空羂索観音 。住職さんの話が終わってから、目の前で見せていただきお参りさせてもらいました。

鎌倉時代末期の1326年(嘉暦元年)無人如導宗師により泉涌寺山内に創建されましたが、室町時代の応仁の乱により堂宇が焼失してしまいます。その後、江戸時代の初期の1965年(寛文5年)幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得、覚雲西堂師の手により現在の地に再建されました。現在の本堂は英照皇太后(えいしょうこうたいごう・孝明天皇の女御にして明治天皇の嫡母)大葬の御須屋を賜ったものです。

本堂内のお参りが終わってあと、住職さんの案内のもと、法音院のゆかりの人物、本多 正重(ほんだ まさしげ)のお墓に案内してもらいました。

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住職さんの話で、本多家とゆかりが・・・と聞きましたが・・・徳川幕府で本多と聞けば・・・下の名前が気になって・・・思い切って住職さんに質問しました。そしたら本多正重でした。忠勝・正信・正純・・・では無かったです。

しかし、江戸幕府の重鎮・本多正信は兄にあたるんですね、今日は本堂内に入れるのが目的みたいなものでしたが、戦国歴史ファンにとっては興味津津でした。

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本堂から書院を見ると庭も綺麗そうでしたが、今日は書院には行きません。余談ですが、書院内で写仏をすると非公開の本堂にも入れるみたいてすね。なお、ここの書院は伏見桃山城の遺構の一部と言われてます。

墓地から戻ると再び本堂に入りましたが、皆が揃うのに時間がかかるので境内を撮影です。これは多分・・・手水舎かなぁ・・・思いましたが・・・水が無かったので・・・。

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こちらは鎮守社でしょう。そこの右側から墓地へ通ずる道がありました。

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本堂に戻ると、朱印が出来てきました。先ずは七福神の色紙からスタッフより手渡されました。このイベントでは、色紙を1300円でお願いするか、My朱印帳を用意するかでしたが、私は前途のとおり色紙にしました。そして後日額も購入し入れると、大変良いものが出来ました。家宝にします

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ここには予定より早く、16時20分に出ました。風邪引きによる体調不良のため、一目散にJR「東福寺」駅に向かい、京都駅から帰路につきました。この日は猛烈な寒さに見舞われましたが、この日から3日間は、冷蔵庫の中のような世界でした。翌日(24日)の最高気温が2.2℃、そして月曜日(25日)の最低気温が-4.1℃そして外を見ると雪が5㎝程積もった中、傘をさして凍てつく道に積もった新雪を踏みしめ出社しました。

【泉涌寺塔頭 法音院 本堂】



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