京都十六社朱印めぐり 豊国神社へ
新熊野神社を出て、10分ぐらいかかるかと思ったら8分で京都十六社朱印巡りの豊国神社に着きました。この十六社巡りの中では、もっとも多く来ている神社でしょう。
ここに来るまでに三十三間堂を通りましたが、明日「通し矢」が行われます。弓を持った若い女性と何人かすれ違いました。そして大和大路通りを北上すると巨大な「豊国神社」と書かれて石標が目に入ってきます。
巨大な石造鳥居には「豊国大明神」と書かれた扁額が架かっています。なお、ここは豊国(とよくに)神社ですが、古来から「ほうこくさん」で親しまれてる神社です。
ご存じ、豊臣秀吉を祀る豊国神社は、この十六社朱印巡りでもっとも人気がある神社でしょう。私は徳川家康ファンですが、豊臣秀吉ファンや最近では刀剣女子の多くが参拝に訪れるようになりました。
着いたのが11寺頃で、境内は多くの参拝者で賑わってました。これでは人の居ない写真は無理です。これは最初から予想してたので・・・先ずは手水舎から、ここで清めます。
今日は修学旅行生はいませんが、シーズンともなるとひっきりなしに修学旅行生が訪れます。戦国歴史ファン並びに秀吉ファン、最近では刀剣女子恐るべし・・・です。
参道を進むと遠くからですが、国宝の唐門前でお参りします。これ以上は、進めませんが、正月三が日だけは開放され中に入ることができます。
過去何度も行ってるので、空いた時の写真もありますが、これで充分でしょう・・・と言いつつ下は過去の写真です。
唐門から奥は神域のため行けませんが、正月三が日は開放され、本殿前まで行くことができます。毎年行こう行こうと思いつつまだ、行けてません。来年こそ。
手前が拝殿。奥が本殿です。祭神は、もちろん豊臣秀吉公です。ただ国宝の唐門を無料で見られるのは良いですよね。
1599年(慶長4年)東山の阿弥陀ケ峯に豊臣秀吉公を豊国大明神として祀る豊国社(とよくにのやしろ)が創建されるも天下を取った徳川家により廃絶の道を辿り、長く不遇の時代を過ごすことに。明治に入ると1880年(明治13年)に旧方広寺大仏殿跡地に新社殿を造営し遷座。京都市民から「ほうこくさん」と親しまれ、秀吉公の立身出世から出世開運の神様として尊崇を集めています。
次ぎに京都十六社朱印ですが、ここも社務所に刀剣女子が集まっています。
ここで、京都十六社の朱印とMy朱印帳に御朱印をいただきました。これで7個目です。
最後に、末社の槇本稲荷社をお参りです。近隣にあった稲荷社を移したようです。歴史上有名な方広寺鐘銘事件の鐘楼の直ぐ横にあたります。
いくら待っても空きそうにもないので、ここには10分ぐらいで次へと向かいました。今度は正面通りを西に進みます。
広々とした正面通りは、かつて大仏殿があって、大仏を正面にあたるただとか、焼失した大仏を見たかったです。
そのまま正面通りを西に進めば鴨川を渡れたのに、あまり地図を確認しなかったツケが道を間違えることになりました。そのため橋は五条通りで渡りました。疲れと道を間違えたロスタイムは、後半堪えることに。
【豊国神社 唐門】
ここに来るまでに三十三間堂を通りましたが、明日「通し矢」が行われます。弓を持った若い女性と何人かすれ違いました。そして大和大路通りを北上すると巨大な「豊国神社」と書かれて石標が目に入ってきます。
巨大な石造鳥居には「豊国大明神」と書かれた扁額が架かっています。なお、ここは豊国(とよくに)神社ですが、古来から「ほうこくさん」で親しまれてる神社です。
ご存じ、豊臣秀吉を祀る豊国神社は、この十六社朱印巡りでもっとも人気がある神社でしょう。私は徳川家康ファンですが、豊臣秀吉ファンや最近では刀剣女子の多くが参拝に訪れるようになりました。
着いたのが11寺頃で、境内は多くの参拝者で賑わってました。これでは人の居ない写真は無理です。これは最初から予想してたので・・・先ずは手水舎から、ここで清めます。
今日は修学旅行生はいませんが、シーズンともなるとひっきりなしに修学旅行生が訪れます。戦国歴史ファン並びに秀吉ファン、最近では刀剣女子恐るべし・・・です。
参道を進むと遠くからですが、国宝の唐門前でお参りします。これ以上は、進めませんが、正月三が日だけは開放され中に入ることができます。
過去何度も行ってるので、空いた時の写真もありますが、これで充分でしょう・・・と言いつつ下は過去の写真です。
唐門から奥は神域のため行けませんが、正月三が日は開放され、本殿前まで行くことができます。毎年行こう行こうと思いつつまだ、行けてません。来年こそ。
手前が拝殿。奥が本殿です。祭神は、もちろん豊臣秀吉公です。ただ国宝の唐門を無料で見られるのは良いですよね。
1599年(慶長4年)東山の阿弥陀ケ峯に豊臣秀吉公を豊国大明神として祀る豊国社(とよくにのやしろ)が創建されるも天下を取った徳川家により廃絶の道を辿り、長く不遇の時代を過ごすことに。明治に入ると1880年(明治13年)に旧方広寺大仏殿跡地に新社殿を造営し遷座。京都市民から「ほうこくさん」と親しまれ、秀吉公の立身出世から出世開運の神様として尊崇を集めています。
次ぎに京都十六社朱印ですが、ここも社務所に刀剣女子が集まっています。
ここで、京都十六社の朱印とMy朱印帳に御朱印をいただきました。これで7個目です。
最後に、末社の槇本稲荷社をお参りです。近隣にあった稲荷社を移したようです。歴史上有名な方広寺鐘銘事件の鐘楼の直ぐ横にあたります。
いくら待っても空きそうにもないので、ここには10分ぐらいで次へと向かいました。今度は正面通りを西に進みます。
広々とした正面通りは、かつて大仏殿があって、大仏を正面にあたるただとか、焼失した大仏を見たかったです。
そのまま正面通りを西に進めば鴨川を渡れたのに、あまり地図を確認しなかったツケが道を間違えることになりました。そのため橋は五条通りで渡りました。疲れと道を間違えたロスタイムは、後半堪えることに。
【豊国神社 唐門】