京都十六社朱印巡り 満願 今宮神社へ
京大和の前からタクシーに乗り、13時50分過ぎに京都十六社朱印巡り 今宮神社に着きました。
タクシーの運転手に「今宮神社まで」と言うと、「炙り餅の今宮神社ですね」と。そうなんなんてすよね、門前のあぶり餅が有名なんですけど、今日は空いてたら入ろうかと考えてました。そのあぶり餅のお店が向かい合う東門の前でタクシーを降りました。
今まで15社を巡ってきましたが、ここが一番人出が多かったです。特にあぶり餅のお店には行列も出来てました。
東門を出ると直ぐに朱塗りの神橋があって、渡りました。しかし、下には水は流れていません。由緒書きによると、元禄時代の遺構とか。
そして、次ぎに1694年(元禄7年)に桂昌院によって寄進された玉の井がありました。その手前には手水盤があって、京都奉行・小出淡路守守里の寄進とありました。
ここで口と手を清めるのでしょうね。当初は東向きを北向きに復元した時に、水の流れも修復されたそうです。
西陣の八百屋の娘であった玉が、徳川幕府三代将軍・家光の側室ととなって、五代将軍・綱吉を生んだことから、「玉の輿」の言葉の起源になったとか。桂昌院は、当時荒廃してた社殿を1694年(元禄7年)に造営などし、また、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられています。
境内は広いです。十六社の中でも広い方でしょう。当初の予定では、長岡天満宮で初めて、持っても北に位置する今宮神社で終える予定にしてました。結果・・・そうなりました。
このまま本殿に急ぎます。今なら本殿前が空いてるように見えました。その本殿前にあった拝殿です。
そして、いよいよ本殿です。これで16社目のお参りで、一ヶ月かかって満願となりました。祭日のお昼過ぎ、境内は人で一杯でしたが、この時だけ、この一瞬だけ隙がありました。
御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと) 。
平安時代には、疫病なとの災いは怨霊がもたらすものと考えられ、そのために疫神を祀る社が都の各地にあったとされ、紫野の今宮神社もその一つです。994年(正暦5年)以前から祀られてた疫神を船岡山に遷し奉って安置し、悪疫退散を祈ったのが創祀で、京中の老若男女は挙って神輿に供をし船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唱い踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したといわれています。これが京の三大奇祭のひとつ、やすらい祭のルーツとなっています。
本殿の西隣には、摂社の疫神社があって、平安遷都以前からこの地に祀られていました。御祭神は、素盞鳴命(すさのをのみこと)です。
こちらの方が歴史が古そうですね。建物も・・・と思いましたが、京都の社寺は度々の火災に見舞われているので・・・。
この社殿も、1896年(明治29年)に焼失してるんですね。ただ1902年(明治35)には再建されたそうです。お参りのあとは、もちろん朱印です。本殿東側にある社務所に行きました。
これで16社の朱印を揃えることができ、満願達成です
。My朱印帳には、2頁を使った特別版の朱印を、そして・・・これが一番大事なことですが、達成記念の記念品もいただきました
。(最後に紹介します
)
お参りと朱印が終えると、次ぎに向かうのは・・・ここです。阿呆賢(あほかし)さんです。ここ今宮神社を紹介される時、必ず話題に出てきます。
この石は、神占石(かみうちいし)」と呼ばれ、病弱な者はこの石に心を込めて、病気平癒を祈り、軽く手で撫で身体の悪きところを摩れば、健康の回復を早めるといわれています。また、重軽石(おもかるいし)とも呼ばれ、まず軽く手の平で三度石を打ち、持ち上げると、たいそう重くなり、再度願い事を込めて三度手の平で撫でて持ち上げ,軽くなれば願いが成就すると言われています。
私の感想は、見た目よりも重かったてすね。願い事をしてもう一度もう上げましたが・・・重く感じたか軽く感じたかは・・・私の胸の中に閉まっておきます
。この後は、初めて訪れた境内をくまなく見ています。先ずは織姫社から。
御祭神は、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)。七夕伝説の織女に機織をお教えになったと言われ、織物の祖神とされているそうな。境内社にしては立派な社殿でした。
次は、八社を合祀した細長い社です。一つ一つ覚えてきました。
左から(南側から)諏訪社・鏡作社・香取社・熱田社・八幡社・住吉社・事代主命社・大國主命社でした。
今宮神社では、境内社は西側に固まっています。次は八幡社です。もうお馴染みの社ですね。
次は、平安京の守護神である大将軍社です。石柱には「紫野大将軍」と書かれてましたが・・・。
北野に大将軍八神社がありますね。元大徳寺の境内にあったとか。御祭神は、牛頭天王(ごずてんのう)と八大王子です。
次が末社の日吉社です。私は見た事がありませんが、「やすらい祭」は、ここで踊られるとか。
名前のとおり、近江の日吉大社の御祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)大物主神(おおものぬしのかみ)が祀られています。
ここで、境内西側の小高い所ににある稲荷社・織田稲荷社です。小高いと言っても少しし石段を上がる程度ですけど
。
稲荷社は、ご存じ御祭神は、宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)です。織田稲荷社は、ひょっして織田信長・・・と思ったらその通りでした。墓所寺町 阿弥陀寺の移転跡地、西陣元伊佐町から1987年(昭和62年)に移されたとか。
こちらは若宮社で、拝殿までありました。時間があれば石段を上がってお参りしたかったんですけど。
さすがに朝から廻って疲れました
。こちらは絵馬舎ですが、ゆっくり見てる時間は無かったです。写真だけ撮りました
。
最後の最後、宗像社です。最初に渡った神橋近くにありました。ですから最初にお参りしたんですが、紹介が最後になりました
。
私は、宗像社と聞けば京都御所内にある社しか思い浮かべませんが・・・御祭神は、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の十握剣(とつかのつるぎ)から生まれられた宗像三女神です。
また、その近くにあった神馬舎です。もちろんかどうか知りませんが馬・・・居なかった・・・です。
ここには13時50分に着いて14時15分に出て行きました。時間も無かったけど、これでも精一杯廻りました
。帰りは北大路通りからバスに乗るため南楼門から出ました。そのためあぶり餅は諦めた次第です。
京都マラソンでも、ここの前を走られてましたね。西京極からここまで走れるだけでも、偉いです。大正時代創建らしいけど、綺麗な楼門で、帰りはここからと決めてました。
これで満願を達成し、「建勲神社」バス停から市バスに乗って、「円町」まで行き、そこからJRに乗って帰路につきました。それにしても金閣寺バス停は相当のの混み具合です。観光シーズンになったら・・・と思うと寒けがします
。前回の記事で紹介したとおり、このあと2週間は、まったく出られなかったです。そして、この先も遠出はまだまだ、できそうにもありません。母の怪我も全治3ケ月と言われたので、当分、近場しか行けないですし、アップするのも遅れるでしょう。この記事も3月に入ってから仕上げました。
【今宮神社 東門】

おまけ・・・これが京都十六社朱印巡りでいただいた干支の置物です。想像してたものより、ずっと良かったです。これなら毎年廻ろうかなぁ
。
タクシーの運転手に「今宮神社まで」と言うと、「炙り餅の今宮神社ですね」と。そうなんなんてすよね、門前のあぶり餅が有名なんですけど、今日は空いてたら入ろうかと考えてました。そのあぶり餅のお店が向かい合う東門の前でタクシーを降りました。
今まで15社を巡ってきましたが、ここが一番人出が多かったです。特にあぶり餅のお店には行列も出来てました。
東門を出ると直ぐに朱塗りの神橋があって、渡りました。しかし、下には水は流れていません。由緒書きによると、元禄時代の遺構とか。
そして、次ぎに1694年(元禄7年)に桂昌院によって寄進された玉の井がありました。その手前には手水盤があって、京都奉行・小出淡路守守里の寄進とありました。
ここで口と手を清めるのでしょうね。当初は東向きを北向きに復元した時に、水の流れも修復されたそうです。
西陣の八百屋の娘であった玉が、徳川幕府三代将軍・家光の側室ととなって、五代将軍・綱吉を生んだことから、「玉の輿」の言葉の起源になったとか。桂昌院は、当時荒廃してた社殿を1694年(元禄7年)に造営などし、また、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられています。
境内は広いです。十六社の中でも広い方でしょう。当初の予定では、長岡天満宮で初めて、持っても北に位置する今宮神社で終える予定にしてました。結果・・・そうなりました。
このまま本殿に急ぎます。今なら本殿前が空いてるように見えました。その本殿前にあった拝殿です。
そして、いよいよ本殿です。これで16社目のお参りで、一ヶ月かかって満願となりました。祭日のお昼過ぎ、境内は人で一杯でしたが、この時だけ、この一瞬だけ隙がありました。
御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと) 。
平安時代には、疫病なとの災いは怨霊がもたらすものと考えられ、そのために疫神を祀る社が都の各地にあったとされ、紫野の今宮神社もその一つです。994年(正暦5年)以前から祀られてた疫神を船岡山に遷し奉って安置し、悪疫退散を祈ったのが創祀で、京中の老若男女は挙って神輿に供をし船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唱い踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したといわれています。これが京の三大奇祭のひとつ、やすらい祭のルーツとなっています。
本殿の西隣には、摂社の疫神社があって、平安遷都以前からこの地に祀られていました。御祭神は、素盞鳴命(すさのをのみこと)です。
こちらの方が歴史が古そうですね。建物も・・・と思いましたが、京都の社寺は度々の火災に見舞われているので・・・。
この社殿も、1896年(明治29年)に焼失してるんですね。ただ1902年(明治35)には再建されたそうです。お参りのあとは、もちろん朱印です。本殿東側にある社務所に行きました。
これで16社の朱印を揃えることができ、満願達成です



お参りと朱印が終えると、次ぎに向かうのは・・・ここです。阿呆賢(あほかし)さんです。ここ今宮神社を紹介される時、必ず話題に出てきます。
この石は、神占石(かみうちいし)」と呼ばれ、病弱な者はこの石に心を込めて、病気平癒を祈り、軽く手で撫で身体の悪きところを摩れば、健康の回復を早めるといわれています。また、重軽石(おもかるいし)とも呼ばれ、まず軽く手の平で三度石を打ち、持ち上げると、たいそう重くなり、再度願い事を込めて三度手の平で撫でて持ち上げ,軽くなれば願いが成就すると言われています。
私の感想は、見た目よりも重かったてすね。願い事をしてもう一度もう上げましたが・・・重く感じたか軽く感じたかは・・・私の胸の中に閉まっておきます

御祭神は、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)。七夕伝説の織女に機織をお教えになったと言われ、織物の祖神とされているそうな。境内社にしては立派な社殿でした。
次は、八社を合祀した細長い社です。一つ一つ覚えてきました。
左から(南側から)諏訪社・鏡作社・香取社・熱田社・八幡社・住吉社・事代主命社・大國主命社でした。
今宮神社では、境内社は西側に固まっています。次は八幡社です。もうお馴染みの社ですね。
次は、平安京の守護神である大将軍社です。石柱には「紫野大将軍」と書かれてましたが・・・。
北野に大将軍八神社がありますね。元大徳寺の境内にあったとか。御祭神は、牛頭天王(ごずてんのう)と八大王子です。
次が末社の日吉社です。私は見た事がありませんが、「やすらい祭」は、ここで踊られるとか。
名前のとおり、近江の日吉大社の御祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)大物主神(おおものぬしのかみ)が祀られています。
ここで、境内西側の小高い所ににある稲荷社・織田稲荷社です。小高いと言っても少しし石段を上がる程度ですけど

稲荷社は、ご存じ御祭神は、宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)です。織田稲荷社は、ひょっして織田信長・・・と思ったらその通りでした。墓所寺町 阿弥陀寺の移転跡地、西陣元伊佐町から1987年(昭和62年)に移されたとか。
こちらは若宮社で、拝殿までありました。時間があれば石段を上がってお参りしたかったんですけど。
さすがに朝から廻って疲れました


最後の最後、宗像社です。最初に渡った神橋近くにありました。ですから最初にお参りしたんですが、紹介が最後になりました

私は、宗像社と聞けば京都御所内にある社しか思い浮かべませんが・・・御祭神は、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の十握剣(とつかのつるぎ)から生まれられた宗像三女神です。
また、その近くにあった神馬舎です。もちろんかどうか知りませんが馬・・・居なかった・・・です。
ここには13時50分に着いて14時15分に出て行きました。時間も無かったけど、これでも精一杯廻りました

京都マラソンでも、ここの前を走られてましたね。西京極からここまで走れるだけでも、偉いです。大正時代創建らしいけど、綺麗な楼門で、帰りはここからと決めてました。
これで満願を達成し、「建勲神社」バス停から市バスに乗って、「円町」まで行き、そこからJRに乗って帰路につきました。それにしても金閣寺バス停は相当のの混み具合です。観光シーズンになったら・・・と思うと寒けがします

【今宮神社 東門】
おまけ・・・これが京都十六社朱印巡りでいただいた干支の置物です。想像してたものより、ずっと良かったです。これなら毎年廻ろうかなぁ
