第50回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 妙心寺 霊雲院へ
花園 今宮神社を15時30分前に出て急いで、妙心寺に向かいました。そして約5分程度着いた先は、第50回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開で39年ぶりに公開された妙心寺塔頭 霊雲院です。
京都市文化観光資源保護財団からいただいた最後の招待状は、ここでした
。ここも滅多に公開されないので、楽しみにしてた寺院でしたが・・・事前情報では、撮影禁止・・・らしいです
。残念
。
山門の南側に通用門があって、ここから入ります。そして正面の唐門を入って右手が拝観受付でした。
唐門をくぐると靴を脱いで、方丈に上がります。そしたら拝観受付があるので、最後の招待券を差し出しました。これで、事前にいただいた拝観券は使い切りました。
そこから「庭を含めて全面、撮影禁止」立て札が・・・。撮影禁止は仕方ないことですが、あまりにも、この立て札が多のので、正直・・・興ざめしてしまいました。貴重な文化財を見に来てるのに、やり過ぎでしょう。
入ると、最初の案内が始まってました。最初から話を聞きたいので、方丈を一周すると、またまた、案内が始まってました。そのため、2回も見送って・・・やっと最初から方丈南庭を見ながら話を聞くことができました。
南庭は、苔が敷き詰められた中に、綺麗に刈り込まれた枝が特徴の松が見事でした。写真が撮れないので、チケットの半券やバンフの切り抜きを使いました。そのため画像が不鮮明ですが、ご了承下さい
。
方丈は、看板の写真から
。ここの方丈は、典型的な禅宗寺院の様式でした。真ん中が室中の間と呼ばれ法要なんかに使われます。江戸時代に、円満本光国師の150年遠忌に際して再建されたものです。ガイドさんの話は、妙心寺の歴史から話が始まって・・・。
応仁の乱の戦火により、伽藍の多くを焼失した妙心寺を再興した、第九世・雪江宗深(せっこうそうしん)禅師の、四人の高弟が龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派という妙心寺四派を形成し、大いに 発展します。霊雲院は、妙心寺四派の霊雲派の本庵です。先代の住職は、山田無文老師(妙心寺派26代官長)で、「京の冬の旅」の題字は、この老師によるものです。
これで、妙心寺四派の寺院を全て訪問することができました。龍泉派(龍泉菴)・東海派(東海庵)・霊雲派・聖澤派(聖澤院)どの寺院も非公開のため、特別に公開され歴史ある寺院を訪問でき良かったです。
このあと、書院に移動します。この霊雲院で一番の見所・・・私も、ここを見に来たようなものです。ここには「御幸の間」が残っているんです。
室町時代に建立され、重要文化財に指定されてる書院は、銀閣寺の東求堂(国宝)「同仁斎」とともに、簡素な初期書院造の貴重な遺構として知られ、後奈良天皇が行幸されたことから「御幸の間」と呼ばれています。
後奈良天皇が度々行幸されたらしく、豪華な「御幸の間」は、見応えがありました。しかし、前途したとおり、色紙サイズの「撮影禁止」の張り紙が、3ケ所も貼ってあって・・・せっかくの「御幸の間」が泣いてました。また、小さいながらも、ここの庭も良かったです。
室町時代に子建西堂和尚(是庵)が作庭したと伝わる書院前庭(史跡・名勝)は、10坪ほどの極めて小さな庭内に枯滝と蓬莱山水を兼ねた石組みを配した枯山水庭園でした。
実は、ポストカードを買いましたが、ここでアップするのはやめました。自分の目で見て確かめるのが、一番良いかと・・・そう思ったからです。
御幸の間は、2度見に行きました。閉店
間際に来たので、最後の方はほぼ独占でした。そして方丈前に戻ると、16時になりました。するとガイドさんらが、慌ただしく後片付けに入られます。まぁ・・・じっく見せてもらって・・・ここには30分も居たので・・・もう・・・お腹が一杯でしたで・・・ここを出ることにしまた。(さっさと出て行けとは、言われてませんが
)
唐門から出ると、帰りは山門から出ていくようにコース設定されてました。先ずは中門から出て行きます。
中門を出ると、正面に庫裏があって、その奥に方丈が見えています。その庫裏からお坊さんが出て来られ・・・。
何で出て来られたのか・・・直ぐに分かりました。私は、山門から出て行きます。重厚な門ですし、本来ならここを出入りするのでしょう。
私が出て、写真を撮り終えると、先程のお坊さんが、この門を閉められました。まだ16時過ぎです。思わず「早っ」とつぶやいたほどです。
ここは、まだ空いてました。この時、16時3分でしたが、妙心寺では16時に閉められるようです。妙心寺入口の総門も閉まってたからです。
久々の外出でしたが、駆け足の訪問でした。当分は母の介護で外出は控えなくてはなりませんが仕方がありません。今日は、「御幸の間」の余韻に浸りながら帰路につきました。
【妙心寺塔頭 慶雲院 御幸の間】

京都市文化観光資源保護財団からいただいた最後の招待状は、ここでした



山門の南側に通用門があって、ここから入ります。そして正面の唐門を入って右手が拝観受付でした。
唐門をくぐると靴を脱いで、方丈に上がります。そしたら拝観受付があるので、最後の招待券を差し出しました。これで、事前にいただいた拝観券は使い切りました。
そこから「庭を含めて全面、撮影禁止」立て札が・・・。撮影禁止は仕方ないことですが、あまりにも、この立て札が多のので、正直・・・興ざめしてしまいました。貴重な文化財を見に来てるのに、やり過ぎでしょう。
入ると、最初の案内が始まってました。最初から話を聞きたいので、方丈を一周すると、またまた、案内が始まってました。そのため、2回も見送って・・・やっと最初から方丈南庭を見ながら話を聞くことができました。
南庭は、苔が敷き詰められた中に、綺麗に刈り込まれた枝が特徴の松が見事でした。写真が撮れないので、チケットの半券やバンフの切り抜きを使いました。そのため画像が不鮮明ですが、ご了承下さい

方丈は、看板の写真から

応仁の乱の戦火により、伽藍の多くを焼失した妙心寺を再興した、第九世・雪江宗深(せっこうそうしん)禅師の、四人の高弟が龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派という妙心寺四派を形成し、大いに 発展します。霊雲院は、妙心寺四派の霊雲派の本庵です。先代の住職は、山田無文老師(妙心寺派26代官長)で、「京の冬の旅」の題字は、この老師によるものです。
これで、妙心寺四派の寺院を全て訪問することができました。龍泉派(龍泉菴)・東海派(東海庵)・霊雲派・聖澤派(聖澤院)どの寺院も非公開のため、特別に公開され歴史ある寺院を訪問でき良かったです。
このあと、書院に移動します。この霊雲院で一番の見所・・・私も、ここを見に来たようなものです。ここには「御幸の間」が残っているんです。
室町時代に建立され、重要文化財に指定されてる書院は、銀閣寺の東求堂(国宝)「同仁斎」とともに、簡素な初期書院造の貴重な遺構として知られ、後奈良天皇が行幸されたことから「御幸の間」と呼ばれています。
後奈良天皇が度々行幸されたらしく、豪華な「御幸の間」は、見応えがありました。しかし、前途したとおり、色紙サイズの「撮影禁止」の張り紙が、3ケ所も貼ってあって・・・せっかくの「御幸の間」が泣いてました。また、小さいながらも、ここの庭も良かったです。
室町時代に子建西堂和尚(是庵)が作庭したと伝わる書院前庭(史跡・名勝)は、10坪ほどの極めて小さな庭内に枯滝と蓬莱山水を兼ねた石組みを配した枯山水庭園でした。
実は、ポストカードを買いましたが、ここでアップするのはやめました。自分の目で見て確かめるのが、一番良いかと・・・そう思ったからです。
御幸の間は、2度見に行きました。閉店


唐門から出ると、帰りは山門から出ていくようにコース設定されてました。先ずは中門から出て行きます。
中門を出ると、正面に庫裏があって、その奥に方丈が見えています。その庫裏からお坊さんが出て来られ・・・。
何で出て来られたのか・・・直ぐに分かりました。私は、山門から出て行きます。重厚な門ですし、本来ならここを出入りするのでしょう。
私が出て、写真を撮り終えると、先程のお坊さんが、この門を閉められました。まだ16時過ぎです。思わず「早っ」とつぶやいたほどです。
ここは、まだ空いてました。この時、16時3分でしたが、妙心寺では16時に閉められるようです。妙心寺入口の総門も閉まってたからです。
久々の外出でしたが、駆け足の訪問でした。当分は母の介護で外出は控えなくてはなりませんが仕方がありません。今日は、「御幸の間」の余韻に浸りながら帰路につきました。
【妙心寺塔頭 慶雲院 御幸の間】