泉涌寺塔頭 来迎院 含翠庭へ
1月23日(土)は大寒波がやって来た日でしたが、泉涌寺の七福神巡りをし無事終えることができました。その時、来迎院も巡りましたが、残念ながら庭園に行くことは叶いませんでした。その時「必ず再訪します」と宣言しましたが、その通り再びやって来ました。
即宗院を14時8分に出ましたが、ここに着いたのは14時35分。近道を通りましたが、やっぱり坂道はきつく疲れました。
ただ、1月23日の泉涌寺七福神巡りで、唯一地理がうろ覚えなのが、来迎院でした。とりあえず、今熊野観音寺の入口までは来ました。そしてここから下ります。
ここからが、不案内・・・まっすぐ行けば今熊野観音寺ですが、その奥にあったのか、橋を渡る手前を入るのか・・・迷いましたが、思い切って、横道に入りました。
疲れた体に、間違いは許されませんが・・・ありました。あの懐かしい山門が見えました。これで案内です。
山門を入って、真っ直ぐ行けば前回と同じです。今度は、入ると左手に進みます。
この突き当たりが含翠庭(がんすいてい)の拝観入口です。着くと、先ず呼び鈴を押します。そしたら中から出て来られ、拝観料300円を納めます。
拝観料を納めると、由緒書きをいただき中に入ります。竹の扉を押すと庭園内に入っていきます。もちろん誰もいません。
入ると先ず目にするのが客殿でしょう。そして奥に含翠軒(がんすいけん)が見えています。
この客殿にボタンがあって、それを押すと解説が延々と流れます。これは良かったですね。ガイドさんから話を聞いてるようでした。
ここの目的は、大石内蔵助が建立したと伝わる茶室「含翠軒」を見ることです。
少し見にくいですが、ここの扁額「含翠」は大石内蔵助の筆によるものとか。ここまで来たら、内部も見たいでしょう。躙口が開きました。
内部には上がれませんが、これだけでも満足です。ここで赤穂浪士達と密談をしてかと思うと、ワクワクします。歴史って面白い。
密会・密談を重ねて、仇討ちの秘策を練ったのでしょうか今は、泉涌寺の総門まで住宅街が広がっていますが、当時は辺鄙な所だったのでしょう。ここまでやって来て良かったです。
1701年(元禄14年)に赤穂を出て浪人となった大石内蔵助は、当時泉涌寺長老で来迎院住職であった卓厳韶興宗師を頼り、山科に居を構え来迎院の檀家となりました。大石内蔵助は書院を再建したり茶室「含翠軒」を建立したりして、茶を嗜むと共に仇討ちの秘策を練り同士と密会したといいます。
茶室の前には、お決まりの蹲踞も。苔生して・・・「伽藍石の蹲踞」と書いてありました。
ここより奥には心字池があります
心字池は、禅宗寺院の庭園では、よくありますね。文字通り「心」の形に池が造られてる。
ここの庭園は、小さいですが、一周できるようになっています。せっかく来たので散策していると、八面佛石幢を見つけました。
よくよく見ると、仏様が彫られてるんですよね。よくよく見ないと分からない。足利時代と書いてありましが、室町時代のことでしょう。
小さい庭園ですので、何周して散策しました。大石内蔵助も、この庭園をどのような目で眺めていたのでしょうか。
ここには10分ぐらい居ましたが、庭園を出ました。前回訪問した、本堂が手前に、その奥に広幅殿荒神堂が見えています。
今日は本堂や布袋尊にはお参りには行きませんでした。今日は境内には一人もお参りに来られてないので、全景が分かって貰えたでしょう。
再び山門から外に出ます。ここから右へ行けば、今熊野観音寺に出ますし、左に行けば、泉涌寺でますが・・・。
私は、前回素通りした寺院を訪問することにしました。
【泉涌寺塔頭 来迎院 含翠庭】
即宗院を14時8分に出ましたが、ここに着いたのは14時35分。近道を通りましたが、やっぱり坂道はきつく疲れました。
ただ、1月23日の泉涌寺七福神巡りで、唯一地理がうろ覚えなのが、来迎院でした。とりあえず、今熊野観音寺の入口までは来ました。そしてここから下ります。
ここからが、不案内・・・まっすぐ行けば今熊野観音寺ですが、その奥にあったのか、橋を渡る手前を入るのか・・・迷いましたが、思い切って、横道に入りました。
疲れた体に、間違いは許されませんが・・・ありました。あの懐かしい山門が見えました。これで案内です。
山門を入って、真っ直ぐ行けば前回と同じです。今度は、入ると左手に進みます。
この突き当たりが含翠庭(がんすいてい)の拝観入口です。着くと、先ず呼び鈴を押します。そしたら中から出て来られ、拝観料300円を納めます。
拝観料を納めると、由緒書きをいただき中に入ります。竹の扉を押すと庭園内に入っていきます。もちろん誰もいません。
入ると先ず目にするのが客殿でしょう。そして奥に含翠軒(がんすいけん)が見えています。
この客殿にボタンがあって、それを押すと解説が延々と流れます。これは良かったですね。ガイドさんから話を聞いてるようでした。
ここの目的は、大石内蔵助が建立したと伝わる茶室「含翠軒」を見ることです。
少し見にくいですが、ここの扁額「含翠」は大石内蔵助の筆によるものとか。ここまで来たら、内部も見たいでしょう。躙口が開きました。
内部には上がれませんが、これだけでも満足です。ここで赤穂浪士達と密談をしてかと思うと、ワクワクします。歴史って面白い。
密会・密談を重ねて、仇討ちの秘策を練ったのでしょうか今は、泉涌寺の総門まで住宅街が広がっていますが、当時は辺鄙な所だったのでしょう。ここまでやって来て良かったです。
1701年(元禄14年)に赤穂を出て浪人となった大石内蔵助は、当時泉涌寺長老で来迎院住職であった卓厳韶興宗師を頼り、山科に居を構え来迎院の檀家となりました。大石内蔵助は書院を再建したり茶室「含翠軒」を建立したりして、茶を嗜むと共に仇討ちの秘策を練り同士と密会したといいます。
茶室の前には、お決まりの蹲踞も。苔生して・・・「伽藍石の蹲踞」と書いてありました。
ここより奥には心字池があります
心字池は、禅宗寺院の庭園では、よくありますね。文字通り「心」の形に池が造られてる。
ここの庭園は、小さいですが、一周できるようになっています。せっかく来たので散策していると、八面佛石幢を見つけました。
よくよく見ると、仏様が彫られてるんですよね。よくよく見ないと分からない。足利時代と書いてありましが、室町時代のことでしょう。
小さい庭園ですので、何周して散策しました。大石内蔵助も、この庭園をどのような目で眺めていたのでしょうか。
ここには10分ぐらい居ましたが、庭園を出ました。前回訪問した、本堂が手前に、その奥に広幅殿荒神堂が見えています。
今日は本堂や布袋尊にはお参りには行きませんでした。今日は境内には一人もお参りに来られてないので、全景が分かって貰えたでしょう。
再び山門から外に出ます。ここから右へ行けば、今熊野観音寺に出ますし、左に行けば、泉涌寺でますが・・・。
私は、前回素通りした寺院を訪問することにしました。
【泉涌寺塔頭 来迎院 含翠庭】