京都十六社朱印巡り 熊野神社へ
2月11日(祝)は朝から絶好の天気に恵まれました。この日は、前から計画していた、京都十六社朱印巡りをする予定でしたので、天気が良いのは幸い。今日で満願を達成すべく家を出ました。
そして事前に購入してあった「市バス・京都バス一日乗車券」(500円)をフルに使う予定で、先ずは丸太町東大路で下車し、京都十六社朱印巡り 熊野神社に行きました。
丸太町通りの東大路西北角にあるので、以前から場所は知ってましたが、私は初訪問です。着いたのが8時50分を過ぎてましたが、朱印は9時からと書いてあります。やっぱり休日で朝が早いバスは遅れないですね。
今朝は冷え込んで寒かったけど、10分待つことにしました。境内は見た所狭いです。写真を全て撮っても5分もかからないぐらいです。既に開門されていますが、門には八咫烏が。
余談ですが、後程行く社務所にはサッカーの御守りもありましたし、朱印には八咫烏がいます。
境内入った右手には、手水舎がありました。奥に見えているのが、東大路通りで、交通量は多いのに、ここは静かです。
鳥居を入ったら目の前が本殿です。先ずはお参りしました。
9時前だったこともあって、神職さんが本殿廻りを清掃されてました。本当は次の予定があるので、朱印を先にしてほしかったんですが・・・。
ここの由緒書きは、2月3日に訪問した熊野神社衣笠分社でいたた゜いてのした。それによると、下鴨神社から移築された代表的な流造の社殿だそうです。
先程の手水舎の奥に銅像があって、木札を読む前は、八橋検校だと思いました。以前イベントで『京土産の定番!八ッ橋のすべて』を巡ったからです。
この近辺には、八ッ橋の名店が数多くあります。その京土産の定番である「八ッ橋発祥之地」が聖護院で、銅像は、西尾為治と書いてありました。西尾八ッ橋・・・有名ですよね。
まだ9時にならないので、次ぎに境内西側にある社をお参りします。東から西へ、境内の広さはこんなもんです。
先ず南側から「春日大神、須賀大神、神倉神」と扁額に書いてあります。小さいながらも狛犬も居ました。
次ぎに右隣に移動です。ここの扁額には「金刀比羅大神、稲荷大神」と書いてありました。
これでやっと9時になりました。社務所に行くとまだ、中には人が居ません。そこで呼び鈴を押しました。
そしたら写真右端の階段を降りて来られました。そこで京都十六社の朱印とMy朱印帳の御朱印をいただきました。由緒書きは、先般の熊野神社衣笠分社と同じ・・・やっぱり・・・これで13箇所目。マジック3となりました。
京都三熊野(新熊野神社 熊野神社 熊野若王子神社)の一つ。約1200年前、811年(弘仁2年)に、修験道の始祖・役小角(えんのおづぬ)の十世僧・日圓上人(にちえんしょうにん)が国を護るために紀州の熊野大神を勧請し、祀ったのが始まりです。1090年(寛治4年)に白河上皇の勅願で創立された聖護院は、長らく熊野神社を守護神として崇敬し、別当職を置いて管理されました。社殿は応仁の乱で焼失後、たびたび大規模な修造工事が繰り返され、現在の本殿は、1835年(天保6年)に下鴨神社から移築された代表的な流造の社殿です。祭神は、伊弉冉尊(イザナミノミコト)、伊弉弉諾尊(イザナギノミコト)と天照大神(アマテラスオオミノカミ)、速玉男尊(ハヤタマノヲノミコト)、事解男尊(コトサカノヲノミコト)の五柱。縁結びや安産などの御利益で知られています。
予定では、ここで20分時間を取ってました。ただ前途のとおり5分もあれば充分な広さでした。そこで次の目的にバスで行く予定が、時刻表を見ると、やっぱり事前に調べてた時刻にしかバスはありません。そこで歩いて行くことにしました。丸太町通りを東に歩いて行きます。
なお1912年(大正元年)の市電丸太町線の開通、1926年(昭和元年)の東大路通りの拡幅などにより、社域が縮小して、現在の社域となったそうです。
【熊野神社 本殿】
そして事前に購入してあった「市バス・京都バス一日乗車券」(500円)をフルに使う予定で、先ずは丸太町東大路で下車し、京都十六社朱印巡り 熊野神社に行きました。
丸太町通りの東大路西北角にあるので、以前から場所は知ってましたが、私は初訪問です。着いたのが8時50分を過ぎてましたが、朱印は9時からと書いてあります。やっぱり休日で朝が早いバスは遅れないですね。
今朝は冷え込んで寒かったけど、10分待つことにしました。境内は見た所狭いです。写真を全て撮っても5分もかからないぐらいです。既に開門されていますが、門には八咫烏が。
余談ですが、後程行く社務所にはサッカーの御守りもありましたし、朱印には八咫烏がいます。
境内入った右手には、手水舎がありました。奥に見えているのが、東大路通りで、交通量は多いのに、ここは静かです。
鳥居を入ったら目の前が本殿です。先ずはお参りしました。
9時前だったこともあって、神職さんが本殿廻りを清掃されてました。本当は次の予定があるので、朱印を先にしてほしかったんですが・・・。
ここの由緒書きは、2月3日に訪問した熊野神社衣笠分社でいたた゜いてのした。それによると、下鴨神社から移築された代表的な流造の社殿だそうです。
先程の手水舎の奥に銅像があって、木札を読む前は、八橋検校だと思いました。以前イベントで『京土産の定番!八ッ橋のすべて』を巡ったからです。
この近辺には、八ッ橋の名店が数多くあります。その京土産の定番である「八ッ橋発祥之地」が聖護院で、銅像は、西尾為治と書いてありました。西尾八ッ橋・・・有名ですよね。
まだ9時にならないので、次ぎに境内西側にある社をお参りします。東から西へ、境内の広さはこんなもんです。
先ず南側から「春日大神、須賀大神、神倉神」と扁額に書いてあります。小さいながらも狛犬も居ました。
次ぎに右隣に移動です。ここの扁額には「金刀比羅大神、稲荷大神」と書いてありました。
これでやっと9時になりました。社務所に行くとまだ、中には人が居ません。そこで呼び鈴を押しました。
そしたら写真右端の階段を降りて来られました。そこで京都十六社の朱印とMy朱印帳の御朱印をいただきました。由緒書きは、先般の熊野神社衣笠分社と同じ・・・やっぱり・・・これで13箇所目。マジック3となりました。
京都三熊野(新熊野神社 熊野神社 熊野若王子神社)の一つ。約1200年前、811年(弘仁2年)に、修験道の始祖・役小角(えんのおづぬ)の十世僧・日圓上人(にちえんしょうにん)が国を護るために紀州の熊野大神を勧請し、祀ったのが始まりです。1090年(寛治4年)に白河上皇の勅願で創立された聖護院は、長らく熊野神社を守護神として崇敬し、別当職を置いて管理されました。社殿は応仁の乱で焼失後、たびたび大規模な修造工事が繰り返され、現在の本殿は、1835年(天保6年)に下鴨神社から移築された代表的な流造の社殿です。祭神は、伊弉冉尊(イザナミノミコト)、伊弉弉諾尊(イザナギノミコト)と天照大神(アマテラスオオミノカミ)、速玉男尊(ハヤタマノヲノミコト)、事解男尊(コトサカノヲノミコト)の五柱。縁結びや安産などの御利益で知られています。
予定では、ここで20分時間を取ってました。ただ前途のとおり5分もあれば充分な広さでした。そこで次の目的にバスで行く予定が、時刻表を見ると、やっぱり事前に調べてた時刻にしかバスはありません。そこで歩いて行くことにしました。丸太町通りを東に歩いて行きます。
なお1912年(大正元年)の市電丸太町線の開通、1926年(昭和元年)の東大路通りの拡幅などにより、社域が縮小して、現在の社域となったそうです。
【熊野神社 本殿】