織田信長・信忠を祀る建勲神社へ
釘抜地蔵を出て千本通りを北上します。そして寺之内通りに出るので東へ進み、最初の道をひたすら北上します。釘抜地蔵の表門から歩くこと12分で、遠くに船岡山と石段が見えてきました。
ここは南参道の入口です。ここから上がると石段は、きついです。以前、東参道は西陣の銭湯巡りで通っています。
船岡山の上にあるので、階段は急です。実際には嵐電「北野白梅町」駅から歩いて(約2㎞)来たようなもので、堪えたとこで登り切ると、「船岡山」の石標がありました。
そしたら、また急な石段が待ってました。疲れ切った体には壁に見えた・・・そんなことは無いです。それより境内は若い声が聞こえてきました。
汗だくで登り切るとやっと境内に入りました。ここは建勲神社(たけいさおじんじゃ)が正式名称ですが、「けんくんじんじゃ」で、広く呼ばれています。
南参道の階段を上がった左手に手水舎。参拝に訪れていた若い女性の方達も、ちゃんと清められてます。偉い。
階段を少しだけ上がると正面に拝殿があって、そこに賽銭箱も置いてあるので、皆さんそこでお参りされてました。
ここでお参りするのは違和感があって、鈴も無いし・・・それで本殿の前に進むと・・・。
正面に神門。奥に本殿がありますが、これ以上は進めなくなっています。ここにはお賽銭箱や鈴も無かったので、皆さん拝殿前でお参りされてたんですね。
戦国歴史ファンじゃなくても知られている織田信長。戦国時代の風雲児・織田信長がここの御祭神です。そして後継者だった、嫡男の織田信忠が配祀されています。
お参りのあとは、社務所で朱印です。『京都刀剣御朱印めぐり』の一つである建勲神社なんで、あるのは分かったました。そう言えば、ここは宗三左文字(重要文化財)の名刀を所有しているんですね。
朱印のついでに由緒書ももらいましたが、ここは100円でした。刀剣の他にも、戦国歴史ファンが喜びそうな物も所有していますが、非公開が残念です。宝物館造ればいいのに・・・。
織田信長が本能寺の変で、斃れたあと豊臣秀吉は、船岡山に寺を建立し信長像を安置しようとして正親町天皇より天正寺の寺号を賜りました。しかし寺の竣工は中途に終わり、その後船岡山は織田信長の霊地として大切に保護され明治維新に至りました。1869年(明治2年)に明治天皇の宣下により、建勲神社が創建されました。
社務所から見た拝殿や本殿を見ています。この建勲神社は、初めて訪れました。戦国歴史ファンにしては遅かったなぁ・・・が本音です。
帰りは、東参道から降りようと決めてました。北大路通りからバスに乗るためですが、西参道もありましたが、やっぱり東でしょう。大鳥居がありますし。
「人間50年」・・・織田信長が「桶狭間の戦い」に出陣するとき舞ったといわれる「敦盛」の一節を刻んだ歌碑です。歴史に興味の無い、女房も、これは知ってました。
南参道から登りましたが、この東参道の階段も・・・しんどそう・・・です。降りてから気が付いたんですが、眺望は・・・良かったのかなぁ・・・展望台・・・なかったし・・・。
いったん途中まで下ったんですが、末社の義照稲荷神社があったので、再び登るハメに。
御祭神は、宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、国床立大神(くにとこたちのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の三柱が祀られています。
その西側の奥にあるのが、稲荷命婦元宮です。
伏見稲荷大社命婦社の親神「船岡山の霊狐(れいこ)」が祀られています。しかし、ここまで来る人は皆無でしたね。
最近は、末社まで散策してしまいますね。そして降りる途中にあったのが、旧本殿跡に建つ大きな石柱「大平和敬神(だいへへいわけいしん)」神石です。
帰って、由緒書きを見て知りました。ここに旧本殿があったことも。わざわざ下から登るほどでもなかったです。
ここが東参道の出発点です。東と南・・・どちらが楽か・・・どちらもしんどいですが、船岡山自体が標高低いので・・・。
こちらが、義照稲荷神社の入口です。建勲神社へは矢印が出ているので、間違うことはないでしょう。
本当は、こちらをトップ画面にしたかったんですが、最後に来たから仕方ないです。木造の明神鳥居で、高さは7㍍もあります。
ここは以前、西陣の銭湯巡りで、案内人より説明を受けました。「興味があったら訪れて見て下さい」と言われましたが、その通りやって来ました。
この日は、姉夫妻とお昼を予約してました。いったん家に帰るための時間が必要で、ここから「大徳寺」バス停から市バスに乗って円町でJRに乗換、帰路につきました。予定してた時間より遅れましたが、このあとのお昼には間に合いました。
【建勲神社 拝殿】
ここは南参道の入口です。ここから上がると石段は、きついです。以前、東参道は西陣の銭湯巡りで通っています。
船岡山の上にあるので、階段は急です。実際には嵐電「北野白梅町」駅から歩いて(約2㎞)来たようなもので、堪えたとこで登り切ると、「船岡山」の石標がありました。
そしたら、また急な石段が待ってました。疲れ切った体には壁に見えた・・・そんなことは無いです。それより境内は若い声が聞こえてきました。
汗だくで登り切るとやっと境内に入りました。ここは建勲神社(たけいさおじんじゃ)が正式名称ですが、「けんくんじんじゃ」で、広く呼ばれています。
南参道の階段を上がった左手に手水舎。参拝に訪れていた若い女性の方達も、ちゃんと清められてます。偉い。
階段を少しだけ上がると正面に拝殿があって、そこに賽銭箱も置いてあるので、皆さんそこでお参りされてました。
ここでお参りするのは違和感があって、鈴も無いし・・・それで本殿の前に進むと・・・。
正面に神門。奥に本殿がありますが、これ以上は進めなくなっています。ここにはお賽銭箱や鈴も無かったので、皆さん拝殿前でお参りされてたんですね。
戦国歴史ファンじゃなくても知られている織田信長。戦国時代の風雲児・織田信長がここの御祭神です。そして後継者だった、嫡男の織田信忠が配祀されています。
お参りのあとは、社務所で朱印です。『京都刀剣御朱印めぐり』の一つである建勲神社なんで、あるのは分かったました。そう言えば、ここは宗三左文字(重要文化財)の名刀を所有しているんですね。
朱印のついでに由緒書ももらいましたが、ここは100円でした。刀剣の他にも、戦国歴史ファンが喜びそうな物も所有していますが、非公開が残念です。宝物館造ればいいのに・・・。
織田信長が本能寺の変で、斃れたあと豊臣秀吉は、船岡山に寺を建立し信長像を安置しようとして正親町天皇より天正寺の寺号を賜りました。しかし寺の竣工は中途に終わり、その後船岡山は織田信長の霊地として大切に保護され明治維新に至りました。1869年(明治2年)に明治天皇の宣下により、建勲神社が創建されました。
社務所から見た拝殿や本殿を見ています。この建勲神社は、初めて訪れました。戦国歴史ファンにしては遅かったなぁ・・・が本音です。
帰りは、東参道から降りようと決めてました。北大路通りからバスに乗るためですが、西参道もありましたが、やっぱり東でしょう。大鳥居がありますし。
「人間50年」・・・織田信長が「桶狭間の戦い」に出陣するとき舞ったといわれる「敦盛」の一節を刻んだ歌碑です。歴史に興味の無い、女房も、これは知ってました。
南参道から登りましたが、この東参道の階段も・・・しんどそう・・・です。降りてから気が付いたんですが、眺望は・・・良かったのかなぁ・・・展望台・・・なかったし・・・。
いったん途中まで下ったんですが、末社の義照稲荷神社があったので、再び登るハメに。
御祭神は、宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、国床立大神(くにとこたちのおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の三柱が祀られています。
その西側の奥にあるのが、稲荷命婦元宮です。
伏見稲荷大社命婦社の親神「船岡山の霊狐(れいこ)」が祀られています。しかし、ここまで来る人は皆無でしたね。
最近は、末社まで散策してしまいますね。そして降りる途中にあったのが、旧本殿跡に建つ大きな石柱「大平和敬神(だいへへいわけいしん)」神石です。
帰って、由緒書きを見て知りました。ここに旧本殿があったことも。わざわざ下から登るほどでもなかったです。
ここが東参道の出発点です。東と南・・・どちらが楽か・・・どちらもしんどいですが、船岡山自体が標高低いので・・・。
こちらが、義照稲荷神社の入口です。建勲神社へは矢印が出ているので、間違うことはないでしょう。
本当は、こちらをトップ画面にしたかったんですが、最後に来たから仕方ないです。木造の明神鳥居で、高さは7㍍もあります。
ここは以前、西陣の銭湯巡りで、案内人より説明を受けました。「興味があったら訪れて見て下さい」と言われましたが、その通りやって来ました。
この日は、姉夫妻とお昼を予約してました。いったん家に帰るための時間が必要で、ここから「大徳寺」バス停から市バスに乗って円町でJRに乗換、帰路につきました。予定してた時間より遅れましたが、このあとのお昼には間に合いました。
【建勲神社 拝殿】