坂本龍馬と妻のおりょうの逸話が残る武信稲荷神社へ

8月12日(金)は、手術した左肩のリハビリで通院です。いつもならリハビリが終われば会社に向かいますが、このところ連日猛暑日が続いていたこともあって、夏休みをいただきました

この日の最高気温予想は、37℃。聞くだけで目眩がしそうですが、折角の休みが病院だけでは、もったいないので、涼しい(朝でも暑いですが・・・)午前中に何カ所か神社を回ることにしました。

朝一番に病院に行き、左肩を思い切りいじめてもらいました。いつもリハビリが終わって3日程度は、痛みが続きますが、それもこれも回復の訓練です。入院中に比べると格段に良くなってきてるので、もうずく治療も終わるでしょう。そして病院を9時40分に出ることができたので、計画どおり最初の神社に向かいました。

9時50分に到着したのは武信稲荷神社(たけのぶいなりじんじゃ)です。ここは坂本龍馬と妻のおりょうの逸話が残されてることで知られています。

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ここまで車で来ましたが、三条通り商店街が通りました。14時から歩行者専用道路になりますが、それでも結構多くの人が行き交います。それに、神社の駐車場が・・・1台分ありますが・・・超狭いです。

この神社を知ったのは、2015年5月4日放送の関西テレビ「ゆうがたりLIVEワンダー」の「武井壮のチャリぶら」というコーナーをたまたま見たからです。武井壮さんが、この神社を訪れて坂本龍馬ゆかりの神社であることを知り、いつかは行ってみようと思ったら・・・1年先になってました

鳥居を入ってみると、境内には誰も居ません。後でお一人来られましたが、坂本龍馬ゆかりの神社と言っても、そんなに知られてないですね。入ると先ず目にするのは拝殿です。

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その拝殿の右手に手水舎があって、いつものように手と口を清めると、女房に「順番が違うよ」と言われたんですが・・・。最近の神社には、作法が書いてありますから間違えないように

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それより、この手水舎の横に看板があって「一寸法師と武信神社」と書いてありました。一寸法師・・・最近では、桃太郎、浦島太郎、金太郎ら三太郎と、かぐや姫、乙姫、鬼、一寸法師が繰り広げるauのCMが話題になっていますよね

武士になるため、お椀の船で京へやって来た一寸法師が住み込みで奉仕するのが「三条の大臣殿」の屋敷でした。三条の大臣殿とは西三条大臣と言われ、武信神社を創祀した藤原良相(ふじわらのよしすけ)のことで、武信稲荷神社のこの場所は藤原大臣屋敷、藤原氏の学問所のあったところで、一寸法師が暮らした物語の舞台となった場所となっています。

その手水舎の近くに宮司さんがおられたので、朱印を聞いてみたら「あります」と言われ社務所に入っていかれたので、順番は逆ですが先に朱印をいただきました。そして由緒書きも

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まだ、10時にはなっていなかったと思いますが、暑い暑い・・・書いていただいてる間に・・・もう汗だく・・・です。

境内は、テレビで見たイメージと違って、そんなに広くありません。四条大宮からほど近く、三条通り商店街もすぐそこにありますが、ここはセミの鳴き声しか聞こえないほど静かです。そして本殿にお参りです。

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御祭神は、宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さだひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)です。由緒は、先程の一寸法師で藤原良相が創祀したとか・・・もらった由緒書きを読むと・・・。

859年(貞観元年)西三条大臣と言われた右大臣左近衛大将・藤原良相によって建てられた医療施設である延命院と勧学院の守護社として創祀されましたが、後世、藤原武信(ふじわらのたけのぶ)がこの社を厚く信仰し、御神威の発揚につとめたことから武信神社と称されるようになりました。後に延命院と勧学院は失われますが、神社だけが残り、現在に至っています。

参拝したら、ここに来た最大の目的である「坂本龍馬と妻のおりょうの逸話」を探します。大体は予習してきたので、先ずは大木である榎を探すと・・・立派な龍の彫刻がありました。

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樹齢850年、弁財天が宿るご神木でしたが、2013年(平成25年)8月に折れて落下した大枝をチェンソーアート世界チャンピオンの城所ケイジ氏によって、龍の姿に生まれ変わりました。

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平重盛(清盛の嫡男)が安芸国嚴島神社から苗木移し植えたと伝わってる御神木。1985年(昭和60年)6月1日に京都市指定天然記念物に指定されました。

この大木が坂本龍馬ゆかりの神社と言われる由縁なんです。私も前途した武井壮のチャリぶら」というコーナーを見て知った次第です。

江戸時代には武信稲荷神社の南には幕府直轄の「六角獄舎」という牢獄があり幕末、勤王の志士が多数収容されてました。その中に坂本龍馬の妻おりょうの父である楢崎将作が勤王家の医師であったため捕らえられていました。龍馬とおりょうは共に何度か訪れますが、当時女性が牢獄へ面会できることもなく龍馬自身も狙われる身であり面会できませんでした。そのため、この神社の大木の上から様子を探ったと言います。その後、龍馬は命を狙われ追われる身となり姿を隠します。また、おりょうは龍馬の身を安じ過ごすことになりました。そんな時、おりょうは龍馬と何度も訪れた武信稲荷神社に来て見ると、榎の大木に龍馬独特の字で『龍』の文字が掘ってありました。これは、坂本龍馬のメッセージで「自分は今も生きて、そして京都にいる。」伝言で、後に二人は再会を果たしました。

その榎の横には、境内社の宮姫社(弁財天)がありました。

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御神木の榎に宿る弁財天で、京都最大最古の霊樹と言われいます。榎は『えんの木』とよばれ縁結びの神としても知られています。

写真(右)の石標を読むと、能勢妙見山常𠮷大明神とあります。また、写真(左)は、釘抜大明神(釘抜地蔵)です。

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今年の3月5日(土)に訪れた石像寺と同じ釘抜地蔵ですよね。実は、この時は気が付かなかったんです。帰って写真を見て確認しました。母も退院はしましたが、まだ本調子ではないので、撫でといたら良かったと・・・。

ここ武信稲理神社には、境内社が数多くあります。写真(上)は、左から白清大明神七石大明神太郎松大明神。写真(下)は、その左隣にあった伏見遥拝所です。

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こちらは、社務所前にあった白蛇弁財天です。

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古くからこの土地におられた白蛇のお姿の弁天さんで、御利益は、企業商売の繁栄、技術技芸の上達に大きなお力を授けられるそうです。

こちらは金毘羅社天満宮のようてす。それにしても、ここは境内社が多です

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最後に、起上大黒社(起上大明神)です。これだけ多いと、今では何処に何があったのか、覚えてないのです

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境内をくまなく見て回ったあと、西鳥居から出てみました。こちらの道路は、車が通れないほど狭いですし、周りは住宅街です。

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次ぎに六角通りに出て南鳥居まで来ました。どうやら入口は三箇所のようで、ここから東鳥居まで戻って駐車場に置いてある車に乗り込みました。

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車の中は、猛烈に暑かったけど、スマホでリオ五輪の競泳の結果を見ましたが、まだでした。萩野公介選手の200㍍個人メドレーと金藤理絵選手の200㍍平泳ぎの決勝が、まもなくある筈なんですが・・・。こちらも気になりますが、次へと向かいました。

【武信稲荷神社 本殿】



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