元祇園 梛神社(梛ノ宮神社)・隼神社へ

二条城の駐車場を出て、次ぎに所用のある四条大宮に行きました。ここは私が生まれ育った所ですので、車を某所に止め、所用を済ませました。そのあと、少しだけ寄り道して、元祇園さんに行くことにしました。はっきり言って朱印狙いです

元祇園さんは、通称と言うより小さい頃から、そう呼んでたので。正式には元祇園 梛神社(梛ノ宮神社)・隼神社と言います。

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坊城通りから撮りました。ここをずっと南に下がると、忠臣蔵で有名な壬生寺や芹沢鴨暗殺の地・八木邸など新撰組ゆかり地が点在しています。

鳥居をくぐると東向きに、社殿が2つ並んで建っています。後で述べますが、ここでは2柱の神様が祀られています。

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坊城通りの鳥居を入って右手に手水舎があって、その奥には御供石(ごくいし)があるんですが・・(下に拡大した写真を載せます)。

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祇園祭の山鉾巡行の時、この石の上に神饌(しんせん)を置き神に供えたもので、元は下京区御供石町(万寿寺通り烏丸西入る)あったのが、1932年(昭和7年)に梛神社境内に移されたもの。

先に正面左側にある梛神社から参拝です。

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御祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主祭神に、宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、誉田別尊(ほんだわけのみこと)などを配祀。

869年(貞観11年)京の都に疫病が流行したとき、牛頭天王(ごずてんのう・素戔嗚尊)の神霊を播磨国(現在の兵庫県姫路市)から勧請して鎮疫祭を行った。この時その神輿を梛(なぎ)の林中に置いて祀ったことが、この神社の始まりです。後に神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀(せんし)したとき当地まの住人が花を飾り、風流傘を立て、鉾を振り音楽を奏でて神輿を八坂に送ったことが、後の祇園祭の起源とされています。

梛神社の前に「元祇園」とつくのが、後でいただいた由緒書きを読んで分かりました。今でも5月の第三日曜日に行われる氏神祭は、今でよく覚えていますし、子供の頃は四条通りに露店が建ち並ぶのが楽しみでした。

次ぎに、右隣の隼神社です。

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御祭神は、建甕槌神(たけみかづちのかみ)を主祭神に、経津主神(ふつぬしのかみ)を配祀。

「延喜式 神明帳」にも大社でしたが、1918年(大正7年)に蛸薬師坊城から現在地移され鎮座。隼神社とともに厄除け、疫病払いの神様として信仰を集めています。

現在もそうですが私が子供の頃、既に住宅街でした。創建当時に梛ノ森だった面影は、まったくありません。明治維新の頃は、田んぼの中の一つ小祠にすぎませんでしたが、1874年(明治7年)と1929年(昭和4年)の復興を経て現在に至っています。

次ぎに社務所で朱印です。坊城側の鳥居横には見本の朱印があったので、ただ留守かどうかですが・・・。

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外からお呼びしたら神職さんが出てこられました。朱印をお願いすると「当社は2柱の神様をお祀りしてるので、どちらにされますか」と聞かれました。どうやら梛神社と隼神社ともにあるようです。

私にとっては、梛神社にゆかりがあるんですが、両方ともいただくことにしました。「遠くから来られたんですか」「以前、壬生○○町に住んでて、ここでお宮参りしたんです」と答えると、驚かれてました

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社務所前から境内を見ています。四条坊城の西南角にありますが、最近は訪れる機会は滅多にありません。やっぱりここに来るといろいろ思い出して懐かしいですね。

最後に境内摂社を見て行きます。最初は稲荷社から。御祭神は上稲荷大神(かみかわいなりおおかみ)のようです。

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最後が、境内摂社の田中神社で、御祭神は地主神(じぬしのかみ)のようです。

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田中神社が境内の北側にあったので、そのまま帰りは四条通り側から出ました。坊城側より大きい鳥居があるますが、ここの前が「壬生寺道」バス停のため、写真は撮りにくいです

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今日は、病院の診察あと、いろいろ回りましたが、この暑さのため予定していたどおりには行きませんでした。しかし、まぁ充分でしょう。ここから駐車している所まで戻って、やっと帰路に着きました。明日まで夏休みのため明日も頑張って回ります

【元祇園 梛神社(梛ノ宮神社)・隼神社】



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