第41回 京の夏の旅 文化財特別公開 ノートルダム女学院中学高等学校 和中庵へ
8月23日(火)は、私にとって最後の夏休み。それで以前から計画していた、第41回 京の夏の旅 文化財特別公開 ノートルダム女学院中学高等学校 和中庵に行ってきました。
公開期間が8月1日(月)~23日(火)までの、夏休み期間しかなかったので、涼しくなってから行く訳にいかなかったんです。病気により入院したため、春の観光シーズンは坊に降りましたが、一般の交通機関を使っての拝観は、久し振りです。このところの猛暑で、熱中症が恐かったんですが、多分・・・大丈夫だろうとの考えでした。
先ず、京都市営バスで真如堂前で降ります。そこから約10分かけて山側に上がっていくと、哲学の道や霊鑑寺の前に出ると、そこにはガードマンさんが道案内されてました。私は地図を徹底的に覚えていくので、無論道案内は不要でしたが・・・。その霊鑑寺を南に下がり、さらに左折すると正面にノートルダム教育修道女会のユージニア館が見えてきました。
拝観開始は、10時からとなっていましたが、少し過ぎて到着しました。バスが10分ほど遅れたのが要因ですが、これも想定内です。
ユージニア館を入ったところに拝観受付があって、そこで600円を払って、靴を脱いで上がると・・・。
先ず、案内により礼拝堂にとおされます。驚いたことに・・・この時間でほぼ満席の状態で、後から来た人は立見に。10時5分を過ぎて、ようやくガイドさんから案内が始まりました。
ここで和中庵の歴史について5分ばかり話を聞きました。ここはノートルダム女学院中学高等学校にあるので、夏休み期間中しか公開できないは仕方ないですね。写真撮影は受付で確認し、基本何処でもOKで、生徒さんに向けての撮影だけはNGでした。
1928年(昭和3年)に建てられた「和中庵」は滋賀県近江五箇荘出身の繊維製造販売業者・藤井彦四郎(1876~1956)が贅を尽くし、粋を凝らして建てた、鹿ヶ谷の山裾の林を開拓した広大な庭園を持つ邸宅です(彦四郎自身は1948年(昭和23年)まで住まわれてました)。1949年(昭和24年)にノートルダム教育修道女会が取得。修道院として改造、利用した後、2008年(平成20年)にされました。
約8分弱の話が終わると、次ぎに和中庵に行くように案内されました。再び袋に入れた靴を取り出し、靴を履いて向かう先には・・・。
平日にもかかわらず、今日が最終日ということもあって、多くの人が来られて・・・写真・・・撮りにくい・・・。
その洋館前には土蔵があって、今は資料館として使われてるそうです。洋館の前は広い芝生の庭となっていますが、先程の案内で、ここには主屋があったみたいです。
2008年(平成20年)に修道院に居たシスターの引っ越しが完了し、ノートルダム女学院中学高等学校に移管されましたが、老朽化のため、解体が決まってたそうです。ただ関係者の尽力により、老朽の激しかった主屋は解体されましたが、洋館と奥座敷(客殿)などは、耐震工事も終わって教育施設として活用されることになりました。
先ずは手前の洋館から入ります(座敷は渡り廊下で繋がってて奥にあるそうてす)。入ると靴を脱いで袋に入れ、2階に上がるように案内されました。
1階の洋間です。殆どの方は、ここを見ずに上がられてましたが、私は出遅れたので・・・この部屋が分かりました。ただ中には入れませんでした。
そして階段を上がって2階へ上がります。大理石の重厚な階段をスリッパを履いて上がって行くと、左手にホールがあって、既に案内が始まっていました。
当時の近江商人が贅を尽くした洋館だと聞きましたが、先に進むに連れ期待で、ドキドキしてきます。
2階のホールは、1959年(昭和34年)まで礼拝堂として、その後礼拝堂は、先程説明を聞いた、ユージニア館に移ることになります。そして礼拝堂の後は修道女の図書室や勉強部屋として利用されてたようです。
ここで、約5分ぐらい説明を聞きましたが、人数が多いのと、ホールで声が籠もるので聞き取りにくかったです。やっぱり・・・出遅れが・・・響きました。
こちらは、階段を上がって最初の部屋で、暖炉がありました。この部屋の先に奥座敷と繋がっている渡り廊下があって、最後に見学します。
2階の窓から下の広場を見ています。ここにかつて、主屋がありました。今は資料館として使われてる土蔵のみ見えます。
和中庵は、山裾にそって建てられているので洋館2階から渡り廊下を通って奥座敷(客殿)の1階に出ます。その渡り廊下の天井は、船底天井になっています。
ここまではレトロ感たっぷりの洋館を楽しみましたが、次からは一転、日本建築と変わります。渡り廊下からは、洋館の外壁も見えましたが、所々修復されているのが分かります。
奥座敷(客殿)に入ると、その広さに先ずは驚きます。大変暑いので、縁側に座ってゆっくりさせてもらいました。ここでも、ガイドさんから案内がありました。
戦後、彦四郎から修道院に売却されると、この畳の部屋は板張りに改築され、豪華な欄間は取り外され、質素な容貌に変わったそうです。
最初は、畳の部屋でしたが、修道院に売却されたら、この部屋は板張りとなり、またまた、ノートルダム女学院中学高等学校に移管されたら、畳の部屋に戻されました。
その時代によって変貌した部屋を感慨深く、ガイドさんの話を聞きました。汗を拭きながら外の庭を見ると、ちょうど百日紅が綺麗さいてくれてました。
庭を見ると、ノートルダム女学院中学高等学校の校舎が見えていますが、創建当時は京都の市外地を一望できたそうです。さぞかし見晴らしが良かったんですしょう。庭には降りにれませんが、下を見ると鞍馬石や貴船石が使われてて、庭も贅沢な造りをされてました。
この庭には、自然の川が流れてて桜谷川(さくらだにがわ)と言います。そのため、ここの地名は京都市左京区鹿ヶ谷桜谷町と言うそうです。
客殿に入って、右手前に、崖に張り出すように、ここだけ板の間の部屋がありました。聞くと「花見の間」と言うそうです。崖のせり出しは、渡り廊下から見れば確認できます。
約30分の見学時間でした。洋館と和室・・・どちらが空いてるかで、結構ウロウロしました。普段、学校の授業があるので、見学できる機会は少ないでしょうし、貴重なものを見せてもらいました。
帰りは、再びユージニア館から外に出ます。出たら真っ直ぐ下らず、今度は左の道を進みノートルダム女学院の正門の方に行きます。そのためノートルダム女学院の学生さん数名とすれ違いましたが、車も通れないほどの細い道をクネクネ進むと「哲学の道」に出ました。次の目的地は、すぐそこです。
【ノートルダム女学院中学高等学校 和中庵】
公開期間が8月1日(月)~23日(火)までの、夏休み期間しかなかったので、涼しくなってから行く訳にいかなかったんです。病気により入院したため、春の観光シーズンは坊に降りましたが、一般の交通機関を使っての拝観は、久し振りです。このところの猛暑で、熱中症が恐かったんですが、多分・・・大丈夫だろうとの考えでした。
先ず、京都市営バスで真如堂前で降ります。そこから約10分かけて山側に上がっていくと、哲学の道や霊鑑寺の前に出ると、そこにはガードマンさんが道案内されてました。私は地図を徹底的に覚えていくので、無論道案内は不要でしたが・・・。その霊鑑寺を南に下がり、さらに左折すると正面にノートルダム教育修道女会のユージニア館が見えてきました。
拝観開始は、10時からとなっていましたが、少し過ぎて到着しました。バスが10分ほど遅れたのが要因ですが、これも想定内です。
ユージニア館を入ったところに拝観受付があって、そこで600円を払って、靴を脱いで上がると・・・。
先ず、案内により礼拝堂にとおされます。驚いたことに・・・この時間でほぼ満席の状態で、後から来た人は立見に。10時5分を過ぎて、ようやくガイドさんから案内が始まりました。
ここで和中庵の歴史について5分ばかり話を聞きました。ここはノートルダム女学院中学高等学校にあるので、夏休み期間中しか公開できないは仕方ないですね。写真撮影は受付で確認し、基本何処でもOKで、生徒さんに向けての撮影だけはNGでした。
1928年(昭和3年)に建てられた「和中庵」は滋賀県近江五箇荘出身の繊維製造販売業者・藤井彦四郎(1876~1956)が贅を尽くし、粋を凝らして建てた、鹿ヶ谷の山裾の林を開拓した広大な庭園を持つ邸宅です(彦四郎自身は1948年(昭和23年)まで住まわれてました)。1949年(昭和24年)にノートルダム教育修道女会が取得。修道院として改造、利用した後、2008年(平成20年)にされました。
約8分弱の話が終わると、次ぎに和中庵に行くように案内されました。再び袋に入れた靴を取り出し、靴を履いて向かう先には・・・。
平日にもかかわらず、今日が最終日ということもあって、多くの人が来られて・・・写真・・・撮りにくい・・・。
その洋館前には土蔵があって、今は資料館として使われてるそうです。洋館の前は広い芝生の庭となっていますが、先程の案内で、ここには主屋があったみたいです。
2008年(平成20年)に修道院に居たシスターの引っ越しが完了し、ノートルダム女学院中学高等学校に移管されましたが、老朽化のため、解体が決まってたそうです。ただ関係者の尽力により、老朽の激しかった主屋は解体されましたが、洋館と奥座敷(客殿)などは、耐震工事も終わって教育施設として活用されることになりました。
先ずは手前の洋館から入ります(座敷は渡り廊下で繋がってて奥にあるそうてす)。入ると靴を脱いで袋に入れ、2階に上がるように案内されました。
1階の洋間です。殆どの方は、ここを見ずに上がられてましたが、私は出遅れたので・・・この部屋が分かりました。ただ中には入れませんでした。
そして階段を上がって2階へ上がります。大理石の重厚な階段をスリッパを履いて上がって行くと、左手にホールがあって、既に案内が始まっていました。
当時の近江商人が贅を尽くした洋館だと聞きましたが、先に進むに連れ期待で、ドキドキしてきます。
2階のホールは、1959年(昭和34年)まで礼拝堂として、その後礼拝堂は、先程説明を聞いた、ユージニア館に移ることになります。そして礼拝堂の後は修道女の図書室や勉強部屋として利用されてたようです。
ここで、約5分ぐらい説明を聞きましたが、人数が多いのと、ホールで声が籠もるので聞き取りにくかったです。やっぱり・・・出遅れが・・・響きました。
こちらは、階段を上がって最初の部屋で、暖炉がありました。この部屋の先に奥座敷と繋がっている渡り廊下があって、最後に見学します。
2階の窓から下の広場を見ています。ここにかつて、主屋がありました。今は資料館として使われてる土蔵のみ見えます。
和中庵は、山裾にそって建てられているので洋館2階から渡り廊下を通って奥座敷(客殿)の1階に出ます。その渡り廊下の天井は、船底天井になっています。
ここまではレトロ感たっぷりの洋館を楽しみましたが、次からは一転、日本建築と変わります。渡り廊下からは、洋館の外壁も見えましたが、所々修復されているのが分かります。
奥座敷(客殿)に入ると、その広さに先ずは驚きます。大変暑いので、縁側に座ってゆっくりさせてもらいました。ここでも、ガイドさんから案内がありました。
戦後、彦四郎から修道院に売却されると、この畳の部屋は板張りに改築され、豪華な欄間は取り外され、質素な容貌に変わったそうです。
最初は、畳の部屋でしたが、修道院に売却されたら、この部屋は板張りとなり、またまた、ノートルダム女学院中学高等学校に移管されたら、畳の部屋に戻されました。
その時代によって変貌した部屋を感慨深く、ガイドさんの話を聞きました。汗を拭きながら外の庭を見ると、ちょうど百日紅が綺麗さいてくれてました。
庭を見ると、ノートルダム女学院中学高等学校の校舎が見えていますが、創建当時は京都の市外地を一望できたそうです。さぞかし見晴らしが良かったんですしょう。庭には降りにれませんが、下を見ると鞍馬石や貴船石が使われてて、庭も贅沢な造りをされてました。
この庭には、自然の川が流れてて桜谷川(さくらだにがわ)と言います。そのため、ここの地名は京都市左京区鹿ヶ谷桜谷町と言うそうです。
客殿に入って、右手前に、崖に張り出すように、ここだけ板の間の部屋がありました。聞くと「花見の間」と言うそうです。崖のせり出しは、渡り廊下から見れば確認できます。
約30分の見学時間でした。洋館と和室・・・どちらが空いてるかで、結構ウロウロしました。普段、学校の授業があるので、見学できる機会は少ないでしょうし、貴重なものを見せてもらいました。
帰りは、再びユージニア館から外に出ます。出たら真っ直ぐ下らず、今度は左の道を進みノートルダム女学院の正門の方に行きます。そのためノートルダム女学院の学生さん数名とすれ違いましたが、車も通れないほどの細い道をクネクネ進むと「哲学の道」に出ました。次の目的地は、すぐそこです。
【ノートルダム女学院中学高等学校 和中庵】