古代の豪族・大伴氏ゆかりの住吉大伴神社へ

福王子神社を9時44分に出て、前途した仁和寺の仁王門に寄りました。その仁和寺の境内を通って東門から出ると少し北上し、そして東に入るきぬかけの路に出ます。

画像
この時、時計は10時4分になってたので20分もかかったことになります。そのきぬかけの路には、住吉大伴神社の石柱が立っています。

きぬかけの路沿いの西側の鳥居から境内に入りました。この日、二番目の訪問は住吉大伴神社といいます。

画像
本当は南側の鳥居から入るですね、初めて来たので知らなかったです。道沿いに鳥居が見えたので入った次第です。

入ると本殿も手水舎も何も見えないのでおかしいなぁ・・・と思いつつ参道を進むと、左手に末社の小松尾大明神社がありました。

画像
画像
往古より十禅師権現社、斎ノ宮社、小松尾明神社が奉斎されていたが、現在は小松尾神社のみが残り、他の末社は小松尾神社に合祀されています。(境内にあった由緒書きによる)

そのまま進むと本殿の左横側に突き当たります。それで人一人通れるくらいの狭い通路を抜けると本殿前に出てきました。

画像
画像
画像
ご近所の方でしょうか、お一人参拝に来られて、その後を待って私もお参りを済ませました。西側の鳥居から入ったので仕方ないですね。

住吉大伴神社の祭神は、住吉三神の底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(おもてつつおのみこと)と、大伴祖神の天押日命(あめのおしひのみこと)、道臣命(みちおみのみこと)と由緒書きに書いてありました。

ここで見逃してしまいそうな小さな祠を見つけたので奥まで行ってみました。本殿右側の通路の先にありました。

画像
画像
小松尾神社斉明社と書いてありました。前途した由緒書きに書いてあった小松尾神社とは・・・ここの事でしょうかね・・・分かりません

この本殿は、境内の少し高い所にあって、社務所は上から見下ろすような感じです。先に参拝されてた方が先に社務所に向かわれ呼鈴を押されました・・・・。

画像
画像
画像
このように本殿は一段高い所にあります。本来は、南側の鳥居から入って、階段手前の手水舎に寄って、本殿に参拝するのでしょう。

本殿下の階段横にある手水舎です。綺麗な水が流れていました。西側の鳥居から入ったので順番が逆になりました。

画像
画像
画像
この手水舎の上に、宮司さんが手書きされた由緒書きがあったので参考にさせてもらいました。ただ文字が小さいので読みにくい・・・です

先程社務所で呼鈴を押されてましたが・・・反応・・・無し。そこに、また近所の方が来られて「社務所留守」「押したけど、出て来られんわ、また時間おいて来るわ」と。

画像
自分で呼鈴を押す前に留守と分かってしまいました・・・。少々ショックです。そこで書き置きの朱印を探すも無し・・・由緒書きも・・・無し・・・また来なくてはいけません

画像
先程の福王子神社と同じ時期に秋祭りがあるようです。10月16日・・・これがアップされる頃には・・・終わっていますね

画像
境内中央にあった、御神木でしょう。秋祭りの写真を帰って調べましたが、この境内が人で一杯になるほど賑わうみたいです。

こちらが本来の参拝順路である南側の鳥居です。けっこう立派な鳥居が立っていました。

画像
画像
この写真を撮っていると、またご近所の方が参拝に来られました。手水舎に寄られてから本殿へ・・・基本どおり・・・ただ社務所の方は帰って来られなかったです・・・残念。

住吉大伴神社は、古代の豪族大伴氏を祀る伴氏神社に住吉大神を合わせてお祀りしたことによります。最初、大和国にあって勢力を拡大していた大伴氏ですが、平安遷都によりこの地に移住し、その祖先の神“天押日命(あめのおしひのみこと)”を祀ったのが始まりです。大伴氏は上代の武門の家として物部氏と共に皇后を警護し禍乱を鎮圧して功を立てた一族であり、後に第53代・淳和天皇の諱が“大伴”であったことから大伴親王をはばかり伴氏と改めました。866年(貞観8年)「応天門の変」によって大納言・伴善男が伊豆に流されてから衰退し伴氏神社の名も世に疎くなっていきました。

この近辺にコインパーキングが無いので(探せばあるかも)社務所不在は、痛かったです。今日の予定はこれで終わり。仁和寺の駐車場に向かいました。

【住吉大伴神社 本殿】



この記事へのトラックバック