数奇な運命を経た霊石を祀る岩上神社へ

雨宝院の西門を出て上立売通りに出て西に進んで、最初の道を北に上がれば岩上神社に着きました。

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先程の雨宝院で朱印をもらってる時、時間があったので、一度ここまで来ました。徒歩1分の近さです。地元の方でしょうか、お手入れをされてる最中だったのて、今日は無理なぁ・・・と思ったんです。

そして、再び訪れたら手入れは終わられてました。社殿も何もない、ただ岩神様を祀る祠があるだけです。この小さな神社でも、手水舎がありました。

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ただ写真では分からないでしょうけど、蚊が一杯飛んでたんです。目視で分かるほど多くの蚊が・・・もう近寄りたく無いほどの・・・。

そしたら先程、お手入れをされてた近所の方が薬剤(多分)を散布して、再び来られました。「ここは蚊が多いです」と。参りました

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予備知識無しできたので、京都市の駒札を読むんですが、これだけ蚊が多いと長居は出来ません。帰ってたから写真で読んだ次第です。ただお参りだけはと思っても写真だけ撮って、早々と退散しました。

二条堀川付近にあった霊石が、六角通り(岩上通り六角辺り)に遷され、さらに中和門院(後陽成天皇の女御の一人で後水尾天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたといいます。吼え出したり、すすり泣いたり子供に化けたり、の類でありました。子供に化けたという伝説に因んで「禿童石(かむろいし)」と呼ばれたこともありました。持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院(れんじょういん)という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったという。その際に「有乳山 岩上寺」と称しました。以降、授乳、子育ての信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれたといいます。寺は1730年(享保15年)の大火「西陣焼け」で堂宇が焼かれ、1788年(天明8年)の「天明の大火」では荒廃の極みに達しました。明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に繊維業の千切屋(ちきりや)が敷地内に祠を構え、以降「岩上神社(岩上祠)」となって現在に至っています。数奇な運命を経た霊石の姿は、昔のままで現在に伝わっています。

雨宝院を地図で探してて偶然見つけた神社でした。地元の人達が大切にされ親しまれているのが分かりました。現在も授乳、子育ての信仰を集めているようです。

【岩上神社】



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